「闇が襲わぬうちに」エレミヤ書13:12-17、2016年4月17日(日)船越教会礼拝説教
・野坂昭如という作家がいました。彼は、第二次大戦中に小学校(当時は国民学校)に入学したか、第二次大
戦中に生まれた世代を、「焼け跡派」と言いました。この焼け跡派の人たちは、太平洋戦争の時、アメリカの
B52によって落とされた焼夷弾で都市が焼け野原になって、死体がごろごろ転がっていた、その焼け跡を目に
焼き付けて育った世代の人々です。この世代の人々がこの焼け跡をどのような思いで見たのか。私は野坂昭如
の文学はほとんど読んでいませんので、よく分かりませんが、想像しただけでも、そこで見た悲惨な光景が、
その人のその後の人生に与えた影響の大きさを思わずにはおれません。
・実は、先ほど読んでいただいたエレミヤ書13章12節から14節までに記されています「ぶどう酒のかめ」をも
ちいた比喩は、エレミヤの象徴行為として語られていますが、恐らくバビロニア帝国によるユダとエルサレム
の破滅の悲惨な状況を、神の怒りとしてつぶさに見た人々の比喩的表現ではないかと思われます。
・まず「かめにぶどう酒を満たせ」という神の命令が語られています。杯に満たされぶどう酒は、神の怒りを
象徴しています(エレミヤ25:15-16)。それを飲む者は、よろめき倒れるのです。指導する能力を失った指導
者たちは酒に酔った人間のように見られています。今、バビロンの前に逆らうダビデ王朝の王や祭司、預言者
などの指導者、またすべてのエルサレムの住民は、かめに満たされた酒を飲んだように、酔って互いに争い、
自らの滅亡を早めているというのです。それが神の怒りとして、ここでは語られているのです。
・「あなたは彼らに言いなさい。『主はこう言われる。見よ、わたしは、この国のすべての住民、ダビデの王
座につくすべての王、祭司、預言者、およびエルサレムの全ての住民を酔いで満たす。わたしは、人をその兄
弟に、父と子を互いに、打ちつけて砕く。わたしは惜しまず、ためらわず、憐れまず、彼らを全く滅ぼす』と
主は言われる」(エレミヤ13:13~14)と。
・ここに語られています、支配者から民衆まで酒に酔って破滅に突き進んでいく姿は、日本の15年戦争の時代
の姿に重なっているのではないでしょうか。焼け跡世代の人々は、戦災によって焼け野原になって、そこに
死体がごろごろ転がっている悲惨な光景を目の当たりにして、それを神の怒りとして受け止めたとは思えま
せん。しかし、大日本帝国憲法から交戦権をすら放棄した9条をもつ現在の憲法に変わって始まった戦後社会
生きていった彼ら・彼女らは、敗戦を明治以来の日本の富国強兵がそこで否定された出来事として捉えていた
のではないでしょうか。死体がごろごろころがっている焼け跡は、明治以来の富国強兵による天皇制国家の
破綻であるという認識は持っているように思われます。ですから、安倍政権の欺瞞的な積極的平和主義と言
われる、明らかに憲法9条違反の安保法制による戦争のできる国造りには、絶対反対です。晩年の野坂昭如
も病を抱えながら平和への思いと行動を続けていたようです。
・昨日私の支援会の集まりが紅葉坂教会であり、その時に関田寛雄先生の講演がありました。その中で関
田先生は、戦争責任告白以来の40年の教団の歴史を、社会への関わり第一にして伝道を疎かにしたと、否
定的に捉えている山北宣久前教団議長による「荒野の40年」という歴史理解を批判されました。先生は、
キリスト教の宣教は一方的に語るだけではなく、まず聞く姿勢が重要であるということを指摘されました。
苦しんでいるひとりの人の叫びに耳を傾け、主イエスによる福音の喜びを共有しようとするときには、そ
のひとりの人を押し潰している社会の問題に取り組まざるを得ないと。福音宣教とはそういうものであっ
て、現実社会の中で苦しむ人から社会的な抑圧をそのままにして、伝道伝道と声高にキリスト教信仰を押
