なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(575)

船越通信、№575 2023年7月16日(日)北村慈郎

 

  • 9日(日)の礼拝には初めての方が出席しました。教団における私の戒規免職処分のことで私のことを知って、訪ねて来られたのです。現在は聖公会の信徒とのことですが、以前は兵庫の教団の教会に属していて、その教会は洗礼を受けていない人にも開かれた聖餐を行なっていたようです。兵庫ではそういう教会は結構あるので、私が教団から「開かれた聖餐」を理由に戒規免職処分を受けたことには疑問をもっていたようです。まだ若い方でしたが、私の問題に関心を持って下さっていることは力強い限りです。特に私に話があったわけではないようで、礼拝後役員会前に参加できる方で昼食をいただきましたが、彼もいっしょに昼食会に参加してから帰って行きました。教団ではどうも私の名前が知れ渡っているようで、その人物を一度自分の目で見たいと思って、彼は船越教会の礼拝に来たのかも知れません。この日はその後7月の役員会を行ないました。役員会では、この4月から関田先生に代わって船越教会の代務者になっていただいた元住吉教会の三宅宣幸牧師に、9月から10月にかけてのどこかの日曜日に船越教会の礼拝説教をお願いすることにしました。また、私の夏期休暇の日曜礼拝は8月13日(日)にし、その日は信徒講壇にしてWさんにお願いすることにしました。少し先になりますが、紅葉坂教会が130周年記念事業の一環として歴代牧師に説教を依頼していて、私も頼まれ、来年1月14日(日)にさせてもらいました。そこでこの日の船越教会の礼拝は信徒講壇にして、Hさんに担当していただくことにしました。その他の役員会の議事は定例的なものでした。役員会は午後1時前には終わりました。その後散会し、私は午後2時過ぎのバスで追浜に出ました。ところがこの日は追浜はお祭りがあって、バスは追浜駅前までは行かずに、一つ手前のバス停で降ろされてしまいました。そこから追浜までの道路は自動車を遮断して、両側の歩道は出店がでていて、道路はお神輿を担ぎ、山車を引くグループが使っていました。テレビで観る京都の祇園祭や岸和田のだんじり祭りのようなド派手な感じではありませんでしたが、それなりの高揚感が感じられました。祭りは日本の風物詩のようなものですが、都市化が進み、一部商売と結び付いてこれからも残っていくところはあるでしょうが、地域社会の祭はほぼ死滅していくか、形を変えて行くに違いありません。バス停一区間でしたが、人波をかき分けながら歩いて、京急追浜駅に出、鶴巻に帰ってきました。鶴巻に帰ったら、娘が夕食を用意していてくれて、早夕食をいただき、その後ゆっくりくつろぎました。娘は午後9時過ぎに、鶴巻の農家の野菜を独り身の弟に持って行くのだと、大きな荷物を持って横浜に帰っていきました。
  • この週は予定していた2回の外出を止めて、ずっと鶴巻に引きこもった生活をしました。特に毎週木曜日の国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みには、鶴巻を出かけようとしましたら、雨が降って来て、パソコンで東京都心の天気予報を調べましたら、午後降雨のパーセントが高かったので、いつも一緒に参加している仲間の一人に連絡し、この日は休ませてもらいました。
  • 10日(月)にN・Mさんかお手紙をいただき、その中に私の支援会の事務局長をして下さっているK・Hさんとは、Nさんご夫妻が茅ヶ崎に住んでいた時に面識があり、一度茅ヶ崎のNさん宅にKさんがお訪ねしたことがあったことが記されていました。Kさんはその頃藤沢市の職員で、Nさん夫妻はKさんから藤沢市のことで貴重な意見をいろいろお聞きしていたようです。KさんはNさん宅を訪ねて来た時、その頃は肝臓の検査をしていて、その時もNさん宅で倒れ込むように横になったというのです。その時はそのままKさんは帰られ、それ以後時間が過ぎて、Kさんが私の支援会の事務局長をして下さっていることを知り、N・Mさんは「ほっとしました」と言うのです。今Kさんは連れ合いの旧姓K・Rさんと、沖縄のことも頑張っていることを憶えて、感謝しているので、「何かのついでにお二人に感謝し祈っていることをお伝え頂ければ嬉しいです」と、お手紙にありました。たまたま12日(水)に、Kさんは鶴巻の私の所に来ることになっていました。しばらく前に行った支援会のZoomによる世話人・事務局会で、その時Kさんは沖縄にいて、お連れ合いと共に沖縄から参加しましたが、お連れ合いがその時の私の顔を見て、私が痩せているので、沖縄から帰ったら、栄養のあるお弁当を買って私と一緒に食事をするようにというので、Kさんから12日に鶴巻に来るという連絡をもらっていたのです。そこで、N・Mさんにはその時にKさんにはN・Mさんの思いをお伝えすることを約束するお手紙を出しました。12日(水)昼頃Kさんは鶴巻にやって来て、弁当よりも直接お店で食べたほうが美味しいのでと言って、自動車で連れていってくださった241号線沿いのお店で一緒に食事をした時に、KさんにはN・Mさんの思いをお伝えしました。人と人とのつながりは不思議なものだと、改めて思わされました。
  • さて私が参加しています、国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みは、米軍普天間飛行場の移設に伴う、名護市辺野古の新基地建設のボーリング調査着手を阻止しようと2004年4月19日から始まった辺野古浜テントの座り込みに対応して行われるようになりました。その頃帰天した連れ合いに伴って、私も数度辺野古浜テントの座り込みに参加したことがあります。東京新聞の「話題の発掘」欄に時々「辺野古・高江リポート」(琉球新報)が掲載されています。本年6月20日の「辺野古・高江リポート」は「辺野古浜座り込み7000日に」と題されていました。国会前の座り込みは、この辺野古浜の座り込みから、そう隔たっていない時期に始まりました。何れにしても、もう20年近い時間が経過したことになります。上記記事には、7000日を覚えて行われた辺野古浜の集会では、「地元住民を代表して渡具智佳子さん(61)は、『座り込みが始まったときに生まれた娘は21歳になった。皆さんの気持ちが一つである限り、基地は未来永劫建設できない』と呼び掛けた」と記されていました。山城博治さんの「沖縄は絶対にあきらめない」という言葉が響いて来ます。