「最善を求める」エレミヤ書42:1-6、2018年10月21日(日)船越教会礼拝説教
・今日の説教題「最善を求める」は、先ほど司会者に読んでいただいたエレミヤ書の記事の最後の言葉か
らつけました。《我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのです》。
・この言葉を語ったのは、エレミヤ書によれば、バビロン王ネブカドレツアルによるエルサレム破壊、ユ
ダの国の上層階層を中心とした一部の人々のバビロン捕囚後に、ユダに残された残留民とされています。
エルサレム陥落後のユダ残留民は、バビロン王によって残留民の総督として立てられたゲダリヤを、イ
シュマエルによるゲダリヤ暗殺によって失ってしまいます。その時ユダの国に残っていた軍の長たちはヨ
ハナンを中心に集まり、ユダ残留民をイシュマエルから取り戻します。そのようにしてゲダリヤ暗殺後の
ユダ残留民はヨハナンらを中心に、バビロンの報復を恐れてエジプトに逃げていくか、そのままユダの国
に留まるか、その決断を迫られたのではないかと思われます。
・そういう文脈の中で、ゲダルヤ暗殺事件には全く顔をださなかったエレミヤが再び登場します。ここで
エレミヤが再登場したということは、エレミヤも、イシュマエルのゲダリヤ暗殺が行われたミツパで辛う
じて助かった人々の中にいたということになります。彼のところに、残った人々がひとり残らず訪れて、
神に祈るように求めてきたというのです。そのことが、1節から3節にかけて記されていますので、もう一
度読んで見たいと思います。
・《カレアの子ヨハナンとホシャヤの子エザンヤをはじめ、すべての軍の長と民の全員が、身分の上下を
問わす、訪ねて来て、預言者エレミヤに言った。「どうか、我々の願いを受け入れてください。我々のた
め、またこの残った人々のために、あなたの神である主に祈ってください。御覧のとおり、大勢の中から
わずかに、我々だけが残ったのです。あなたの神である主に求めて、我々に歩むべき道、なすべきことを
示していただきたいのです。」》(1-3節)。
・ここには、ヨハナンをはじめ生き残った残留民の全員が、預言者エレミヤに神に祈ってもらって、これ
から自分たちの歩むべき道、なすべきことを示してもらおうとしたことが記されています。ところが、41
章17節、18節を見ますと、この生き残った残留民は、《バビロンの王がその地の監督をゆだねたアヒカム
の子ゲダリヤを、ネタンヤの子イシュマエルが殺したために、…カルデヤ人の報復を恐れたので》《エジ
プトに向かおうとしていた》と記されています。
・ヨハナンらの指導者たちは既にエジプト行を決断していたらしいのに、なぜいまさらエレミヤに頼んだ
のでしょうか。王の娘たち(41:10)や宦官ら(41:16)の中には、ユダにとどまろうとする者もいて、意見
の統一が困難であったためかもしれません(木田献一)。
・つまり、生き残ったユダ残留民は、カルデヤ人の報復を恐れてエジプトに向かおうとしていましたが、
残留民の中の有力者の中にはユダにとどまろうとする人たちもいて、エジプト行で全体の意思統一ができ
なかったと思われます。そのために、預言者エレミヤに神に祈ってもらって、自分たちの歩むべき道、な
すべきことを示してもらおうとしたというのです。このことは、生き残った残留民の中にエレミヤもい
て、預言者としてエレミヤは、残留民から大いに信頼されていたことを意味します。
・《預言者エレミヤは答えた。「承知しました。おっしゃるとおり、あなたたちの神である主に祈りま
しょう。主があなたたちに答えられるなら、そのすべての言葉を伝えます。」》(4節)と、民に約束し
ます。エレミヤは、生き残った残留民から、《…我々のため、またこの残った人々のために、あなた(エ
レミヤ)の神である主に祈ってください》(2節)と頼まれました。《承知しました》と言って、生き残っ
た残留民にエレミヤが約束した言葉では、《…。あなたたちの神である主に祈りましょう…》と言ってい
ます。
・《すると、人々はエレミヤに言》いました。《「主が我々に対して真実な証人となられますように。わ
たしたちは、必ずあなたの神である主が、あなたを我々に遣わして告げられる言葉のとおり、すべて実行
することを誓います。良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声に聞
き従います。我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのですから。」》(5,6節)。
・このような生き残った残留民と預言者エレミヤとのやり取りが残されているということは何を意味する
のでしょうか。それは、バビロンによる国家滅亡・民族分断という過酷な現実の中で、バビロン捕囚民だ
けでなく、ユダの国に残された残留民の中に、神の御声に従って、自分たちの歩むべき道、なすべきこと
を行う最善を求める姿勢が残されていたということではないでしょうか。
・ヴァイザーはこのように言っています。「民はこの文脈でヤハウエを『我々の神』と呼んでいるが、こ
の時民はこの信仰告白によって、預言者の牧会的な示唆を理解し、尊重したことを言い表している。そう
してまた、神に服従してのみ、救いは保証されるという認識によって、民は、エレミヤが倦まず強調して