し付けるだけであるとすれば、それは観念的な信仰に過ぎないと、はっきりと強くおっしゃいました。そ
して日本の社会に生きるキリスト者にとって、国家=天皇は対決せざるを得ない課題であることをはっきり
とお話しになりました。ですから日本基督教団にとっては、戦時下の教団の戦争協力の悔改めを公にした
戦争責任告白に立って、赦されて生かされて今を感謝して歩んでいかなければならないと。そのためには
社会的な問題も避けては通れないと、関田先生はおっしゃいました。実際先生はこの集会にも、先生が呼
びかけ人の代表者になっている川崎市に対するヘイトスピーチ防止申し入れの署名用紙をもってこられて、
みなさんに署名を呼びかけておられました。」
・エレミヤ書13章15~17節には、このように語られています。「聞け、耳を傾けよ、高ぶってはなら
ない。/主が語られる。あなたがたの神、主に栄光を帰せよ。闇が襲わぬうちに/足が夕闇の山でつまず
かぬうちに」と。国が崩壊し、バビロン捕囚を経験したユダは、すでに十分に打ち砕かれたはずでありま
すが、彼らに対する警告は、何よりも「高ぶってはならない」という警告でした。ユダが滅んだとき、彼
らはかめに満たされたぶどう酒を飲んだのであります。また再び「怒りの酒の杯」を飲もうというのか。
傲慢であってはならない。酒に酔ってはならない。それは、つまずきの原因である。栄光はすべて神に帰
すべきであると。
・傲慢がいやされなければこの審判を語る預言者は、かつて、エレミヤが嘆きと悲しみをもって滅亡を預
言したように、悲しみ泣かなければならないというのであります。「あなたたちが聞かなければ/わたし
の魂は隠された所でその傲慢に泣く。/涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。/主の群れが捕えられて行く
のだから」(13:17)。
・富国強兵という酒に酔って、その結果侵略戦争を企てた戦前の日本の国は、指導者から民衆までその酒
に酔ってしまい、傲慢になって、どんでもない大きな過ちを犯してしまいました。その結果としての敗戦
を真摯に受け止めることなく、戦前からある意味で切れ目のない連続した歴史を生きて来てしまった日本
の国が、今また安倍政権がかつて歩んだ酒に酔った道を再び歩もうとしているのではないかと思うのです。
そのような状況において、私たちキリスト者、そしてイエスを信じる者の群れとしての教会は、どうある
べきかが問われているのではないでしょうか。「高ぶってはならない。・・・主に栄光を帰せよ」という
呼びかけは、そのような私たちに向けられている言葉でもあるのではないでしょうか。
・「主に栄光を帰す」とは、私たちにとりましては、日々祈っております主の祈りに従って生きることで
はないでしょうか。祈りつつ、神を待ちつつ、正義を行う、その道が主の祈りがめざす道ではないでしょ
うか。「天にまします我らの父よ/ねがわくはみ名をあがめさせたまえ/み国を来らせたまえ/みこころ
の天になるごとく/地にもなさせたまえ/我らの日用の糧を、今日も与えたまえ/我らに罪をおかす者を、
我らがゆるすごとく/我らの罪をもゆるしたまえ。/我らをこころみにあわせず/悪より救い出したまえ。
/物を御名が崇められますように」と祈りつつ。
・何よりも主イエスを私たちの所に送って下さり、その主イエスが最も小さき者の一人を徹底的に愛し、
受け入れ、癒し共に生きて下さったこと、その結果十字架の苦難と死を引き受けて下さり、神によって
復活の命を与えられて、今も私たちと共に生きて下さっていることを信じて、高ぶることなく、栄光を
神に帰す歩みを、私たちもまたイエスに従って歩んで行きたいと、切に願うのであります。
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