なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(258)

             船越通信癸横毅検 。横娃隠暁4月24日    

・15日(金)の寿地区活動委員会では、2015年度の決算報告がありました。2015年度は皆さんからの献金

で赤字にもならず、会計的には満たされたという会計担当委員の報告がありました。うれしいことです。寿

地区活動委員会は寿地区センターの働きをサポートするために神奈川教区で設置されている委員会です。た

だ神奈川教区からの交付金は一切いただいていません。献金とバザーなどの販売収益金だけで運営の全てを

賄っています。寿地区センターの主事や非常勤の給与をはじめ、寿地区センターの活動でかかる費用のすべ

てです。2008年のリーマンショック以後数年間は少し厳しい時期が続きましたが、その時期を何とか乗り越

えて、ここ数年は会計的には満たされています。この時の委員会では教区に出す年度報告や5月に予定して

います講演会について話し合いました。

・16 日(土)には北村慈郎牧師の処分撤回と、ひらかれた合同教会をつくる会(北村支援会)の第4回

総会が紅葉坂教会で開かれました。総会では、2015年度の報告と2016年度の活動計画及び予算案が議決され、

その後「北村慈郎牧師の処分撤回と、ひらかれた合同教会をつくる宣言」の「5項目(1、北村慈郎牧師の

免職処分の即時撤回と教団教師としての復権を求めます。2、聖餐についての論議の場が設定されることを

求めます。3、「戦責告白」の教団史における意義を踏まえ、歴史に向かい合う教団となることを求めます。

4、沖縄教区に対する謝罪と関係回復への具体的作業を求めます。5、一方的な「公同教会」の主張を再考

して「合同教会」の形成を求めます。)がめざすもの〔特に3を中心に〕」と題して、関田寛雄世話人代表

に講演をしていただきました。その後協議の時間を持ち、フロアーからのいろいろな意見をお聞きしました。

何れこの総会の報告も通信として出したいと思っています。

・17日(日)は船越教会の2016年度の教会総会が礼拝後に行われました。3月27日(日)のイースターでの

昼食会から4月3日(日)、4月10日(日)と連続して礼拝後昼食会を持っていますが、この日も予定のお握り

に変えて、Hさんがたけのこご飯を作ってくださり、Nさんが教会の庭に生えているふきで煮物を作って来て

くださって、この日も総会前に昼食会を持ち、旬の食材による食事を皆で楽しみました。その後総会が行わ

れ、2015年度の教務報告と会計報告及び2016年度の計画と予算を審議し、予算以外は原案どおり可決し、予

算案には修正意見が出て、その修正案が可決しました。船越教会は毎年役員選挙を行い、3年間連続して役

員をした方はその年の役員選挙では被選挙権がないことになっています。また転会して1年未満の方も被選

挙権がありません。今年は3名の方は被選挙権がありません。現住陪餐会員が20名の船越教会にとっては、

その中の3名に被選挙権がないということは、残りの17名から選ぶことになります。役員選挙の結果、4名

が役員に選ばれました。どうぞよろしくお願いいたします。

・19日(火)は新年度2回目の農伝での授業がありました。前回は半年ぶりに農伝での授業でしたので、

午後1時30分開始と思い込んでいて、農伝に到着したのが午後1時10分過ぎで、説教演習の時間が始まって

いました。今回は12時30分過ぎには農伝に着きました。説教演習で一人ひとりに実際に説教をしてもらう

演習は4月26日からですので、この日は「説教者の立ち位置について」、現場との関わりを大切にする

関田寛雄先生の「説教学的循環」を踏まえて、私なりに考えていることをお話ししました。その基にした

のは私の著書『自立と共生の場としての教会』の初めの部分です。どうしても1960年代後半から19

70年代前半にかけての、特に「万博・東神大問題」における宣教論との関わりで、その根底には戦時下

に戦争協力した日本基督教団の歴史がありますが、牧師の立ち位置について考えておきたいと思っている

からです。70年問題に触れた時に、ある一人の学生が、70年の時に学生運動した人が、企業に就職し

て、あたかも何事もなかったかの如く高給を取って生活している現実に触れると、自分はその人たちを

信用できない。社会的関心と言うが、聖書から神の言葉を純粋に語ることが大切なのではないかという主

旨のことを言いました。この学生には、我々の世代に対する疑問が強くあるのではと思いました。私より

も10歳くらい下の人が学生の中にいて、自分もその世代の一人で企業人としてやってきたが、バブル以

降は大変だったと述懐されていました。説教者も一人の人間としてその時代や社会を生きていくわけです

し、教会もその時代や社会の中にあるわけですから、その中で呻吟しながら聖書のメッセージを取り次ぐ

わけです。私が言いたかったことは、そのような牧師である前に一人の人間としての説教者の実存をあり

のままに受け止めるということです。

・3月22日でしたか、緊急に入院して一命をとりとめた名古屋のHさんから、2月20日のコイノーニア

『戒規か対話か』出版記念対話集会に参加して皆さんの熱意に打たれて、教団改革のために何かできないか

ということで、一つの文章を送ってきました。それは、教団問題を個人と共同体との関係の在り方として受

け止めて、信徒の自立を促す文章です。2月20日の集会でも、教団における信徒論(裏返せば教職論)が

問題になりました。教職の数よりも信徒の方が圧倒的に多いにも拘わらず、教団の要職はすべて教職が占め

ているのも、教団が教職中心主義であることの現れである。もっと信徒が教団教会の構成メンバーとして正

当に位置付けられ必要があるのではという意見が出ていました。海外では教団の総会議長に当たる役割を信

徒がしているところもあるという報告もありました。そのような問題提起を受けてHさんは文章を寄せてく

れたのだと思います。その中でHさんは、信徒の中には「現在の基督教団の信徒全体を見ると、守りの方向が

強く見られるのです。その方向が開かれた教会を作ろうとするときに、足手纏いになることは必定です。

・・・多くの人は、この守りの矢印方向の中には、1,権威に従いたい傾向、2,文書に従いたい傾向、

3.親しい者と共に、多数者と共に行動したい傾向、4,儀式を好む傾向、5.謙譲な信徒と見られること

を好む傾向が、混在していることを知るでしょう」と言っています。