なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(257)

           船越通信癸横毅掘 。横娃隠暁4月17日    

・9日(土)には、「オール沖縄と共に 辺野古の埋立てを止めよう! 4.9横浜/鶴見の集いが鶴見沖

縄県人会館3階ホールでありました。講師は高里鈴代さん(オール沖縄会議・共同代表)と照屋寛徳さん

衆議院議員・沖縄2区選出)のお二人でした。主催は島ぐるみ会議と神奈川を結ぶ会で、協賛は鶴見沖縄

県人会・川崎沖縄県人会・東京沖縄県人会でした。この日は土曜日でしたが、私も出席しました。同種の

集会が3月25日関内ホールであり、その時の講師の一人は山城博治さんでした。私はその集会にも出席し、

その時この鶴見の集会を知りました。3月25日の集会にはIさんも出席していて、その後教会でIさんと会

った時に、鶴見の集会にも行くことを約束していました。高里鈴代さんは、沖縄の教団の教会のメンバーで、

特に沖縄の米兵による性的虐待の問題に長年取り組んでおられる方で、昨年10月に教区の沖縄交流委員会と

基地・自衛隊問題小委員会共催の集会に、岩国教会の大川清牧師と共に講師としてお呼びしていました。こ

の日の集会では、高里さんは主に辺野古のシュワブ・ゲート前でのオール沖縄による座り込みについて報告

してくださいました。もう一人の照屋寛徳さんは、戦中・戦後の沖縄の歴史を短く紐どきながら、現在の

シュワブ・ゲート前での座り込みをはじめ辺野古新基地反対の闘いの根底には、あの悲惨な沖縄の地上戦の

経験があり、そのことがこの辺野古の闘いの原点になっていることを、熱く語ってくれました。会場が鶴見

沖縄県人会館でこの集会の出席者の多くが沖縄出身者の方々でしたので、照屋寛徳さんは、その講演の中で

時々ウチナンチューの言葉で語りかけていました。沖縄で生まれ育った人として、戦争の犠牲者であると共

に、沖縄の米軍基地によって朝鮮戦争からベトナム戦争、そしてアフガン・イラク戦争と戦後アメリカが関

わっている戦争では加害者の立場を強要されてきている照屋寛徳さんの戦争を絶対悪とする熱い言葉には、

強い説得力がありました。沖縄の闘いは「不屈」の闘いですが、米軍にも日本の権力にも屈しない闘いを戦

後継続している沖縄の、特に現在の辺野古新基地建設反対の闘には、ヤマトの人間である私たちが学ぶべき

多くのことがあるのではないでしょうか。

・10日の日曜日には、K牧師が船越教会の礼拝に出席してくださいました。3日(日)にいらっしゃ

ることになっていたのですが、その時は急に体調を崩されて船越には来ることが出来ませんでした。10日

の礼拝出席者はK先生を入れて8名でしたが、Hさんが急遽お昼の食事を準備してくださり、Hさんご自身

は所用があって礼拝後すぐに帰りましたが、7名で食事をしながら懇談の時を持ちました。その席でK先

生が先生と私との関係やご自身の牧会経験をお話ししてくれました。実はK先生のお亡くなりになったお

連れ合いのご両親は、私が洗礼を受け青年時代に連れ合いと共に過ごした紅葉坂教会の教会員でした。また、

先生のお連れ合いが働いておられた足立区本木町にありました愛恵学園という昭和初期女性宣教師によって

はじめられた幼児教育を中心とする施設には青年部があって、K先生は神学生の時代にその青年部のリー

ダーをされていて、その青年部で育った人たちを中心メンバーとして出来た足立梅田教会は、私が東京神学

大学を出て最初に赴任した教会でした。そんなことでK先生と私はいろいろと関わりがあり、その足立梅

田教会の創立当初からのメンバーが召されて、足立梅田教会で葬儀があると、K先生とはよく一緒に出席

することがあります。昨年はそのような葬儀が足立梅田教会で5回あったと、K先生はおっしゃっていま

したが、そのうちの3回は私も出席しております。また、K先生は神学校を卒業して、最初に赴任した

駒沢教会で1960年代後半から1970年代前半にかけて、戦責告白(1967年)、万博・東神大(機動隊導入)

問題(1970年)を契機とした日本基督教団の激動の時代を過ごされて、当時の青年との関わりで、日曜日の

礼拝が討論集会のようになったときも、東神大のように半数近くの学生を除籍にして排除することなく、

その青年たちを切り捨てることはしなかったということ、また駒沢教会の後千葉の幕張で開拓伝道をして

40年牧師として働かれたことなどをお話ししてくれました。先生もご自身のそのようなお話をするつもり

で船越教会の礼拝にいらしたのではないと思いますが、思わぬ形で先生の貴重なお話を伺うことができま

した。私などは1969年に神学校を出て牧師になった世代ですので、先生のお話しには共感するところが多

くありました。お話しが盛り上がったのか、気が付いたら午後1時を過ぎていましたので、そこで散会し

ました。K先生はMさんに車で金沢八景まで送っていただきました。91歳で脊椎狭窄症を抱えて、少し歩く

と背中が重くなり、歩くのが遅くなったと言われながらも、背筋を伸ばして船越教会の階段を降りて行か

れるK牧師を見送りながら、私の前を歩いている一人の尊敬する牧師の存在に感謝の思いを深くしました。

・12日(火)は午後農村伝道神学校に出かけ、説教演習と説教学の講師の責を果たしました。今年度は

説教演習の受講者が9人、説教学は2人でした。私は長年牧師をしてきているというだけで、神学生に教え

る力があるわけではありませんが、学生と一緒に学びながら一年間説教について考えて行けたらと願って

います。農村伝道神学校は少人数ですが農業と向き合うと共に、日本社会の貧困の問題が集中している寿

など様々な現場を大切にした神学教育をめざしていますので、日本基督教団にあっては大切な神学校の一

つではないかと思います。私もできる限り支えていきたいと思っております。

・14日(木)は、連れ合いがいけませんでしたので、久しぶりに国会前の辺野古新基地反対の座り込み

に参加しました。このところ座り込む人たちが少し増えていて、この日も10人が座り込みました。座り込

みの時間は午後1時から4時までですが、その最後の所で皆が一列になって歌を歌います。その歌の中には

ウチナンチューが「沖縄を返せ」という歌詞もありますので、気持ちの上で私はどうもその歌を一緒に歌

うことが出来ずに、歌には加わらずに座り込みを続けています。

・15日(金)は夜寿地区活動委員会があり出席しました。16日(土)には午後紅葉坂教会で私の支援

会の総会がありした。二つの会の報告は次回に。