なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(13)「世を愛する神」ヨハネ3:16-21

4月2(日)棕櫚の主日・受難節第6主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                          (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃美歌  309(あがないの主に)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-309.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編22編25-32節(讃美歌交読文24頁)

         (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書3章16-21節(新約167頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   487(イエス、イエス

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-487.htm

⑨ 説  教  「世を愛する神」           北村慈郎牧師

  祈  祷

 

今日は棕櫚の主日です。今日から受難週です。受難週は当然イエスの苦難と十字架を想い起こす時です。ヨハネ福音書の著者は、イエスの十字架を、この世と私たち人間一人一人を神が極みまで愛したもう出来事である、と語っているのです。

 

今日の聖書の箇所の最初の節3章16節は、神の愛を語っている新約聖書の中でも最も有名な言葉の一つです。このヨハネ福音書3章16節は、古くから「小福音」と呼ばれてきました。この小さな言葉の中に、イエスがもたらされた喜ばしき音ずれである「福音」が見事に言い表されているという意味で、この言葉を「小福音」と呼んで来たのです。

 

ここに語られています「世を愛する神の愛」は、ヨハネ福音書ヨハネの手紙全体を貫いている根本的なテーマの一つですが、そのことがこの個所ほど明確に出ているところはほかにはありません。3章16節を田川訳で読んでみます。

「何故なら神はそれほどに世を愛して下さったので、一人子なる御子を与え給うたのだ。彼を信じる者がみな滅びることなく、世が彼によって救われるためである」。

 

田川さんは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(新共同訳)とか、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった」(口語訳)のように、原文でこの節の冒頭にあるフートース(それほどに)は、「その独り子をお与えになった」(新共同訳)や「そのひとり子を賜った」(口語訳)にかかるのではなく、このフートース「それほどに」は前文を受け、「それほどに(以上述べたように)世を愛したので、その結果として一人子を与え給うた」となると言っています。本田哲郎さんも、田川さんと同じようにこのところを訳しています。「このように神はこの世を大切に思い、ひとり子を差し出した」。メール配信で説教と共に送っている説教箇所の日本語翻訳では、田川さんと本田さん以外の訳は岩波も、シュラッターも新共同訳や口語訳と同じです。

 

つまり16節は、イエスとニコデモとの対話を受けて、「何故なら神はそれほどに世を愛して下さったので、一人子なる御子を与え給うたのだ。彼を信じる者がみな滅びることなく、世が彼によって救われるためである」と語られているのです。

 

16節に続く17節では「世」(コスモス)という言葉が3回も出てきます。「というのも、神が御子を世に遣わしたのは、世を裁くためではなく、世が彼によって救われるためである」(田川訳)。

 

ヨハネ福音書の「世」は、<「あの世」に対する「この世」ではなく、神の真理を認めない、ないしはしらない者の領域はすべてひっくるめて「世」なのである。それは単にこの現実世界だけでなく、現実世界を超えた霊的世界であっても、神に反する限りはすべて「世」なのである。しかしまたこの著者はこの語をそういう価値観をこめた言い方だけでなく、単に「現実に存在しているこの世界」というだけの意味に用いることも多い。この場合がそうである。そういう場合は「この世」と訳すのがいいけれども、同じ単語を変幻自在に用いるわけのわからない語法がこの著者の特色なのだから、訳し分けない方がいい」(田川)ので、16節も17節も「世」と訳されていますが、このところの世は「現実に存在しているこの世界」を意味していると言えます。

 

今日の「現実に存在しているこの世界」を皆さんはどう思っているでしょうか。日曜ごとの礼拝司会者の祈りでもわかりますように、現在のこの世界の現実は悲惨な姿を露呈しています。ウクライナではロシアによる軍事侵攻で、1年が経過しても日々人の命が奪われています。1990年以降ソ連の崩壊によって東西冷戦状態が緩和し、世界の視線がグローバルサウス人々に注がれるようになりました。グローバルサウスの人々が世界の富を共有できるようになるために、富める国と貧しい国の格差是正という南北問題に光が当たりかけました。しかし、中国の台頭により、アメリカ一国の覇権主義から再び東西冷戦時代に逆戻りしかねない状況が、今この世界に起こっています。その狭間で日本も岸田政権は軍事力増強に踏み出しています。また、経済至上主義による繁栄が、富める者と貧しい者の格差を生み出しただけで、その繁栄がいかに偽りに満ちているかが明らかとなっていながら、政治は今も経済成長を求め続けています。東電福島第一原発事故を起こしていながら、岸田政権は原発再稼働だけでなく、新しい原発開発を進めようとしています。気候温暖化による自然災害も世界の各地に起こっています。これが、現在の「現実に存在しているこの世界」の一端です。

