なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒へ手紙による説教(12)

今自宅で、今日の礼拝を下記の式文によって守りました。いつもなら今は礼拝の時間ですが、下記に今日の礼拝式と説教原稿を掲載します。

 

8月15(日)聖霊降臨節第13主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでNさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」          (ローマ5:5)

③ 讃美歌      202(よろこびとさかえに満つ)

 www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-202.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編128編1-6節(讃美歌交読詩編144頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   ローマの信徒への手紙2章17-24節(新約275頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  430(とびらの外に)

 www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-430.htm

 

⑨ 説  教    「神を侮る者」        北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 今日はロマ書2章17節から24節の箇所から語りかけを聞きたいと思いますが、2章16節までロマ書を、今回改めて読んできて、少し感じていることがあります。それは、私たち自身と神=イエス・キリストとの関係と、私たち自身と他者である隣人との関係という位相の違う二つの関係を私たち信仰者は自覚的に生きているのだと思いますが、この二つの関係が、自分の中で正しく受け止められているのか、ということです。

 

  • 私は、神関係を第一義、隣人との関係を第二義として、その大切さに段階を付けて理解するあり方を批判してきました。70年以来社会的な問題に対して教会やキリスト者がどう関わるのかが問われてきました。信仰にとって大切なのは、私たちと神との関係であって、人と人の関係は二義的であると言って、その問いに対して、まともに応えようとしない教会やキリスト者の信仰に疑問を持ってきたからです。

 

  • ですから、私は、キリスト者にとって、私たち自身と神との関係において私たち自身と隣人との関係が問われ、私たち自身と隣人との関係において私たち自身と神との関係が問われているというように考えてきました。神関係=人間関係、垂直関係=水平関係というように、確かに位相的には両者は独立していますが、両者は切り離すことができない、相関関係にあると考えるべきではないか、とです。

 

  • 今日のロマ書の箇所の説教準備をしていて、ある人の『講解説教、ローマ人への手紙』の2章の講解の中に記されていました、「聖書は、人間は滅ぶということを説いているのです。だから、キリストの十字架の贖いが必要なことを説いている。それ以外のことを説いておりません。この世において他人を愛せよとか、これこれのことをせよということは、後に付随してくるセカンダリーの(第二義的な)問題です」という言葉に出会いました。

 

  • 二義的かどうかはともかく、信仰者の行為の問題は、滅ぶべき者がキリストの十字架の贖いによって救われて生きることができるようになった信仰者の問題であることは間違いありません。神=イエス・キリストとの関係において、私たちがどれだけ根柢的に変えられているかということが、順序としてはまずはじめにあることは、その通りだと思います。勿論神=イエス・キリストと隣人である他者との関係は、往還関係ですから、実際には両者の関係を行ったり来たりしながら、私たちは信仰の生活を送っているわけです。

 

  • そういう往還関係の中で、自分が信仰者とし少しでもて成長できているのか、不安になることがあります。イエスを信じていると言いながら、いろいろ思いはあっても、実際にはこの世と妥協して生きているのではないかという不安を払しょくできないでいるのです。

 

  • そんな時に新型コロナウイルスパンデミックの中で、他者である隣人との接触を極力少なくせざるを得なくなり、自粛生活の中で自分を見つめなおす機会が与えられているように、この時を受け取り、たまたまロマ書を説教テキストにしましたので、パウロが問題にしています福音において、神=イエス・キリストと私たち自身との関係を見直す機会にできればと思っている次第です。

 

  • さて、ロマ書2章1節以下はユダヤ人の罪を問題にしているのですが、ユダヤ人とはっきり明記されているのは、今日の2章17節が初めてです。17節で、「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り」(新共同訳)(田川訳は「あなたはユダヤ人という名前で呼ばれ、」)とあり、ここで初めてユダヤ人と明記されています。<これまでユダヤ人は、「律法の下にある者」(2:12)、「律法を聞く者」(2:13)などと三人称で言及されてきたか、あるいは二人称で呼びかけられる場合も「すべて人を裁く者よ」(2:1)と一般的な装いの下で言われていたが、2章17節になってパウロは彼らに対して初めて二人称で「あなたはユダヤ人と名乗り…」と明確に名ざして立ち向かう。この「ユダヤ人」は、明らかに異邦人と対比され、唯一の神を信じる者の誇り高き自己呼称である>(川島重成)のです。

 

  • そのユダヤ人について、17節から20節で、パウロはこのように述べています。
  • 田川訳でその個所を読んでみます。≪あなたはユダヤ人という名前で呼ばれ、律法を安んじ、神を誇りとし、(神の)意思を知っており、律法に教えられて(何が)すぐれたことなのかを検証することができ、自分が盲人たちの導き手、闇の中にいる者たちの光、無考えな人たちの教育者、未成熟な者たちの教師であると自認し、自分は律法の中に知識と真理の形を持っていると思っておいでだが、≫と。ここには、ユダヤ人の自己認識がさまざまに言い換えられて、記されています。

 

  • 19節の「盲人たちの導き手」「闇の中にいる者たちの光」は、イザヤ書42章6~7節、49章6節では、「ヤㇵヴェの僕」について言われています。そのことからして、パウロはこれらのユダヤ人の自己認識を端から否定しているわけではありません。これらは本来、ユダヤ人が特別に与えられた選びを表す言葉です。17節の「神を誇りとし」も、エレミヤ書9章23節にあるように、それ自体で批判の的となっているのではありません。「誇る」とは、「信頼する」と同義であると言ってもよいのです(川島重成)。

