なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(106)

    「迷走」エレミヤ書41:1-18、2018年10月7日(日)船越教会礼拝説教


・今日のエレミヤ書の箇所はイシュマエルが犯した暗殺について記されています。


・国語辞典で暗殺の意味を調べてみますと、広辞苑第2版では「ひそかにねらって人を殺すこと」とだけ

ありましたが、新明解国語辞典第5版には、〔おもに政治上の・思想上の対立から〕(無防備の)反対派

の人を、すきをねらって殺すこと」とありました。


・たまたま最近読んだのですが、久野収の『現代国家批判』という本があります。その中に「民主主義の

原理への反逆」という項目があって、そこで暗殺の問題が扱われています。この本は私の青年時代に出た

もので、大分古いのですが、この「民主主義の原理への反逆」という項目の最初に1960年10月12日に起き

た、当時の社会党の委員長であった浅沼稲次郎委員長刺殺事件について書いています。浅沼稲次郎社会党

委員長刺殺事件を知らない方もあるかも知れませので、この事件の概要を簡単に説明しておきます。


・この日は、日比谷公会堂で、近く解散・総選挙が行われる情勢の中で、自民党社会党民社党の三党

首立会演説会「総選挙に臨む我が党の態度」が、NHKの主催で行われました。会場は2,500人の聴衆で埋ま

り、西尾末広民社党委員長、浅沼社会党委員長、池田隼人自民党総裁の順で登壇し演説することになって

いました。浅沼社会党委員長が午後3時頃演壇に立ち、演説を始めました。演説を始めて4,5分後に右翼

青年の山口二矢(やまぐちおとや)が壇上に駆け上がり、持っていた刃渡り33センチメートルの銃剣で浅

沼委員長の胸を2度突き刺しました。浅沼委員長はよろめきながら数歩歩いたのち倒れ、駆けつけた側近

に抱きかかえられてただちに病院に直行しました。秘書官は浅沼委員長の体を見回し、出血がなかったこ

とから安心しましたが、それは巨漢ゆえに傷口が脂肪で塞がれたために外出血が見られなかっただけのこ

とであり、実際には一撃目の左側胸部に受けた深さ30センチメートル以上の刺し傷によって大動脈が切断

されていました。内出血による出血多量によりほぼ即死状態で、近くの日比谷病院に収容された午後3時4

0分にはすでに死亡していました。この殺害行為の発生により、演説会はそのまま打ち切られました。そ

ういう事件です(ウキペディアによる)。


久野収は、この浅沼委員長刺殺事件は、「日本の戦前、戦中をふかく支配した悪伝統がすこしも死滅し

ていなかったことを、テレビやラジオをまえにした国民に劇的な姿でつげしらせた。思想を外側からの権

力や圧力によって始末することができると信じる悪伝統は、やがて思想を抹殺するために、代表的人物を

暴力によって始末する殺人者の伝統をふかくつちかうことになった」と言っています。


・「代表的人物を暴力によって始末する殺人者の伝統」と久野収が言っているのは、具体的には大正デモ

クラシー以後、この日本で起こった政治家の暗殺事件を指しています。日本の最初の政党中心内閣の首相

であった原敬は、首相在任中の1921年(大正10年)、当時19歳の無名一青年によって東京駅頭で刺殺され

てしまいます。久野収は、「原敬は、戦後の左翼歴史家によって反動的政治家の評価をうけ(ている

が、)…たしかにそう評価されてもやむをえない側面をもっていたが、その原敬でさえ、軍部が天皇をか

ついで政治をひきずりまわすファシズムにはあくまで徹底的に反対する態度でいたことが、死後公刊され

た『原敬日記』その他で明らかになった。そして「原敬が生きながらえて、政友会の伝統をつくりだす人

物になっていたなら、実に力量のある政治家であっただけに、その後の政友会の情けないファッショ化の

