なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(19)「弟子たちの驚き」ヨハネ4:27-30

6月4(日)聖霊降臨節第2主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌    6(つくりぬしを賛美します)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-006.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編8編1-10節(讃美歌交読文10頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書4章27-30節(新約170頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   355(主をほめよ わが心)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-355.htm

⑨ 説  教  「弟子たちの驚き」        北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

先週はペンテコステの礼拝でしたので、ヨハネによる福音書ではなく、ルカ福音書の11章1-13節から私たちへの語りかけを聞きました。今日は、ヨハネによる福音書の続きに戻り、ヨハネによる福音書4章27-30節から、私たちへの語りかけを聞きたいと思います。

 

最初に、今日の箇所の前に記されていることを想い起こしておきたいと思います。それは、ヨハネによる福音書4章のサマリアの女とイエスの出会いの物語の前半(4:4-26)の最後になります。イエスと弟子たちがユダヤからガリラヤに行くに当たって、サマリアを通って行くことになりましたが、旅の途中疲れてスカルの井戸の傍らでイエスと弟子たちは休み、弟子たちは町に食べ物を買いに行って、イエスひとりがそこにいました。昼時でしたが、そこにサマリアの女が水瓶をもって水を汲みにやってきて、イエスとその女との出会いが起こります。<彼女にイエスが言う、「私に飲ませてください」>と。女に対するイエスの声かけから始まる二人の対話は、渇きをいやす水から、「永遠の命に至る水」と「霊と真理による礼拝」に発展していきます。そして、4章25節、26節になります。田川訳で読んでみます。<彼に女が言う、「メシアが来る、ということを私は知っております。つまりキリストですが、メシアが来るときには、私たちに一切のことを告げて下さる、と」。彼女にイエスは言う、「私だ、あなたに語っているこの私」>。

 

エスと女の問答は、始めは喉の渇きを癒す水をめぐる問答でしたが、そのうち人間の罪からの救いと解放をもたらすメシアの到来を巡る問答に深まっていきます。そしてイエスは女に、「あなたが語っているメシアはこの私だ」と言います。

 

それから、女とイエスの物語は後半へと続くのですが、その繋ぎに当たるのが、先ほど司会者に読んでいただいたヨハネによる福音書4章27-30節になります。

 

27節に<そしてその時彼の弟子たちが来て、彼が女と話しているので驚いた。しかしながら誰も、「何を求めておいでなのですか」とか、「彼女と何を話しておいでなのですか」などと言うことはしなかった>(田川訳)と記されています。

 

ここには、弟子たちは、「イエスが女の人と話しているので驚いた」と書かれています。弟子たちの師であるイエスは、旅の疲れを感じておられたはずなのに、労をいとわず井戸端で女と、それも見知らぬサマリアの女と語り合っていたからです。その姿は、弟子たちにとって不思議に思われました。それは彼らの期待に反する光景であったと思われます。自分たちの師である方がなすべき行動とは思えなかったので、彼らは当惑し、驚いたのでしょう。

 

弟子たちが、サマリアの女と話していたイエスに驚いたのには、いくつか理由が考えられます。一つは、当時のユダヤ人にとって、イエスのようなラビ(教師)が女の人と対面で話し合うということは、あり得ないことだったからです。当時は女の人は男の人と対等な存在ではありませんでした。今で言えば、女性差別がまかり通っていたのです。もう一つ考えられるのは、ユダヤ人とサマリア人との間にあった民族差別です。ユダヤ人は血の純潔を誇っていて、異教の人の血が混ざっているサマリア人を見下げていたのです。そういうサマリアの女とイエスが話しているので驚いたのでしょう。

 

この場面で弟子たちがイエスの振る舞いを見て持った感情は、聖書中ここだけのものではありません。イエスが取税人や律法違反者である罪人らを身元に引き寄せ、その群に加わるのを許される時、パリサイ人らは驚いて、「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする」と叫んだと言われています(ルカ15:2)。弟子たちからだけではなく、パリサイ人からもイエスの振る舞いは驚くに値するものであったと言うのです。