きた考えを共有するのである。‥‥そのような服従への意志がほんとうにあったのかどうかを疑ってはな
らない。(43章によれば)人々は、十日待った後(7節)、結局、自分たちのした確約を守らなかったが
(43:4以下)、このことは、不安定な情勢に対して右往左往する群衆の無定見さを証明するに過ぎない。
だから、エレミヤへの願いは初めから偽善であったと結論付ける必要はないのである」と。
・つまり、《我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのです》との信仰告白によって、自らの
歩むべき道、なすべきことを尋ね求めて、それによって生きていこうとする人々の思いは真実であったと
言うのです。けれども、不安な情勢の中でその思いがかき消されて、人々が神への服従を失って、その場
しのぎに陥ってしい、道を踏み外してしまったというのです。真を求めて、神に向いていた人々の心が、
不安な情勢の中で厳しい状況に恐れを感じて、より安易な道を選んでしまったということではないでしょ
うか。
・このような残留民の姿から、人間の弱さを思わざるを得ません。一時は《我々の神である主の御声に聞
き従うことこそ最善なのです》と信仰告白しながら、状況の厳しさの中で、その信仰告白を失って、不信
に陥ってしまうのです。
・この人間的な弱さは、私たちも共有しているのではないでしょうか?
・状況の厳しさの中で、その信仰告白を失って、不信に陥ってしまった残留民は、何故そうなってしまっ
たのでしょうか。それは、エレミヤ書の今日の記事に続く箇所で明らかになりますが、先取りして言え
ば、苦難を恐れたのです。エレミヤが人々に取り次いだ神の言葉は、残留民がエジプトに頼るのではな
く、バビロン王の支配下にあるユダに留まる道でした。そこで、神ヤハウエを信じ、互に隣人の命と生活
を奪うことなく、助け合って共に生きていくことが、ユダ残留民に神から示された歩むべき道であり、な
すべきことだったのではないでしょうか。しかし、残留民はユダに留まることによって受けるに違いない
バビロン王の報復を恐れたのです。その報復が自分たちにどれほどの苦しみをもたらすかを想像して恐れ
たのです。
・一度はエレミヤに、《あなたの神である主に求めて、我々に歩むべき道、なすべきことを示していただ
きたいのです。》と言って、《我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのです》と信仰告白し
たのにも拘らず、です。
・この私たちの外側から迫る苦難と人間の弱さの問題は、私たちにとっても深刻な問題ではないでしょう
か。戦時下の教会の戦争協力もこの問題と深くかかわっています。イエスに従うべき教会やキリスト者
が、全体主義的天皇制国家の圧力に屈してしまい、戦争協力までしてしまったのです。土井昭夫さんは、
この戦時下の教会の戦争協力の問題は、現在の教会が権力や資本にどう向き合っているかという問題でも
あり、現在の教会が権力や資本に取り込まれていないかどうか問われなければならないという主旨のこと
を書いていました。
・その点福音書に描かれているイエスは、神によって示された「最善の道」を、十字架の死にきわまる最
後まで貫徹された方ではないかと思います。イエスは私たちと同じ人間として、私たちと同じ弱さを持っ
ておられた方だと思いますが、神によって示された歩むべき道を最後まで歩み、なすべきことを成し遂げ
られたのではないでしょうか。そのようなイエスが私たちの中に、復活して今も共にいてくださるという
ことは、私たちにとってどんなに大きな支えであり、勇気と希望の源ではないでしょうか。
・このイエスによって、私たちの中に逆説が起こるのではないでしょうか。パウロは、そのことを第二コ
リント12章で語っています。パウロは、《…わたしの身に一つのとげが与えられました》と語り、その肉
体のとげ(何らかの病気)を、《…離れさせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主
は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われまし
た。キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆ
え、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そうした行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足し
ています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです》(競灰12:7-10)。
・神によって示されている私たちの歩むべき道、なすべきことは、小さくされた者と共に生きることで
す。ある人は、このことを「どんな小さな命とも、共同、共生する、そして相互扶助」という課題ではな
いかと述べています(菅沢邦明)。
・その課題を持って生きようとする時に、私たちに迫る困難、苦難、圧迫という状況の厳しさによってそ
の課題を放棄することなく、担い続けていきたいと思います。私たちの弱さを強さに変えて下さる方が、
共にいて下さることを信じて。