 

このような「現実に存在するこの世界」に向かって、このヨハネ福音書の言葉は語られているのです。「何故なら神はそれほどに世を愛して下さったので、一人子なる御子を与え給うたのだ。彼を信じる者がみな滅びることなく、世が彼によって救われるためである。というのも、神が御子を世に遣わしたのは、世を裁くためではなく、世が彼によって救われるためである」(16,17節、田川訳)。

 

「ボンフェッファーは、『見よ、この人』の中で、この神の愛と和解の御業のすばらしさを、次のように書き記しています。

 

「神は愛において、この世の現実を、その困難さの極みまで経験し、苦しみを身に受けたもう。この世はイエス・キリストの体に激しく襲いかかる。しかし苦しみながらも、キリストはこの世の罪をゆるして下さる。このようにして和解がなしとげられる。見よ、この人だ!」。

 

「見よ、この人だ――この人となりたもう神、世界に対する神の愛のこの測り知るべからざる秘儀を見よ。神は人間を愛して下さる。理想的な人間をではなくて、あるがままの人間を、理想的な世界ではなくて、現実の世界を、神は愛して下さる」。

 

私たちは「現実に存在しているこの世界」の悲惨さを嘆くだけでなく、この悲惨な現実の世界とこの世界で生きている私たち人間を、神は愛において、その困難さの極みまで共にしてくださり、その苦しみを身に引き受けていて下さるということを忘れてはなりません。「見よ、この人だ――この人となりたもう神、世界に対する神の愛のこの測り知るべからざる秘儀を見よ。神は人間を愛して下さる。理想的な人間をではなくて、あるがままの人間を、理想的な世界ではなくて、現実の世界を、神は愛して下さる」。

17節では、神が御子(イエス)を世に遣わしたのは、この悲惨な世を裁くためではなく、この世がイエスによって救われるためである、と言われているのです。私たちは、現実に存在しているこの悲惨な世界の只中に、神に遣わされた御子イエスが、福音書に記されているような生涯を生き、十字架の死を担い、陰府に降り、復活して弟子たちに現れ、天に昇り神の右に座し、聖霊によって今も私たちに命を送っていて下さっていることを信じているのです。それは、今現在の世界の現実においても同じではないでしょうか。とすれば、現実世界の悲惨を嘆くだけでなく、その悲惨な現実を露呈するこの世を神が愛するがゆえに、私たちに遣わされた主イエスがこの現実の悲惨を背負って、その悲惨から私たちを救い出すために臨在しておられることを見失ってはなりません。

 

愛とは、愛する対象のために最も価値あるものを惜しまずに与える行為です。「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」(Ⅰヨハネ3:16)とヨハネが書いている通りです。この第一ヨハネの言葉は、私の若い時の愛唱聖句でした。イエスは自分の命をすてるほど、私たち一人一人を大切にして(愛して)くださっていると言うのです。神の愛については、愛についての解説やことばの説明ではなく、イエスの生涯そのものがその愛を定義しているのです。なくてもよいものをあたえるのは愛ではありません。残り物や余分なものを捨てるのは、慈善であっても本当の愛からは遠いことです。自分にとって最も価値あるもの、捨て難いものを、相手のためにあえて捨てるところに愛があります。愛とは文字通り身を切ることです。奇跡とは、病人をいやしたり、人間の願望を何でもなかえて上げたりすることではなく、身を切るほどまでに、相手のために自分をさし出すところであり、そのような愛がイエスにおいて示されたということが、もっとも大きな奇跡なのだ、とヨハネは私たちにむかって語り、証ししているのではないでしょうか(以上ほぼ森野による)。