エスは、その人が女であるとか、サマリア人ユダヤ人ではないという、その人間の属性は問題にしません。神に命与えられたその人個人と向かい合うのです。このイエスの振る舞いへの弟子たちの驚きは、イエスと向かい合って話をしていたサマリアの女の振る舞いへの驚きでもあるのではないでしょうか。イエスが女に向かって、自分がメシアだと告げられると、<それで女は水瓶を置いて町へと去った。そして人々に言う、「おいでよ。私のしたことをすべて話してくれた人を見てごらん。あの人こそキリストじゃないかしらん」>(28,29節、田川訳)と言うのです。彼女が家から出て来たのは、水をくむという明白な目的を持ってでありました。井戸で水を一杯にして持ち帰るためにと、大きな水瓶を運んで来ていました。だが井戸のほとりで、イエスと出会い、イエスとの問答を通して、彼女は、新しい心を与えられ、新しい関心の対象を見出したのです。彼女は新しく造られた者となりました。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。その時、他の一切のものが、しばし忘れ去られ、今しがた耳にした真理と、出会った救い主以外のことを考えることができませんでした。心を満たされた彼女は、「自分の水瓶を置いて」その気持ちを他の人に語るために走り去っていったのです。

 

先週の日曜日はペンテコステ聖霊が弟子たちに降ったと言われる日でした。このサマリアの女の変容にも、聖霊の恵みの迫力が認められるのではないでしょうか。聖霊はその人からそれまでの興味や関心を追い払ってしまいます。信仰に入った人は、かつて気にした事柄を気にしなくなります。世界全体が変って見え始め、すべてが新しく感じられるようになるのです。取税人マタイもそうでした。イエスを通して神の恵みが心に入った瞬間に、収税所を離れていきました(マタイ9:9)。ペテロ、ヤコブヨハネ、アンデレも同様でした。彼らは回心するとすぐ、魚取りの網と舟とを置き去りにしました(マルコ1:18)。パリサイ派のサウロも同様でした。キリストを信じる者となるとすぐ、それまで軽蔑していた信仰を宣べ伝えるために、ユダヤ人としての輝かしい未来のすべてを放棄したのです(使徒9:20)。このサマリアの女の行動も、全く同じです。その時見出した救いによって、彼女の心は全く占領されてしまったのです。彼女が水瓶を取りに戻ったかどうか、もはや問題ではありません。ともかく、初めて本当の命に目覚めた時、「水瓶を置いて」立ち去ったのは事実であります。

 

このように聖書に記されている、イエスを通して神に出会い、神の命に目覚めた新しい人としての振る舞いは、現在私たちキリスト者の中でも余りみかけられなくなってしまっているのではないでしょうか。このサマリアの女は、イエスと出会って神の命に目覚めた時に、自分が井戸に水をくむために来たことを忘れてしまったかのように、町に戻って人びとにイエスの所に「来て、見なさい」と言いに行ったのです。この女にとって水をくむことは、この世のことで、この世で生きるためには必要不可欠なしごとなのですが、イエスと出会って、それ以上に大切な罪人である人間の救いを与えられたということでしょうか。この世の住人である以上に神の国の住人にイエスによって招き入れられたことの喜びでしょうか。彼女にとって優先するものが、今までとは全く変わってしまったのでしょう。これは彼女の生き方の方向転換である回心の出来事といえると思います。そのような行動が私たちキリスト者の中にも余りみかけることができないということは、神への真の回心がまれになってしまっているからではないでしょうか。<自分の罪を正しく感じ取ってキリストへの信仰に至る人が少ない。本当の意味で滅びからいのちへ移り、新しく造られた者となる人が少ない>ということです。しかし、数は少ないが現代でも真のキリスト者が存在すると思います。<サマリアの女のように、その信仰を他の人にも伝えたいと願う人たちがいます。この女の気持ちを体験的に知っており、パウロといっしょに「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています」(ピリピ3:8)と言い得る人は幸いです。キリストのために他の一切を放棄でき、あるいは相対的な価値しかない一切のものを心の内で整理できる人は幸いであります。「もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るい」(マタイ6:22)からです>。