コースは、すこしちがったものになったろう。その意味では殺人者は原敬を殺すことによって、約10年の

のちにはじまる満州事変以後の軍部独走のコースを切りひらいたのである」と言っています。その後も政

党政治家の暗殺と、海軍青年将校による暴力事件(5・15事件)、陸軍青年将校による暴力事件(2・26事

件)によって、軍部独走による敗戦に至る歴史が定まってしまったわけです。天皇をかついだ軍部の独走

政党政治によって歯止めがかけられていたら、日本は違った歴史を歩むことが出来て、戦争を避けられ

たかも知れません。


・暗殺という暴力によってその道が断たれてしまったのです。


・バビロンによるエルサレム陥落後のユダの残留民も、バビロン王によってユダの地にあって彼ら・彼女

らのために立てられた総督ゲダリヤのもとに新しい生活を始めようとしていました。バビロン王によって

ゲダリヤが貧しい人々に属するユダ残留民の総督に立てられたことを知った、エルサレム陥落後も生き

残って、エルサレム以外の野にいたすべての軍の長たちがその部下と共にゲダルヤの下に集まって来まし

た。そしてユダの国の周辺の外国に逃げていた人々も集まって来ました。そのような人々を前にして、ゲ

ダルヤはこう言いました。≪「カルデヤ(バビロン)人に仕えることを恐れてはならない。この地にとど

まり、バビロン王に仕えなさい。あなたがたは幸せになる。…」≫(40:9)と。


・ゲダリヤは、バビロン王に仕えることによって、バビロンの支配下ではありますが、エルサレム陥落後

のユダの地において、残留民が平和に暮らしていくことのできる、彼ら・彼女らが幸せになれる道を築い

ていこうとしたのです。ところがゲダリヤは、旧知の間柄でもありましたイシュマエルによって暗殺され

てしまいます。その暗殺は、ゲダリヤが10人の部下と共に彼を訪ねて来たイシュマエルの一行をもてなし

て、≪食事を共にしていた祝宴の席で行われました。


・木田献一さんは、イシュマエルがゲダリヤを暗殺したその動機には、「≪王族の一人≫であっイシュマ

エルには王族でないゲダリヤに対する反発もあったかもしれない」と言っています。イシュマエルのゲダ

リヤ暗殺計画には、親エジプト派のアンモン王バアリスが関わっていたことが40章14節で語られています

から、大国バビロンとエジプトの狭間にあったパレスチナ諸国の当時の政治的確執が背景にあったと思わ

れます。それと共に木田さんが指摘しているような同じ同胞であるゲダリヤに対する個人的な反発もあっ

たのかも知れません。


・イシュマエルは、ゲダリヤの暗殺後に北イスラエル領の聖所のあったシケム、シロ、サマリヤから来た

80人のエルサレム巡礼団を虐殺しています(4-9節)。その巡礼団の一行は≪ひげをそり、衣服を裂き、

身を傷つけた姿≫をしていた(5節)と言われていて、この姿は喪に服していることを意味します。です

からこの一行はエルサレム破壊を嘆いているのかも知れません。そういうエルサレム巡礼団の虐殺をイ

シュマエルは行ったのです。イシュマエルは、ミツパでゲダリヤを暗殺した後、エルサレムに行くために

ミツパを通りかかったその巡礼団を、ミツパから出て迎えました。その時、自分も泣いて喪に服している

ように見せかけて、前日殺害したゲダリヤの名を使って、彼らをミツパに迎え入れたのです。しかも≪

「我々を殺さないでください。小麦、大麦、油、蜜など貴重なものを畑に隠していますから」とイシュマ

エルに哀願した≫(8節)10人は、利用価値があると思ってか残し、後の70人を虐殺したのです。


・このイシュマエルのゲダリヤ暗殺の記事の中に、エルサレム巡礼団の虐殺が描かれているのは、「イ

シュマエルの一連の殺戮行為は、ただ血に狂った残虐行為であって、一片の正義もないこと、すなわち、

