「信仰によって生きる」ガラテヤ3:1-9 2016年4月10日船越教会礼拝説教
・ある人は、信仰というのは水道の管のようなものだと言います。水源から送られてくる水は、管を通して
私たちのところに届き、その水を私たちは飲むことが出来ます。そのように水を私たちは受けるのであって、
水は私たち自身の中にあるものではありません。私たちは、渇きを覚える度にその水を飲み、癒されます。
命を与えられて生きていくことができます。
・この譬えからしますと、水源から送られてくる水である命は、私たち自身の所有物ではありません。与え
られるもの、受けるものです。私たちの中にあるもの、私たちの中から出て来るものではありません。私
たちの外にあるもので、外から私たちに注がれるものです。
・以前に私が紅葉坂教会の牧師だった頃、何回か日曜学校の夏期キャンプで、山梨県の道志村の民宿に行っ
たことがあります。道志村は山梨県と神奈川県が接している山梨県側にある所で、私たちはバスで行きまし
たが、富士五湖の一つである山中湖から道志村に行きました。船越教会は横須賀にありますが、紅葉坂教
会は横浜にあります。実はその横浜の水は水源が道志村にあるのです。道志村には川が流れていて、その川
で子どもたちと水遊びをしましたが、この道志村の川の水が横浜市の水道の水源になっているのであります。
横須賀市の水源がどこにあるのかは知りませんが、それぞれの家庭で水道の蛇口をひねれば、水が出て来て、
飲み水にも、食事の用意にも、掃除や洗濯にも、また風呂やトイレにも使われて、水は私たちの生活には欠
かせないものになっています。
・最近日本では余り聞きませんが、夏に雨が降らず、ダムの水量が少なくなって、節水をしたり、断水にな
ったりすると、私たちの生活そのものに大きな影響がでます。昔は日本でも干ばつで、生きていけなくなっ
た人が出たのではないでしょうか。今は人間の技術が進歩して、先進国ではそういうことは起きないでしょ
うが、今でもアフリカなどでは、干ばつによって人が沢山死んでしまうことがあります。
・私たちにとって、水は受けたものであるように、パウロは、信仰もまた神の命の力である「霊を受けたの
は、福音を聞いて信じたから」ではないのかと、ユダヤ主義者に影響されて、割礼を受け、律法を守ってい
るからと、自らを誇るガラテヤの人たちに向かって問いかけているのです。先ほど司会者に読んでいただい
たガラテヤの信徒への手紙の箇所でのパウロは、大変厳しい言葉でガラテヤの人々に語りかけています。
・<ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前にイエス・キリスト
が十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか>(3:1)とか、<あなたがたは、それほど物分かり
が悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか>(3:3)と語っているのです。
パウロは、ガラテヤの人たちが「物分かりが悪い」と、二度も言っているのです。「だれがあなたがたを惑
わしたのか」と、「惑わす」と言われていますが、この言葉には「魔法をかける・魔力で魅惑する」という
意味があります。パウロは、ガラテヤの人たちは「物分かりが悪い」、つまり「理解力・判断力がない」と
いうだけでなく、悪魔的な力によって魔法をかけられて、惑わされてしまっているのではないかと言ってい
るのであります。
・パウロは、ただイエス・キリストを信じる信仰による義によって生きるのではなく、割礼や律法を誇りと
しているガラテヤの人たちを見て、かつて自分が割礼を受けたユダヤ人であることを誇りに思っていた時に
侵した過ちのことを思い出しているのかも知れません。そのようなユダヤ主義者としてパウロは、回心前に
はキリスト教徒を迫害し、獄に入れ、死に至らしめていたのです。肉を誇ることの恐ろしさ、その犯罪性に、
キリスト教徒迫害のために急いでいたダマスコ途上で、復活の主イエスとの出会いによって気づかされなか
ったとすれば、パウロはガラテヤの人たちと自分は全く同じだったという自戒を込めて、パウロは、ガラテ
ヤの人たちのことを、「物分かりが悪い」とか「惑わされている=悪魔的力によって魔法をかけられている」
とこの手紙で書いているのではないでしょうか。
・フィリピの信徒への手紙3章に、ガラテヤの人々を惑わした、割礼や律法も無くてはならないとするユダヤ
主義者に対して、パウロは「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに警戒しなさい」と記して
います。「あの犬ども」という言葉も差別的ともいえるすごい言葉ですし、「よこしまな働き手」という言
い方も絶対に認められないという思いが表わされていますが、パウロはユダヤ主義者に対してそのように言
っているのです。そして「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち(ユダヤ人)を警戒しなさい。彼らではなく
、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り
とし、肉に頼らないからです」と言って、自分はユダヤ人の中のユダヤ人で、そのような肉を頼り誇ろうと
すれば、誇ることができるが、イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今ではそのような肉