 

私は、帰天された関田寛雄先生は数少ないこのようなキリスト者の一人であったと思っています。関田先生は、「そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである」というピリピ書の言葉に触れてこのように述べています。「彼が『切実な思いで待ち望むことは、わたしがどんなことがあっても恥じることなく…』と告白する所に私は深い共感を憶えるのである。私自身の生涯を回顧する時、恥多き躓きを残した経過であった。それはひとえにキリストのとりなしの憐れみによって生かされてきた道であった。今、病と弱さを得て思うことは、『生きるにしても死ぬにしてもこの身によってキリストがあがめられること』以外に生きる意味がないということだ。そこに主の前に『独り生きること』の恵みと喜びを思わざるを得ない。かくて残された生(今なお約束されている生と言うべきか)の内容は、罪のゆるしと傷の癒しを与えられた者として、使命に生きること以外にないのである」(『目はかすまず 気力は失せず~講演・論考・説教~』から)。

 

サマリアの女は町へ行き、人びとに≪「おいでよ。私のしたことをすべて話してくれた人を見てごらん。あの人こそキリストじゃないかしらん」≫(29節、田川訳)と言ったといいます。彼女は信仰を与えられた日に宣教する者となりました。<キリストから受けたすばらしい恩恵にいたく感動し、その方について冷静であることができませんでした。アンデレがイエスについて兄弟のペテロに語ったように、ピリポがメシアと出会ったとナタナエルに告げたように、サウロが回心してすぐキリストを宣べ伝えたように、このサマリアの女は、「来て、(キリストを)見てください」と訴えました。彼女はややこしい論述は用いませんでした。イエスがキリストであると語ったことに関して、難しい説明も試みでいません。ただ、「来て、みなさい」とだけ告げました。心からあふれ出ることばを口にしたのでありました>。

 

ここでサマリアの女がなしたのと同じように、もし私たちがイエスをキリストと信じているとするならば、神の恵みを与えられ、キリストの愛を味わった者として、キリストを隣人に証しすることばを見出すでしょう。関田先生が、「『生きるにしても死ぬにしてもこの身によってキリストがあがめられること』以外に生きる意味がない」と仰っていることを噛みしめたいと思います。

 

弟子たちは、イエスサマリアの女が話していたのを見て驚いたわけですが、この時の弟たちは、一人一人自分がイエスと出会って、イエスに従った時のことを忘れてしまっていたのかも知れません。人びとがイエスと出会い、新しく変えられて生きていくようになることは、喜ばしいこと、神に感謝すべきことであって、<本当に驚くべきなのは、神を敬わない人々の強情な不信仰であり、滅びの道に進むいちずな頑固さ>ではないでしょうか。イエスは信仰的回心を父なる神に感謝し、不信仰を驚かれたと記されています(マタイ11:25,マルコ6:6)。 

 

エスが現代の世に生きていたら、戦争と核の危機や気候変動の危機に見舞われ、死と滅びに向かうかに思えるこの世を生きる人びとを救うために十字架を担っておられるのではないでしょうか。私たちも自分の十字架を背負って、イエスを通して与えられる神の救いのために少しでも働くことができれば幸いです。

 

主がそのように私たち一人一人を導いてくださいますように!

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、私たちがイエスの弟子たちの驚きに留まるのではなく、この世の不信に驚くイエスの驚きに連なり、死と滅びからの救いのために少しでも働くことができますようにお導きください。
  • 岸田政権は、軍事力の拡大にしても、原発入管法改定にしても、人の命と生活を脅かす政策をすすめ、平和から逆行しているかに思われます。どうか政治が平和を造り出し

一人一人の人権を守る力になりますように。

  • 今この世界の中で傷つき、苦しみ、命と生活が脅かされている人々をあなたが支えてください。私たちに分かち合う力を与えてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。特に今病の中にある方々を癒し、支えてください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩    402(いともとうとき)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-402.htm

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

 

※この日の説教の<  >の引用は、古典的な聖書講解であるライルからのものです。