なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ガラテヤの信徒への手紙による説教(5)

「神は人を分け隔てない」ガラテヤの信徒への手紙2:1-10、2016年1月10日(日)船越教会礼拝説教

・おはようございます。3日の日曜日は休みをいただきましたので、今日が私にとりましては2016年になって、

船越教会の礼拝は最初の礼拝になります。年明け早々に、サウジアラビアとイランの対立、朝鮮民主主義人民

共和国、通称北朝鮮の核実験と、ますます世界情勢が対立・抗争の方向に混沌化してきているように思われま

す。そういう状況の中で、2016年が始まりましたが、今年一年も日曜日ごとに集まり、礼拝を通して私た

ちの歩むべき道と、主イエスにある支えと希望を確かめつつ、一歩一歩それぞれの与えられた場にあって歩み

続けていくことができますようにと、願うものであります。

・さて、今日は第2日曜日ですので、ガラテヤの信徒への手紙からメッセージを与えられたいと思います。

・このガラテヤの信徒への手紙2章1節から10節のところは、パウロの立場から、エルサレム使徒会議について

記るされているところであります。エルサレム使徒会議については、使徒言行録の著者ルカが、使徒言行録15

章に記していますので、関心のある方は後でそちらの方も読んでみてください。同じエルサレム使徒会議につ

いて書かれているのですが、二つを比べて読んでみますと、微妙な違いがあることが分かります。

・このエルサレム使徒会議が行われたのは、紀元後48年と言われています。イエスが十字架によって殺された

のが紀元後30年としますと、それから18年後になります。また、イエスの死後そう時間が経たないうちに、エ

ルサレム教会が誕生したと思われます。このエルサレム教会は、ガリラヤからイエスに従ってきたペトロをは

じめとする直弟子たちが核となって、ユダヤ人の信徒によって成り立っていたと考えられます。使徒言行録に

よりますと、そのエルサレム教会には、ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人とのがいまし

たが、ギリシャ語を話すユダヤ人の代表格であったステファノが、紀元後37年には殉教の死を遂げます。そ

の後のエルサレム教会は、ヘブライ語を話すユダヤ人がメンバーの中心になっていったようです。

・一方アンティオキアを拠点として、非ユダヤ人(異邦人)の信徒を中心とする教会が誕生し、周辺に広がっ

ていきました。非ユダヤ人はユダヤ人とは伝統を異にしていますので、ユダヤ人の男性のように生まれて8日

目に割礼を受けてはいません。また、ユダヤ人のように祭儀に関する様々な決まりや、食べてよい動物と食べ

てはいけない動物を厳格に区別して、日常生活ではそれをきちっと守って生活しているわけではありません。

ユダヤ人と非ユダヤ人とは、全く異なる慣習・伝統によって日常生活を営んでいたのです。イエスによっても

たらされた神の福音は、それぞれを招いて、それぞれの違いを認め合い、その違いを超えてユダヤ人も非ユダ

ヤ人も神に大切にされている存在として一つに結び合わせます。

・ところが、ユダヤキリスト者の中には、ユダヤ人としてのアイデンティティーである割礼や律法の遵守を、

ユダヤ人にも強制する立場の人たちがいました。そのようなキリスト教徒のユダヤ主義者がガラテヤの教会

にもやってきて、ガラテヤの教会の人たちに大きな影響を与えたようです。彼らの影響を受けて、ガラテヤの

キリスト者にもイエスの福音だけでなく、割礼と律法も必要だとする人が相当数出たと思われます。ガラテヤ

教会は、割礼と律法から自由なイエスの福音を宣べ伝えたパウロによって設立された教会です。パウロは、パ

ウロにとってはイエスの福音とは言えないユダヤキリスト者の宣べ伝える「異なる福音」に影響されたガラ

テヤの教会の人々に、憤りと怒りと、深い愛情をもってガラテヤの信徒への手紙を書き送ったわけです。

・そのガラテヤ教会で起こった問題は、イエスの福音による人間の解放にとって、本当に割礼や律法が必要な

のかということです。エルサレム使徒会議で問題になったことも、まさにこの問題でした。パウロがガラテヤ

の信徒への手紙を書き送ったのは、第3回伝道旅行の途中、紀元後56-57年ころにコリントで書かれた可能性が

大きいとおわれていますので、このガラテヤの信徒への手紙を書いた時からすると、7-8年前にあったエルサレ

使徒会議があったことになります。今日の箇所は、そのエルサレム会議を思い出しながら書いているのです。

パウロによれば、エルサレム使徒会議においても、自分が語る割礼や律法から自由な福音の宣教が、エルサ

レム教会のおもだった人たちからも認められたというのです。<彼ら(エルサレム教会のおもだった人たち)