最初のゲダルヤ殺害にも正当な理由など何もなかったのだということをこのエピソードで描いているよう

に思われ」ます(木田献一)。


・このイシュマエルのゲダリヤ暗殺によって、ユダ残留民は「カルデヤ(バビロン)人に仕えれば幸せにな

れる」と将来への可能性を失ってしまいます。それだけではなく、今度は逆に、イシュマエルがゲダルヤ

と共にミツパにいたバビロン駐留兵も殺したために、バビロン王の報復を恐れなければなりませんでし

た。


・ゲダリヤの下に集まり、イシュマエルの殺害を逃れた軍の長たちは皆、ヨハナンを中心に兵を率いてイ

シュマエルを追い、ギブオンで追いつきました。ヨハナンと軍の長たちを見て、イシュマエルの捕虜とし

て連行されていた人々は、一斉に身を翻してヨハナンのもとに帰って来ました(14節)。≪イシュマエル

は8人の家来と共に、ヨハナンの前から逃げて、(ゲダルヤ暗殺計画の指示を受けたと思われる)アンモ

ン人の下に向かった≫(15節)と言われています。


・このようにして、ゲダリヤの下に集まったユダ残留民は、イシュマエルによるゲダリヤ暗殺後、バビロ

ンによる報復を恐れて、ヨハナンを中心にしてエジプトに逃れて、エジプトの保護を求めるようになるの

です。


・その結果、「エレミヤが、バビロンの支配を神の意図として受け入れてユダの地に生きつづけよとよび

かけたことが無に帰されてい」ったのです。暗殺という人間の悪の伝統によって。だから沈黙を決め込ん

でいかなければならないのでしょうか。エレミヤは、ユダ残留民と共に自ら拒否したエジプト下りに連行

され、そこで死んだと思われます。


・ご存知のように、2018年のノーベル平和賞は、性的暴力の被害者救済に取り組んできたコンゴ民主共和

国のデニ・ムクウェゲ医師(63)と、イスラム過激派組織「イスラム国」から性暴力を受け、被害の実

態を告発したイラクの人権活動家ナディア・ムラドさん(25)の2人に授与されました。授賞理由に

は、「2人は、戦争や武力紛争における性暴力根絶に向けて努力した」ことが挙げられています。


・ムクウェゲ氏はコンゴ東部のブカブ出身で、フランスで医学を学び、内戦下の1999年にブカブに

「パンジー病院」を設立しました。出産介助が目的でしたが、武装勢力による性暴力の横行を目の当たり

にし、被害女性の治療に当たってきました。社会復帰の支援などにも取り組んできました。


・ムラドさんはイラクで少数派のヤジド教徒で、イラク北部で2014年に「イスラム国」に拉致され、

約3か月にわたって「性奴隷」にされた経験をもとに、現在は国連親善大使として性暴力被害者の救済を

訴える活動を展開しています。


ノーベル平和賞受賞後、ムラドさんは声明を公表し「「(クルド民族の)ヤジド教徒など迫害を受けた

世界中の少数派や、全ての性暴力被害者とこの賞を分かち合う」と強調し、加害者の処罰など、国際社会

に早急な対策を求めました。


・古代のエルサレム陥落・バビロン捕囚以後のユダの残留民の中には、イシュマエルという暗殺者がいる

かと思えば、エレミヤのような神の真実を大切にする預言もいます。現代の世界には性暴力を是とする人

もいるかと思えば、今回のノーベル平和賞を受賞して二人のように性暴力を非とする人もいます。


・人間の罪と悪は未だに克服されず、繰り返されています。その中で失望落胆して、真実を指し示すこと

を私たちが放棄してしまったら、暗黒の世界に陥るしかありません。神を信じ、イエスを主と信じる私た

ちは、人間の罪と悪の力がまだ克服されていないこの世の現実に留まりながら、神による愛の真実を語

り、その真実にとどまりまり続けることが求められているのではないでしょうか。預言者エレミヤはその

ような証人の一人として私たちの前にいるのではないでしょうか。