なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(112)

   「最後の宣告」エレミヤ書44:20-30、2018年12月9日(日)船越教会礼拝説教


・長い間エレミヤ書から説教をしてきましたが、エレミヤの預言としては、今日のエレミヤ書の箇所がエ

レミヤの最後の預言になります。


・ここには、エジプトにいるユダの人々の主張に対するエレミヤの反論が語られています。エジプトにい

るユダの人々の主張は、ユダが廃墟と化したのは天の女王に香をたくのを止めたために起こったのだとい

うものでした(44:15以下)。しかし、エレミヤは、ユダが廃墟と化したのは、ユダの人々が異教の神に

香をたいたため、主なる神の怒りによって起こったのだと主張したのです。すなわち、ユダの人々の背信

に対する神の審判だと。両者の間では、ユダがバビロンによって廃墟と化したのはどうしてかという歴史

理解が真っ向から対立していました。


・このエジプトにいるユダの人々の歴史理解は、彼ら・彼女らの根本的な考え方から生まれてきていると

思われます。ユダの人々は何が自分たちとって大事なのかということで、どのように考えていたのでしょ

うか。彼ら・彼女らは、異教の神に香をたいていたときには、ユダの人々には安定と繁栄がもたらされて

いたと言うのです。それを止めたので、ユダの廃墟という破局的な事件が起きてしまったのだと。ユダの

人々は《食物に満ちたり、豊かで、災いを見ることはな》い(17節)状態を求めて、その欲求を満たすた

めに天の女王に香をたく異教の神礼拝を行い、それを正当化しているのです。彼ら・彼女らにとっては生

活の安定と繁栄が第一であるというわけです。


・生活の安定と繁栄は、現代の私たちにとっても多くの人々が求めていることではないでしょうか。今度

また大阪で万博が開かれることになりましたが、1970年の大阪万博は、敗戦後の貧しい生活から物質的に

も豊かな繁栄をもたらす時代に日本社会が突入した象徴的な出来事でした。1970年の大阪万博のテーマは

「人類の進歩と調和」でした。このテーマは大変美しい言葉ですが、実態はベトナム戦争による特需で活

気づいた日本の企業の海外進出が目的でした。そのことは、過去に日本の国が犯した侵略戦争と質的には

同じ、経済という形でのアジアの国々に対す侵略ではないかという問題提起がありました。そこで私たち

が所属する日本基督教団では、一度教団総会で決議した大阪万博へのキリスト教館出展に反対して、万博

闘争が起こりました。


大阪万博キリスト教館を造って、大阪万博に来た人々の憩いの場所とすることは、大阪万博が目的と

する日本の経済侵略にキリスト教が加担することになるのではないかという問題提起があったのです。当

時私もそのように思いましたので、万博へのキリスト教館出展には反対しました。


・この1970年の大阪万博についても、賛成した人と反対した人の間には、歴史観というか、歴史認識の違

いありました。日本の国の経済的な繁栄につながるのであれば、大阪万博も良しとする人々と、経済侵略

の象徴として反対する人々とが真っ向から対立したのです。教会の中でも、どんな形にしろ、人が多く集

まる万博でキリスト教の伝道ができるならば、それを良しとする人々と、日本の経済侵略に加担する万博

参加はキリスト教信仰からしてすべきではないという人々の対立です。


・そのことは、エレミヤ書におけるユダの人々とエレミヤの対立に通じるものがあるように思われます。


・安定と繁栄を第一にして自分たちの進むべき道を選ぶのか、神の真実にふさわしい人間が生きる道を選

ぶのかという二者択一の前に、私たちも日々立たされているのではないでしょうか。しかも私たちにも生

活がありますので、そう簡単にどちらかを選ぶことができない矛盾の中で、それでもどちらかを選ばなけ

ればならないという厳しさの中に私たちは日々立たされているのではないでしょうか。


・「エレミヤがよって立つところは、主なる神が《お前たちと父祖たちに授けた律法と掟》(10節、23

節)、すなわち主なる神と選ばれた民との契約関係です。このエレミヤの立場と安定を繁栄を第一とする

ユダの人々との間には、決定的な対立点があります。


・ユダの人々にとっては、自分たちの安定と繁栄を求める欲求が満たされることがすべての原理でした。

ですから、それを実現しない神は無力な神であって、もはや服従するに値しないと、ユダの人々は考えた

のです。エルサレムの滅亡は、エルサレムの神の敗北を意味するのだと。ですから、エレミヤが主なる神

の名を借りてユダの人々に語っても、だれひとり聞き従う者はいないのだと、ユダの人々自身が宣言して

いるのです。《あなたが主の名を借りて我々に語った言葉に聞き従う者はいない》(16節)と。