は、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対す

る福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働き

かけられた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです>(7-8節)と

言って、任務の分担と言いましょうか、同じ方がペトロに、そしてわたし(パウロ)に働きかけて下さり、そ

れぞれ伝えるべき人たちはユダヤ人と非ユダヤ人の違いはあるが、それは私たちに働きかけて下さる方によっ

て、分担させられているに過ぎないというのです。

・そしてそのことは、エルサレム教会のおもだった人たちも了解していることだと、パウロは言うのです。

<また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されているおもだっ

た人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出した。それで、わたしたちは異邦人へ、彼

らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです>(9節)と。ここには、パウロバルナバ、そし

ヤコブ、ケファ、ヨハネエルサレム教会のおもだった人たちが共に握手して、一致したことが述べられて

います。<彼らはわたしに与えられた恵みを認め・・・>と言われていることに注目したいと思います。パウ

ロは与えられた恵みによって非ユダヤ人への福音宣教に励んでいいのです。ヤコブとケファとヨハネは、彼ら

にもパウロと同じように与えられた恵みによって、割礼を受けたユダヤ人への福音宣教に励んでいいのです。

そのことにおいて両者は一致していると言うのです。

・ところが、今日の箇所には、そのようなパウロの信仰を否定する<潜り込んできた偽の兄弟たちがいた>と

いうのです(4節)。<彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得

ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。福音の真理があなたがたのもとにいつもとどま

っているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。

おもだった人たちからも強制されませんでした――この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、

わたしにはどうでもよいことなのです。神は人を分け隔てなさいません――実際、おもだった人たちは、わた

しにどんな義務も負わせませんでした>(4-6節)。

・ここでパウロが語っている<わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由>、そして<あなたがた

のもとにいつもとどまっているように>という<福音の真実>とは何でしょうか。カール・バルトに『最後の

証し』といおう小さな本があります。その中に「イエス・キリストについての証言」という小さな文章が収め

られています。この文章が、神が人を分け隔てなく、誰にも与えて下さっている<キリスト・イエスによって

得ている自由>、<福音の真実>をよく言い表していると思います。「イエス・キリストはわたしにとって何

か」という問いに答えて、バルトは亡くなる1年前くらいの時にこのように答えているのです。少し長くなり

ますが、それを朗読して終わりたいと思います。

・<当然のことながら、即座に、しかも首尾一貫して ~ 始から終わりまで、一切のことを決定し見とおし

つつ ~ 次のように述べる以外のことが、どうしてわたしにできましょうか。すなわち、イエス・キリスト

はわたしにとって、いついかなるところでもどんな形をとったものであっても彼によって呼び集められ委託さ

れた教会にとって ~ また、教会にゆだねられたよき音信(おとずれ)によれば全人類、全世界にとって、

かつて在り、今在り、そして未来も在り続けたもうところのものにほかなりません。(それ以上でも、それ以

下でも、それ以外の別のものでもありません)。・・・<イエス・キリストは、神と人との契約、交わり、解

きがたい結び合いの基です。わたしも、ひとりの人間です。ですから、彼は、わたしにとってもこの契約の基

でありたもうのです>。そして<イエス・キリストは、ただ一度の比類のない生き方をなさって、すべての人

に与えられたこの契約の自由な贈り物として、ご自分をキリスト者にたちにあらわされました。わたしもまた

キリスト者であることを許されています。ですから彼は、この契約の中に約束されていて、わたしに対しても

自由であり、そしてわたしをも自由にしてくださる神の恵みの証しとして、わたしにもあらわされ示されてい

るのです>。<イエス・キリストは、その生と死において世界と教会の罪をになわれ、最後までそれをにない

抜かれました。わたしもまた、彼にあって神と和解せしめられた世界に属する一人であり、彼によって呼び集

められた教会の一つの肢でありますので、世界と教会とのあらゆるあやまちにもかかわらずそれを貫いて輝く

神の義と聖との光を、わたしも浴びて生き、死ぬことが許されています>。<イエス・キリストは、とりなし

の生涯と死という、世界のため教会のために歩まれた歴史の形で、そのみわざを完成されました。世界に属し、

教会の肢たるものとして、わたしの生涯の歴史もまた、人間としキリスト者として、すべての矛盾にもかかわ

らず、神によっておの身が義とされ、神によってこの身が聖別されることを許されています>。<イエス・キ

リストは、死人のうちからよみがえられた方ですから、彼の生と死との勝利が彼によっていつの日か決定的に

しかもあまねく明らかにされるであろう、という約束でありたまいます。彼がすでにおさめられた勝利を信ず

ることを許されるがゆえに、わたしもまたこの信仰のうちに生きかつ死につつ、彼のこの来るべき啓示を待ち

望むことを許されています。彼においてわたしもまた義とされ聖とされることの啓示を待ち望みつつ>。そし

て最後に<イエス・キリストは、万人に向かって語られた神の言葉です。わたしもまたこの万人のうちのひと

りでありますし、信仰において、彼の約束を待つ希望において、彼の言葉によって語りかけられている自分を

見いだすことを許されていますので、心と口と両の手をもって、彼を神の愛の言葉として証しすべく、力を与

えられ、その任務と自由を与えられています。彼がわたしのために神の前に責任をとってくださいましたので、

わたしもまた、万人に向けられた神の言葉に、行為をもって答えてゆくように定められています>と述べてい

るのです。そして<これが、わたしにとって(わたしにとっても!)の、イエス・キリストです>と証言して

いるのであります。

・新しい年を歩み出すに当たって、このバルトの「イエス・キリストについての証言」を共有したいと思い

ます。