なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(39)「イエスをめぐる分裂」ヨハネ7:40-52

11月26(日)降誕前第5主日礼拝   

               

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。」

詩編100:1-2)

③ 讃 美 歌   149(わがたまたたえよ)

https://www.youtube.com/watch?v=olWsf8Ja_-0

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編17編1-12節(讃美歌交読文16頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書40-52節(新約179頁)

           (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     355(主をほめよ わが心)

https://www.youtube.com/watch?v=5lIETVCS6a4

⑨ 説  教   「イエスをめぐる分裂」       北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

森野善右衛門さんは『世の光キリスト』というヨハネ福音書の前半の聖書講解説教で、「福音書は、イエスを中心とする出会いの記録であり、イエスという鏡にうつったさまざまな人間群像を描き出している書物です。それは、その時代に生きた人間のドラマであると同時に、そこにはまた、現代に生きる人間の姿が映し出されて見えるのです」と言って、ヨハネ福音書7章の中から、⑴イエスの兄弟たち、⑵一般の群衆、⑶パリサイ人、律法学者たちという三種類の人間群像を取り上げて、その生き方、考え方を追求しています。それを参考にして、今日の箇所から、新共同訳の表題にありますように、「群衆」と「ユダヤ人の指導者たち」のイエスに対する姿勢を通して、私たちへの語りかけを聞きたいと思います。

 

40節の冒頭に「この言葉を聞いて」とありますが、「この言葉」とは、37節、38節で語られているイエスの<渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる>(新共同訳)です。<この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、「この人とはメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」。こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。その中にはイエスを捕えようと思う者もいたが、手をかける者はなかった>(40-44節、新共同訳)というのです。

 

群衆がイエスをどう見ていたのかということは、7章12節に既に記されていました。<群衆の間では、イエスのことがいろいろささやかれていた。「良い人だ」という者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた>(新共同訳)と。

 

福音書によれば、イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入城した時に、群衆は「ホサナ」と歓呼してイエスを迎えますが(ヨハネ12:12,13)、しかしその同じ群衆が、一転して「イエスを十字架につけよ」と叫ぶのです。「群衆心理は不安定であり、暗くよどんでいて、無方向です」(森野)。

 

しかし、群衆の中には、イエスを正しく知っていた人もいました。そういう人々は「良い人だ」(12節)、「この人はメシアだ」(41節)、と言っています。彼らのその知識は正しいのですが、知ることに留まっている限り、イエスの命が彼らを支配することはありません。正しい知識は、それだけでは傍観者の域をでません。「知ることから信じることに進ませるのは、決断への一歩であり、信仰は、正しい知識からさらに一歩を進めて、イエスに従うことへの志の問題となるのです。真なるものを知り、その方に自分の生き方をかける。そこに信仰への第一歩が歩み出されるのです」(森野)。

 

エスについての正しい知識とイエスへの信仰の違いについてはボンフェッファーも語っています。「わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、天にいますわが父の意志を行なう者だけがはいるのである」というマタイ福音書7章12節のイエスの言葉に基づいて、ボンフェッファーはこのように述べています。<「主よ、主よ」と言うことは、教会の信仰告白である。しかし、この信仰告白を口にする者がみな天国に入るわけではない。信仰告白をする教会のまっただ中を貫いて、選別が行なわれる。その際、誰も自分の信仰告白を引き合いに出して、天国に入ることを要求することはできない。われわれが正しい信仰告白に立つ教会の一員であるということは、神の前に何の特権ももたらさないのである>。<「『主よ、主よ』と言う者」とは、自分が主を肯定する言葉を語ったということを根拠として自分の権利を要求する人間のことである。「行なう者」とは、従順な行ないをする謙遜な人間のことである。前者は、自分の信仰告白によって自分自身を正当化しようとする人間であり、後者は、すなわち「行なう者」は、神の恵みに頼る従順な人間である。それゆえ、ここではまさに、「語る」という言葉が人間の自己義認を表す概念となり、「行なう」という言葉が恵みを表す概念となっているのである。「主よ、主よ」と言う者は、イエスから招きを受けたということを自分自身の権利にしてしまう。これに対して、神の意志を行なう者は、招きを受け、恵みを与えられ、そのうえで服従するのである。そしてその際に、彼は、自分の招きを権利としてではなく、裁きとして、恵みとして、また自分がただひとり服従しようとする神の意志として理解するのである。この行為こそが、自分を招いた方の恵みに対する正しい謙遜、正しい信仰、正しい信仰告白なのである>(ボンフェッファー『主のよき力に守られて~一日一章~』576―577頁)。

 

45節以下に出て来る「ユダヤ人の指導者たち」とは、「祭司長たちやファリサイ派の人々」です。彼らは下役を遣わして、イエスを捕えさせようとしました(32節)。ここではその<下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている」>(45-49節、新共同訳)と言われていて、彼らは群衆を軽蔑しています。

 