・このエレミヤが取り次ぐ神の言葉が、ユダの人々によって受け入れられない状況の中で、エレミヤはど

うしたのでしょうか。


預言者として自分が召されたことを後悔したのでしょうか。エレミヤは自分の預言者としての召命を後

悔することはありませんでした。「主なる神こそが歴史を導く方であって、その意志がすべてを決定す

る」と、エレミヤは信じていたからです。


・エレミヤは、ユダの人々の不信の中で、エレミヤの語る預言の言葉が彼ら・彼女らによって全く聞かれ

ないという状況においても、その信仰を失うことがありませんでした。エレミヤは人との関係においては

孤独でしたが、神との関係においては孤独ではありませんでした。


・そのことは、信仰者すべてに共通することでもあるのではないでしょうか。イエスもまた、十字架の道

行きの中で同じ経験をされたのではないでしょうか。彼と行動を共にしていた弟子たちさえも、イエス

否認し、逃亡し、裏切ったのです。十字架上での「わが神、わが神、そうしてわたしをお見捨てになった

のですか」という叫びは、孤独の中でのイエスの神への叫びです。神に叫ぶということは、神と対話いて

いることです。十字架上においても、イエスは神との関係において孤独ではなかったということではない

でしょうか。


・このようなエレミヤとユダの人々と、その妻たちとの根本的な対立に基づくは論争は、議論によって解

決に至ることはもはやできません。ですから、エレミヤは、過去の歴史をめぐる議論に終止符を打って、

むしろ歴史の未来に人々の目を向けさせようとします。


・24-25節で、エレミヤは人々に対して、よろしい、自分たちの思うままに実行してみるがよい、と皮肉

を込めて告げています。《エジプトにいるユダのすべての人々よ、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万

軍の主はこう言われる。お前たちは、妻たちと共に口で約束した事は手で実行する、我々が天の女王に香

をたき、ぶどう酒を注いでささげる誓いを果たし、誓いを必ず実行するがよい》と。


・そして、26節以下では、これからエジプトにいるユダの人々に下される神の災いが預言されているので

す。エレミヤはエジプトにいるユダの者たちがたどる道が終わりに近付いていることを確信するのです。


・それを表す神の言葉を彼は語っています。それはすなわち、この人々が忘れてしまったように見える神

自身の「大いなる名」にかけてヤハウエが誓う厳かな誓いです。この名の忘却の罪が、彼らにとって審判

となります。すなわち、ヤハウエの名はエジプトにいるユダの人々の口に、もはやまったくのぼらなくな

るというのです。当時普通に言われていた「主なるヤハウエは生きておられる」という誓いの形において

も、ヤハウエの名が口にされることはない、というのです。神は彼らから自分の名を奪い取り、エジプト

で彼らを神との関係が切れたまま死に至らしめます。そして、生ける神にかけて誓う人間の誓いが沈黙さ

せられ、ただ神自身の誓いだけが有効となるその時、神は生きた神であることが明らかになるのです

(「わたしは彼らを見張っている」。1:11-12参照)。


・この圧倒的に神中心的な審判思想は、人間の自己中心的な歴史解釈の試みをすべて乗り越えて、神とい

う現実の自己啓示の中、そして力を持つ神の言葉の真実の中に、出来事の究極の意味を見るのです。この

思想がこの章の最後の数節を支配しています。また、この思想によって、生涯の終わりにいる預言者がも

う一度揺るがない神の証人という孤独な頂点に立つ姿が示されているのです。


・これ以降のエレミヤの個人的な運命は我々には謎です。後代の伝説によれば、エレミヤは彼の同胞の手

によって殉教の死を遂げたと言われます。これは歴史的には証明できません。しかし、その伝承は、この

預言者の生涯の悲劇的なフィナーレに対する予感を正しく表していると言えるでしょう。預言者は活動の

最後で、その最初の時と同じ戦いに、そうでなければ、もっと過酷な戦いに再び投げ返されました。そし

て彼は、神の証人としての任務が目に見える形ではうまく遂行できる見込みがない中にありながらも、最

後まで忠実であり続けたのです。(以上ヴァイザーによる)


・エジプトに逃れたユダ残留民と行動を共にし、安定と繁栄を求めたにもかかわらず、それを得ることが

なく、最終的には滅亡していく彼ら・彼女らの中にあって、神の真実を語り続けた預言者エレミヤの孤独

な闘いを忘れないようにしたいと思います。もしかしたら、私たちもこのエレミヤと同じ闘いを強いられ

るような状況に直面することがあるかもしれないからです。その時、神の真実が歴史を貫くという信仰

を、エレミヤと同じように共有したいと願うからです。