なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書におる説教(73)

   「神の証言」エレミヤ書29:15-23、2017年8月27日(日)船越教会礼拝説教

・先程司会者に読んでいただいたエレミヤ書の箇所は、紀元前597年の第一回バビロン捕囚後に、エルサ

レムに残っていたユダの王《ゼデキヤが、バビロン王ネブカドレツアルのもとに派遣したシャファンの子

エレアサとヒルキヤの子ゲマルヤに託された》(29:3)、エレミヤの手紙の最後の部分です。その内容は、

「バビロンにいる偽預言者を断罪する言葉」です。このエレミヤの手紙を読む限り、バビロンに連れて行

かれた捕囚民の中にも偽預言者が活動していたことが分かります。

・エレミヤは、《あなたたちは『主が我々のために、バビロンでも預言者を立ててくださった』と言って

いる》(15節)が、しかし彼らこそ警戒すべき偽預言者であると言っているのです。そして神の真実の言葉

に聞き従わないで、偽りの預言に惑わされた者がどうなるか、その実例として、エルサレムに残った同胞

の悲惨な結末を語っています(16~19節)。彼らは、捕囚という苦難は逃れ得たとはいえ、神の厳しい裁

きがなお彼らの上に臨もうとしています。≪万軍の主はこう言われる。わたしは彼らに剣、飢饉、疫病を

送り、腐って食べられない、いちじくのようにする。わたしは、剣、飢饉、疫病をもって、彼らを追い、

全世界の国々の嫌悪の的とし、わたしが追いやる国々で呪い、驚愕、物笑い、恥さらしとする。彼らがわ

たしの言葉に聞き従わなかったからである、と主は言われる≫(17~19a節)と。

・その上で、改めて≪しかし、あなたがたは主の言葉を聞きなさい。わたしがエルサレムからバビロンに

送ったすべての捕囚の民よ≫(20節)と、バビロンの捕囚の民にエレミヤは呼び掛けているのです。そして

アハブとゼデキヤという二人の偽預言者の名が挙げられて、この二人の偽りのさまとその裁きが語られて

います。この二人はネブカドレツアルの手で火あぶりの刑に処せられることになり、その残酷な刑死は

人々の語り草となり、≪呪いの言葉として使われ、バビロンにいるユダの捕囚民は皆『主が、お前をバビ

ロンの王に火あぶりされたゼデキヤとアハブのようにしてくださるように』と言うようになるだろう≫

(22節)と言われているのです。

・ゼデキヤとアハブは、ここでは≪これは彼らがイスラエルにおいて愚かな行いをし、隣人の妻と姦通

し、また命じもしないのに、わたしの名を使って偽りを語ったからである≫と語られていますが、この二

人はバビロン捕囚民の中でネブカドレツアル王への反乱を企て、そのために火あぶりの刑に処せられたの

かも知れません。注解者の中にはそのように考えている人もあるようです。

・さてこの今日のエレミヤ書の箇所を読んでいて、最後の言葉ですが、≪わたしはこのことを知ってお

り、証言する、と主は言われる≫(23節b)という言葉について、私は考えさせられました。これは、ゼ

デキヤとアハブという二人の偽預言者が何をしたのか、なぜバビロン王ネブカドレツアルによって捕囚民

の前で殺されたのか、神は知っており、この二人の偽りの預言者の証言者に神がなるというのです。この

ことは、私たちが今ここで何をしているか、或はある時代と社会の中に生きる者として、私たちが何をし

てきたのか、そしてその責任が私たちには問われるということ。そのことの証言を神がするということで

はないでしょうか。

・けれども、私たちは、私たちの証言者である神の前に自らを問うということを、どれだけしているで

しょうか。かつての戦時下に私たちが犯した過ちについて言えば、日本基督教団として鈴木正久教団総会

議長の名前で戦争責任告白を1967年イースターに出していますし、今年は戦責告白50年に当たりますの

で、神奈川教区では、戦責告白の意義と現在的な課題を考える、戦責告白50年を覚える集会を11月に予定

しています。しかし、戦時下の日本基督教団統理であった富田満をはじめ、戦時下の時代を経験したキリ

スト者が、その時の自らの行いを、一人一人の証言者である神の前にどれだけ深く問うたのでしょうか。

・私は今辺見庸の『1937(イクミナ)』という本を読んでいます。辺見庸は、この本の序文で、《いま

にしてみれば、1937年に歴史は、そうとはあまり意識されずに、一気に飛んでいた。南京大虐殺だけでは

ない。1937年の人びととは、その翌年になにがくるかさえ予期できていたかうがわしい。38年に第一次近

衛文麿内閣のもとで制定され(4月1日公布、5月5日施行)た「国家総動員法」! これは全面的な戦時統

制法であり、第二次世界大戦期におけるニッポンの苛烈な「総力戦体制」の法的基盤となった。これこそ

戦時におけるあらゆる資源、運輸、通信、経済を国家の統制下におき、人びとの徴用、労働争議の禁止、

言論の統制など、市民生活を全面的に国家の意思にしたがわせる権限を政府に付与した授権法であり、い