の誇りは塵あくたとみなしていますとまで言っているのです。続けてパウロはこのように記しています。<
わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えら
れる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿
にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしあ、既にそれを得たという
わけではなく、既に完全な者となっているわけではありません。何とかして捕えようと努めているのです。
自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。兄弟たち、私自身は既に捕えたとは思っていません。
なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによっ
て上へと召して、お与えになる賞を得るために、目標をめざしてひたすら走ることです」(3:9-14)と。
・このフィリピの信徒への手紙に記されていますパウロの証言を読めば、今日のガラテヤの信徒への箇所
で、なぜパウロがガラテヤの人たちのことを、「物分かりが悪い」とか、「あなたがたは惑わされている
のだ」と、非常に強い言葉で批判しているかが分かると思います。
・そこでパウロは、アブラハムの信仰を引き合いに出して、「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブ
ラハムの子であるとわきまえなさい」と語り、「信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝
福されています」と言って、ただ「信仰によって生きる」ことの大切さを強調しているのであります。
・ヘブライ人への手紙の著者は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」
(11:1)と言って、アブラハムやモーセという旧約聖書の人物を引き合いに出して、彼らを信仰の証人とし
た上で、<こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、
すべての重荷の絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありま
せんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスを見つめながら>と語っているのであります。
・昨日鶴見の沖縄県人会館で「オール沖縄と共に 辺野古の埋立てを止めよう! 4・9横浜/鶴見の集い」
があり高里鈴代さんが講師の一人でしたので、私も出席しました。もう一人の講師は照屋完徳さんという沖
縄の方で、弁護士で現職の衆議院議員の方です。照屋完徳さんは、辺野古の新基地反対の闘いのベースには、
ウチナンチュウーの沖縄戦の経験があり、絶対に戦争はだめだという平和への強い希望があるということを
お話しされました。そして辺野古の闘いに参加している人は、この闘いには絶対に負けない、必ず勝つのだ
という思いが強くあるというのです。実際に何度かキャンプ・シュワブ前の座り込みに私も参加しています
が、そこに座り込んでいる人々の中にはそのような思いが強くあることを感じさせられています。
・昨日の集会にはIさんも来ていて、帰りに一緒に京急で帰ってきました。Iさんは3・11東電福島第一原
発事故後に行われた、国会前行動以来毎週金曜に国会前で行われている原発反対の金曜行動に、欠かさずに
参加しています。Iさんは原発反対の行動に参加していて、この運動は絶対に勝つという確信が大事に思う
お仰っていました。辺野古での闘いを担っている人たちと、思いは同じであるということだと思います。こ
の絶対勝つという確信はどうしてでてくるのでしょうか。中には、その言葉だけを表面的に受け止めて、思
い上がりだと思おう人もいるかもしれません。しかし、それは誤解であって、「絶対に勝つ」という確信に
は、「真実は必ず明らかになる」という強い思いがその根底にあるのではないかと思います。真実は現在権
力によって覆われているかもしれないが、真実それ自身の力でその覆いを引きはがして、自らを明らかにす
る時が必ずやって来るという信仰ともいえる思いです。そういう思いが根底にあって、この基地を造らせて
はならない、原発を稼働させて、再びチェルノブイリや福島のような事故を起こさせてはならない、そして
この運動は絶対に勝つのだ、勝たなければならないという確信となるのではないかと思うのであります。
・「信仰によって生きる」という私たちキリスト者の生においても、水源である主イエス。「信仰の創始者
であり、完成者であるイエス」が、今も私たちの中で生きてい給うというということ。その主イエスにおい
て「神われらと共にいまし給う」という、その恵みの確かさによって、私たちの日々の生は支えられている
のです。たとえ私たちがこの事実を見失い、疑うことがあったとしても、主イエスにおいて神がこの私とと
もにい給うということは事実であり、真実なのです。そうであるがゆえに、私たちは、パウロと共にその信
仰によって生きるのです。そしてその信仰は、私たちだけのものではなく、主イエスにおいて神が全ての人
と共におられるのですから、全ての人に開かれているのであります。