 

18節以下でヨハネは、裁きについて言及しています。

 

「彼を信じる者は裁かれることがない。信じない者はすでに裁かれてしまっている。神の一人子なる御子の名を信じなかったからである。裁きとはこれである。すなわち、光が世に来たのだが、人間たちは光よりもむしろ闇を愛した、ということである。彼らの行為が悪かったからだ」(18-19節、田川訳)。

 

裁きとは、人間が救われる人間と滅びるべき人間とに二分することではありません。なぜなら、神はこの世を愛し、すべての人を救いへと招いておられるからです。にもかかわらず、裁きは存在するのです。それはなぜでしょうか。ヨハネ福音書の著者は「信じない者はすでに裁かれてしまっている。神の一人子なる御子の名を信じなかったからである」(18節、田川訳)と言うのです。信じない者は、その不信仰のゆえに裁きを受ける、というのではないのです。「神の一人子なる御子」イエスは、「すべての人を照らすまことの光」(1:9)であり、この光は、人間の過去と現在のすべてを明るみに出します。このような光がこの世に来たということは、私たちにとっては、今や出会いと決断の時であることを意味しています。信じないということは、神の恵みの光に対して、心を閉ざして拒否することです。ヨハネにとっては、裁きは信じないことの結果もたらされることではなく、信じないということがすでに裁きなのです(18節)。裁きは将来にあるのではなく、神の御子、すべての人を照らすまことの光に対して心を閉ざして受け入れないという現在の姿そのものの中にあると言うのです。信じることの中にすでに救いがあるのであり、したがって「信じる者はさばかれない」(18節)と言われていますこのように、ヨハネにとっては、救いと裁きも、共に現在の事柄をしてとらえられています。

 

光にうつし出された人間の姿は、すべて例外なく闇の中にあります。すべての人間は、闇を愛し、滅びに向かって走っています。そして光が強ければ強いほど、闇も深くなって行きます。「信じる」とは、闇そのものでしかない自分の姿をうつし出されて、光であるキリストに向かってその生き方の方向を転換することであり、この決断の中に救いがあるのだと、ヨハネはここで語っているのです。

 

「真理を行なっている者は光に来る」(21節)とヨハネは書いています。

 

「すなわち悪質なことをなす者はみな光を憎み、光のところに来ない。自分の行為が糺されないためである。真理をなす者は光のところに来る。自分の行為が神においてなされた、ということが明らかにさるためである」(20-21節、田川訳)。

 

ものすごい悪が存在していると同時に、まことの光に向かって自分自身を転換し、キリストにあって生きている光の子も多く存在しているということもまた事実なのです。闇が深くなればなるほど、光の明るさはよりいっそうの輝きを増します。

 

闇が深まるほどに、まことの光としてのイエスの到来は、その喜ばしさを増します。「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」(ローマ5:20)とパウロが言っているように、光と闇、罪と恵みは混ざり合った形で、現実には存在しているのではないでしょうか。

 

「何故なら神はそれほどに世を愛して下さったので、一人子なる御子を与え給うたのだ。彼を信じる者がみな滅びることなく、世が彼によって救われるためである」。この言葉を噛みしめたいと思います。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を持つことができ、心から感謝いたします。
  • 今日は、ヨハネ福音書3章16節の有名な神の愛について記されているところから、語りかけを聞くことができ感謝いたします。この世を愛するあなたは、あなたにとって最も大切な御子イエスを私たちに遣わしてくださいました。そしてイエスを通して私たちすべてを光へと導いて下っています。こころから感謝いたします。
  • 神さま、どうか私たちがイエスを信じて、この悲惨な現実世界の中で光の子として生き抜くことができますようにお導きください。また、今も闇の支配の中で苦しむ人々にあなたの光を気づかせてください。共に光を見上げて、この闇の世を生きていくことができますように。。
  • 今もこの闇の世界には様々な抑圧が存在し、そのために苦しむ多くの方々がおられます。人が人を差別抑圧する罪から私たちを解放して下さいますように。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。特に今病の中にある方々を癒し、支えてください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

⑩    403(聞けよ、愛と真理の)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-403.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。