わば人民の運命を政府に白紙委任する法律であった。問題は、わたしたちの父祖たちがこれについて大議

論を交わし、なんらかの反対闘争をてんかいしたかどうかである。/闘争なんてなかった。・・・》と書

いています。そして1937年以降、日本は本格的な侵略戦争を特に中国で展開していくことになります。そ

の中で兵士として徴用された自分の父親がどう生きたのか。辺見庸は本人から生前聞くことが出来なかっ

たことを踏まえて、しかも自分だったらどうしたのかという作業仮説を立てて、侵略戦争下の兵士一人一

人の個人として、その侵した行為に対する責任を問題にしているのです。

武田泰淳の作品に「汝の母を!」という短編があり、辺見庸はその武田泰淳の短編に記されている、隊

長の命令でおこなわれた母子相姦の強制と二人の焼き殺しについてこのように書いています。武田泰淳

は、《「汝の母を!」で責任論など一行も展開していない》と言って、《責任論のかわりに、「焼けつく

烈日の下で、下半身を裸にして、埃にまみれながら、二人の内心にとり交わされた、誰にも(彼ら二人自

身にさえ)聴きとれない会話」がもしもあったとすれば、「天のテープレコーダー」か「神のレーダー」

にはどのように記されただろうか・・・・と泰淳は推量し、無言の母子に語らせるのだ。たとえば母の言

「私たちは、おそろしい闇の中へ、身を沈めようとしている。すべての人の道、人の教え、人の救いが顔

をそむけずにいられない、永久に浄められることのない闇の底へ、ころげこもうとしている」。たとえば

息子の言「母よ、私は、私たちをとりかこみ、私たちをみおろしている、これらの敵たちを憎む。彼らを

生かしておく、地上のおきての、寛大さを憎む」。/・・・・母の言「ああ、すべてが敵の悪、戦争の悪

のせいだといい切れるのだったら、どんなにいいことだろう」》と。

・続けて、辺見庸はこのように書いています。《ここにおいて、わたしたちはこれまでもっとも安易に飛

びこむことのできた、思想や精神の逃げ場をうしなう。すべてを「戦争」のせいにしてきた論法の盲点を

つかれる。戦争という名詞でなくてもよい。天皇制ファッシズム、軍国主義国家主義全体主義・・・

といったこととばたちの、実質的中身のないレーベル(ラベル)でもおなじことだ。「すべてが敵の悪、

戦争の悪だと言い切れるのだったら、どんなにいいことだろう」。そのとおりなのだ。それでは敵の悪、

戦争の悪以外に、どんな悪の深淵があるというかの。「汝の母は!」はそれをかんがえるように、読者と

いうより泰淳じしんにせまる。(この中国人の二人の母子に母子相姦を強制した上等兵が、その母子を侮

蔑して投げかけた)「ツオ・リ・マア!」という最低の罵詈(ばり)は、母子相姦を強制された二人ではな

く、「大元帥陛下」以下ニッポン将兵と「銃後」のニッポンジンたちにこそ浴びせられなくてはならな

かった――という、いわばわかりやすい完結のしかたを、しかし、わたしに言わせれば、世界的傑作とい

うべき短編はしていないのである》と。

・私の父親は、年を取っていたことと体が小さかったために、召集されて戦地には行きませんでした。し

かし、戦前町内会長をしていて、出陣する兵士を戦地に送り出したことがあったからでしょうか、その責

任を取ると言って、戦後は町内会長を引き受けることはありませんでした。父親と話したことはありませ

んが、おそらく、そのことが父親としての戦争責任の取り方ではなかったかと思われます。戦争だったか

らと言って、戦地で犯した個人の罪まで問われないままで、赦されるわけではありません。しかし、多く

の人は忘れることによって、表面的にはあたかも何事もなかったかの如く、戦後を生き抜いたのかも知れ

ません。辺見庸の父親は、一兵士として中国に行った人で、母親は戦争に行って人が変わってしまったと

言っていたそうですが、時々心ここに非ざるという、何かボーとしている父親の振舞いを見たと言ってい

ます。

武田泰淳が「汝の母を!」で書いている「天のテープレコーダー」「神のレーダー」は、エレミヤが記

している「神の証言」と言ってよいのではないでしょうか。エレミヤ書では、この神の証言によって、二

人の偽預言者は裁かれているのであります。「神の証言」、「天のテープレコーダー」「神のレー

ダー」。一人一人の生きざま、その人が何をしたのかが、その人自身は忘れてしまったとしても、その細

部にわたって記録されていて、私たちの証言者としての神がいるというイメージは、ある意味では窮屈に

思われるかもしれません。けれども、私たちが一人の人間として、その人間としての品位を失わずに、神

の被造物として歩み得るのは、そのような証人としての神の前に生きるからではないでしょうか。そのよ

うなキリスト者である私たちが、神による自己自身への審判を引き受けることによって、人としての歩み

をこの現実社会の中で神と隣人との前に生きることが許されるのではないでしょうか。

・私は、このエレミヤ書の箇所から「神の証言」をキーワードにして、そのようなことを聞き取りまし

た。