彼らは律法を何よりも大切なものと考えていました。しかしその熱心さはしばしば転倒して、本来律法は人間のためにあるものですが、彼らは人間が律法のためにあるのだと考えるようになっていました。しかしイエスは、律法をただ形式的、外面的に守るより、その内実、精神を生かすことを第一として、「安息日(律法)は人のためにあるもので、人が安息日(律法)のためにあるのではない(マルコ2:27)と考えられました。この点に、イエスファリサイ派の人々との一番大きな違いがあったのです。彼らの知識は、自分を誇り、律法を知らない大衆をその無知のゆえに軽蔑し、それによって他人を裁く者になったのです。「彼らは律法を人に教えながら、しかし自らそれを実行しない」(19節)、とイエスは彼らを痛烈に批判しています。…彼らは、指導者、教師といわれる人たちの持つ問題性を赤裸々に示しています。自分は常に人を教える者で、他人から学ぶことはなにもないと思っているのです。しかし、そのような教師意識こそ、イエスにとっては、神の前に砕かれるべき傲慢と自己義認のしるしだったのです。イエスファリサイ派の人々への批判は、「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」(ルカ18:9-14)に痛烈に語られています。目を天に向けようともしないで、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」とただ一言、小さな声でつぶやくように祈った徴税人こそ、イエスの目には神に義とされる人間だったのです。

 

このように「群衆」と「ユダヤ人の指導者たち」のイエスに対する姿勢は、それぞれ違いますが、しかしいずれもイエスを正しくとらえることができなかった人たちです。そしてそれぞれの人たちの中に、私たち自身の分身を見出すことができるのではないでしょうか(森野)。

そのような中にあって、50節以下に登場するニコデモは少し違うように思われます。<彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」。彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」(50-52,新共同訳)。

 

彼は、ファリサイ派の一人でありましたが、他のファリサイ派の人とはちがった心を持った人でした。彼は、まだイエスを信じたわけではなかったのですが、しかし頭からイエスを憎み、否定しようとはしていません。ファリサイ派の尊重する律法に照らして見ても、そういうことは正しくないと考えていたからです。ニコデモは、仲間のファリサイ派の人たちに言いました。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」(51節)。

 

このような発言を聞く限り、ニコデモという人はなかなか冷静で、真実味のこもった、勇気ある人物であるように思われます。そのような発言が、ファリサイ派の人としての自分にとって不利になることは百も承知の上で、あえてそのように言い切っているところからもそのことは分かります。しかし仲間のファリサイ派の人たちは、ニコデモのそのような良心の声を受けつけようとはしません。かえってニコデモに対してあらぬ嫌疑をかけるかのように、彼らは答えて言います、「「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」(52節)。

 

ニコデモは、少なくとも他のファリサイ派の人とは違って、心に渇きを持ち、求める心を持っていました。ニコデモはヨハネ福音書の19章39節でもう一度登場します。イエスの死後、ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子となったアリマタヤのヨセフと共に、イエスの死体を貰い受け、丁重に新しい墓に葬っているのです。このこともまた、当時としてはかなりの勇気を要する大胆な行為であったと言えるでしょう。

 

森野善右衛門さんは、このニコデモについて、このように言っています。「ここで想像力をたくましくして推察を進めると、ニコデモは恐らく、イエスの死後、ひそかにイエスの弟子となり、隠れキリスト者となったのではないか、ということが考えられます。その求道生活は長く、既に人生の老年に達していましたが、他のファリサイ派の人とはちがって、自分の律法でイエスをさばくことはせず、心ひそかにイエスを求めつづけたのでした。そのひたむきで真実なニコデモの姿を、ヨハネは特別に愛惜の目をもってとらえながら描いています」と。

 

キリスト者であり、イエスの弟子であるかどうかは、その外見によっては決められません。「信仰告白、教憲教規」を遵守すると言っていれば、自分はキリスト者、イエスの弟子であるというわけではありません。渇いた心をもって、「イエスの言い分を聞き、イエスのしたことを十分に知る」ように努め、イエスから与えられる新しい命によって生きる者こそが、キリスト者であり、イエスの弟子なのではないでしょうか。

 

「わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、天にいますわが父の意志を行なう者だけがはいるのである」というマタイ福音書7章12節のイエスの言葉を心に留めて、イエスに従って生きていきたいと願います。

 

主がそのように私たちを導いてくださいますように!

 

お祈りいたします。

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、今日の聖書箇所に出て来た群衆やユダヤ人指導者たちのように、イエスを否認することによって、イエスによって私たちにもたらされた人間解放の福音を拒絶することがないように、私たちを、イエスを信じ、イエスに従う者としてください。
  • そして少しでも私たちを通して、イエスの人間解放の福音が人々の光をなりますように。
  • 分断と戦争の現実が一刻も早く終わり、共生と平和な世界となりますように。
  • けれども、今も戦争をはじめ様々な苦しみの中にある方々を助けてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩   438(若き預言者

https://www.youtube.com/watch?v=g3ZYzbS8fBA

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。