 

  • この17節から20節までだけを読みますと、パウロは、このさまざまに言い換えられて述べられているユダヤ人の自己認識を、否定も肯定もせずに、ありのままに記しているにすぎないように思われます。けれども、21節以下を読みますと、明らかにパウロはそのようなユダヤ人の自己認識を批判していることが分かります。

 

  • 21節、22節で、≪他人を教えるあなたが、自分自身を教えることはしないのか。盗むなかれと告げるあなたが盗むのか。姦淫するなかれと言うあなたが姦淫するのか。偶像を忌避するあなたが神殿泥棒を働くのか≫(田川訳)と言われています。

 

  • パウロは、ユダヤ人は自分は正しいと思っていて、自分自身に刃を向ける必要がないという誤った自信に陥っていると考えていたのではないかと思います。それは、かつての自分自身の姿だったので、ユダヤ人の陥っている過ちを、パウロはよくわかっていたからではないでしょうか。

 

  • パウロは、フィリピの信徒への手紙3章1節以下の、ユダヤ主義者への警戒を語っているところで、ファリサイ派の律法学者であった過去の自分を振り返って、このように語っています。≪わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころない者でした≫(フィリピ3:5,6)と。

 

  • そして続けて、≪しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切の損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです≫(フィリピ3:7-11)

 

  • 今立っているこのパウロの地点から、かつての自分と同じユダヤ人の実体をパウロは、このロマ書2章で描いているのです。≪他人を教えるあなたが、自分自身を教えることはしないのか≫(21節、田川訳)。≪律法を誇るあなたが、律法の違反によって神の名誉を傷つけるのか≫(23節、田川訳)と。そして≪というのは、正に聖書が書いているとおり、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人たちの間で、冒涜されている」からである≫(24節、クランフィールド訳)と言うのです。

 

  • ≪「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人たちの間で、冒涜されている」≫とは、ユダヤ人にとっては、最高の侮辱ではないでしょうか。そこまで、パウロユダヤ人の過ちを徹底的に批判しているのです。

 

  • 私たちは、自分自身が陥っている過ちを自分自身で気づくことはなかなか出来ません。法に触れたり、犯罪を犯していなければ、私たちは自分をまあまあまともな人間だと自認しながら生きているのではないでしょうか。もし聖書を通してイエスと出会わなければ、的外れな自己中心的な己に気づくこともなかったのではないでしょうか。しかし、その信仰が、長い信仰生活の中で自分の誇りに転化していくことがありはしないでしょうか。

 

  • 私は、今日のユダヤ人の罪を語るロマ書の箇所を、何度も読んでいるうちに、この個所の「律法」を「聖書」に置き換えて読んでみると、この個所は私たちキリスト者に向けて語られている言葉に読めるのではないかと思うようになりました。律法を聖書、ユダヤ人をキリスト者、異邦人を非信者と変えて、この個所を新共同訳で読んでみたいと思います。

 

  • ≪ところで、あなたはキリスト者と名乗り、聖書に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、聖書によって教えられて何をなすべきなのかをわきまえています。また、聖書の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行なうのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは聖書を誇りとしていながら、聖書を破って神を侮っている。「あなたたちのせいで、神の名は非信者の中で汚されている」と書いてあるとおりです≫。

 

  • 実は、この読み方は自分で気づいたのですが、内村鑑三の「ロマ書研究」のこの個所の中に、私が気づいた読み方とほとんど同じことが書かれています。内村は、「律法」を福音と、「ユダヤ人」を基督信者と、「異邦人」を不信者と読み替えています。「パウロは右の如く其同族たるユダヤ人を責めた、彼もし今の世に甦りしならば彼は此儘(このまま)の語を以て其同族たる基督教徒を責むるに相違ない、読者もし右の語の中の「ユダヤ人」を基督信者と改め、「律法」を福音と改め「異邦人」を不信者と改めて読む時は、大体に於てそれが今日の謂ゆる基督信者を責むる語として頗(すこぶる)適切なるを覚ゆるであろう、自ら信者を以て誇りて不信者を蔑視しながら実は不信者と等しき、又は尚ほ甚しき醜さを呈して居る者が今や世界に頗る多い、彼等は皆パウロ時代のユダヤ人である、正にパウロのこの叱責を受くべき輩である」。内村はこのように言っているのです。

 

  • エス(・キリスト)を信じる信仰が、いつのまにか人間の一つの徳のようなものになってしまっていて、イエス(・キリスト)との関係としての信仰が本来持っている緊張感を失ってしまったとき、パウロユダヤ人を責めるこのロマ書の言葉が、私たちキリスト者に向けられた言葉になることを覚えたいと思います。

 

  • ≪わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえれているからです≫(フィリピ3:12)という、パウロの信仰の姿勢を私たちの失わないように、命ある限り、イエスに従って歩んでいきたいと願います。

 

 

祈ります。

 

  • 神さま、新型コロナウイルス感染拡大が収まりません。今日も教会で皆が集まって礼拝をすることができません。メール配信による自宅での分散礼拝になりますが、それぞれ礼拝をもって新しい週の歩みに向かうことができますようにお導き下さい。
  • 神さま、私たちの信仰が、どこまでも追い求めて行く、その過渡性を失って、自己満足に陥ったときには、信仰も形骸と化すことを、自戒させてください。
  • 今日は敗戦の日です。思いを新たにして、私たちが平和をつくり出す者として、それぞれの場において立つことができますように、導きとその力とを与えて下さい。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     300(十字架のもとに)

www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-300.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。