なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(34)

    「なぜ、このようなことが」エレミヤ13:18-27、2016年4月24日(日)船越教会礼拝説教

・「なぜ、このようなことがわたしに起こるのか」(エレミヤ13:22)。ここでこのように問うています「わ

たし」とは、誰のことでしょうか。13章の1節に、「王と太后に言え」と言われていますから、列王記下24章

10~17節にありますバビロニアネブカドネザルによる、紀元前597年の第一回捕囚の時のユダの王ヨヤキン

とその母のことを指していると思われます。このヨヤキンは、その父エホヤキムが紀元前597年のバビロニア

によるエルサレム包囲中に死んだために、弱冠18歳でユダの王になりました。そのためにその父エホヤキム

の妻であり母であるネホシタが皇太后として影響力を発揮していたと言われています。しかし、ヨヤキンは

王になってたった3か月で王国ユダはバビロニアによって滅ぼされ、捕囚の憂き目を味うことになったのです。

・今日のエレミヤ書の箇所の前半は、このヨヤキンとその母ネホシタに対して語られている預言です。「身

を低くして座れ/輝かしい冠は/あなたたちの頭から落ちた」(18節)はヨヤキンとその母ネホシタがバビ

ロニアの王ネブカドレアルに征服されて、王の地位から引きずり降ろされたことを意味しています。王に委

ねられたユダの民だけでなく、王の側近たちも二人から引き離されて、二人は囚われの身となって、バビロ

ニアに連れて行かれたのです。「女が子を産むときのような苦しみが/必ずあなたをとらえるであろう」

(21節)と言われているように、二人は苦難のどん底に突き落とされたのです。そういう背景の中で、「あ

なたは心に問うであろう。『なぜ、このような事がわたしに起こるのか』」(22節)と言われているのです。

・けれども、エレミヤは、「あなたの重い罪のゆえに/着物の裾は剥ぎ取られ、辱めを受ける」と、厳しい

預言を語って、冷厳に二人が囚われの身となったのは、己の身から出た錆、必然であることを告げているの

です。「あなたの重い罪のゆえに」と。ここで「罪」と訳されえいる原語は、アオーンで<「悪を行う。よ

こしまをなす」の意味で、意図的、意識的な悪を表わし、罪の内容的側面を示している>(新聖書大辞典932

-933)と言われます。二人はイスラエルの神ヤハウエを捨てて、異教の神々を礼拝し、ヤハウエによって「か

く生きよ。そうすれば祝福されて、幸せに生きることが出来る」という律法の道を捨てて、異邦の王のよう

な権力者として振る舞ったのでしょう。その邪(よこしま)の結果、大国バビロンの餌食になってしまったの

でしょう。

・「なぜ、このようなことがわたしに起こるのか」。そのような問いに真摯に向かい合って、ヨヤキンとそ

の母ネホジダは、自らの犯した過ちに気づくことができたのでしょうか。それとも、自らの過ちに蓋をして、

ただ捕囚の憂き目にあって苦しむのは何故なのかと、自分を棚上げにして、この問いは、ただ嘆くだけの問

いに過ぎないのでしょうか。

・今日のエレミヤ書の箇所の後半は、「罪の深さ」を示す預言であります。エレミヤはこのように語ってい

ます。<クシュ人(エチオピア人)は皮膚を/豹はまだらの皮を変ええようか>(23節)。クシュ人(エチ

オピア人)の黒人です。豹はまだらの皮をしています。それを変えることができるだろうか。もし変えるこ

とができるとすれば、悪に馴らされたイスラエルの人々も正しい者となることができるだろう。しかしクシュ

人(エチオピア人)の黒い皮膚の色も、豹のまだらな皮も変えることはできない。それと同じように、悪に

馴らされたイスラエルの民も正しい者となることはできないと言うのです。これがエレミヤの苦悩の行き着

いたところであります。

・エレミヤは17章9節でも、このように語っています。<人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。

/誰がそれを知りえようか>と。心の病の深さ、それは計り知れないというのです。これがエレミヤが直面

したイスラエルの民の罪の現実でした。イスラエルの民は、その父祖にアブラハムを持ち、神に選ばれて全

ての民の祝福の基とされた人々です。人がこの神に与えられた自然の中でいかに共に生き得るのか。神に祝

福され、皆が幸せに生きるにはどうしたらよいのか。その祝福に値する生を、この神によって造られた自然

の中で生きる民として、イスラエルは選ばれたのです。そして彼ら・彼女らがその祝福された生を生きるこ

とによって、すべての人々がその同じ祝福された生を生きるように招かれ、イスラエルの民だけではなく、

すべての民が神の祝福に与かり、幸せに生きることができるようにと。それが神のみ心であると、旧約聖書

は語っているのです。

・「旧約聖書は、人間の意志と決断の力に信頼して、神の律法の実行を訴えてきました。古くからの預言者

しかり、ヨシヤ王の宗教改革もしかりです。エレミヤもまた、どれほど深く律法の実践に関心をもってきた

ことでしょうか。そのエレミヤが、あるいは、そのエレミヤであればこそ、人間の悪の根源性を、このよう

に断定的に表現することができたので」(木田献一)はないでしょうか。

・「初期の預言以来、エレミヤは人間の真実を追求してきました。(そして)人間性について、彼は絶望と

いう壁に突きあたったのです。《いつまでそれが続くのか》(27節)。彼はこの問いを抱いて、粘り強く預

言活動を続けていったのです」(同)。エレミヤは、人間性の根本的変革という、(エレミヤ書31章に記さ

れています)新しい契約の預言に向かって、突き抜けるまで、この壁にぶつかって苦しまなければなりませ

んでした(同)。何時れ学ぶことになりますが、エレミヤ書31章31~34節を、ここで読んでおきたいと

思います。

・<見よ、わたしはイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、

かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが

彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、

わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の

中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は

隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って、教えることはない。彼らすべて、小さい者も大きい者も

わたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心をとめることはな

い>(エレミヤ31:31-34)

・先日日本に来られた南米ウルガイの前大統領ホセ・ムヒカさんの発言を聞かれた方もいらっしゃると思い

ます。この方は、1970年前後にキューバ革命に刺激されて、特にカストロと共にキューバ革命を成功させた

チェ・ゲバラの演説、「どんな運動よりも、一発の銃弾が社会を変える」という言葉を聞いて、ウルガイの

革命運動に加わり、13年服役します。その拷問に耐えて、暴力によっては社会は変わらないことに気づきま

す。そして、人はひとりでは生きていくことはできないから、自分が変わることによって、社会を変えてい

く道を歩み、現在に至っています。2012年にウルガイの大統領になって、5年任期を務め終えて、日本にや

って来て、「日本人は本当に幸せなのだろうか」聞いて見たかったというのです。現代の商業資本主導によ

る、尽きない人間の欲望に基づいた消費社会への警鐘を語っているのですが、この人の言葉で、「世界は変

えられないが、あなた自身は変えられる」という言葉を、特に印象深く聞きました。

・エレミヤもまた、人間の真実に期待しながら、人間の悪の根源性に絶望し、その絶望を、人間の根本的変

革という新しい契約の預言によって突き抜けるまで、どんなにか苦しんだことでしょうか。私たちには、新

しい人間性受肉した方としてイエスがいます。心にイエスを迎え入れて、イエスが私たちの中で生きてく

ださる。そのように自分に変えられることを信じ、変えられた己をもって、他者との関わりを、またこの社

会を、命が尽きるまで生きていきたいと願います。主が共にいて、私たちをそのように導いてくださいます

ように。