なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

鶴巻通信(19)「心を新たにすること」

   今回は写真はありません。先週の土曜日に船越教会で重い荷物を持ち上げようとして、右足付け根あたりがピリッとして痛みが走り、日曜日礼拝を終えてから、手元にあった小さなキャリアカーを腰を曲げて押しながら(この姿勢で歩くと痛みがなかったので)船越から鶴巻まで公の交通機関で帰ってきました。それ以来ずっと家にいて、できるだけ静かに動かないようにしています。

 

   10月14日のボンフェッファーの一日一章『主のよき力に守られて』は、ローマの信徒への手紙12章2節の「心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の意志であるかを、わきまえ知るべきである」の講解です。私は、日々ボンフェッファーの言葉から、慰められ、力づけられ、新しい発見を与えられていますが、この日の言葉は特に心に響きました。朝ボンフェッファーの言葉を味わい、ベイリーの祈り(『朝の祈り、夜の祈り』を祈っていますが、この日の朝のベイリーの祈りは、この日のボンフェッファーの言葉と共鳴する祈りでした。みなさんと共有したいと思い、このブログに掲載させていただきます。

 

10月14日 キリストの愛の中に帰ること

 

「心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の意志であるかを、わきまえ知るべきである」(ローマ12:2)

 

 「何が神の意志であるか」をわきまえ知るために、どこから始めたらよいのであろうか。神の意志をわきまえるためにどうしても不可欠なことは、人間が内面的に造りかえられること、「心が新たに」されることである。人間が造り変えられ、かたちが変わるということで重要なことは、堕落した人間であるアダムのかたちを克服し、新しい人間であるキリストのかたちと同じになるということである。神の意志をわきまえ知ることを可能にするのは、「新しいかたち」なのであって、この「新しいかたち」こそが、神に反逆して善悪についての知識を獲得した人間を、自分の背後に、あるいは下に置くのである。この「新しいかたち」とは、神の意志とひとつになって生きる「神の子のかたち」である。

 愛のうちに生き、愛が増し加わるということこそが、神の意志をわきまえ知るための前提条件である(ピリピ1:9-10参照)。なぜなら、愛のうちに生き、愛が増し加わるということは、神と人間との一致において生きることであり、イエス・キリストの生を生きることを意味するからである。何が神の意志であるかをわきまえ知ることは、善悪についての自分の知識から出発して考えようとする者には不可能であり、逆に、善悪についての自分の知識を捨て去ろうとし、自分で神の意志を知ることを全くやめようとする者にのみ可能なことである。何が神の意志であるかを、わきまえ知ることは、ただイエス・キリストにおいて示されている神の意志を知ることによってのみ、可能になるのである。

 

ベイリー『朝の祈り、夜の祈り』 14日 朝

 

 主よ、あなたはまずしく、みすぼらしいわたしの人生のうちにやどり、おりにふれてわたしを動物的な感情の支配から引きあげ、あなたの愛と喜びと平和の光によって輝かせ、みえざる世界の美しさをうつし出す鏡としてくださいます。どうか、この日、わたしの生活があなたの臨在の輝きをくもらせることなく、かえってそれを人びとの目の前に照り輝かせるものとしてください。

 

  きょう、わたしが、

   すべてきよいこと、真実なこと、正しいこと、よいことのために

   科学と教育と学術の進歩のために

   事業と自己追求の幣に陥ることを救うために

   労使の強調と相互扶助のために

   過去の豊かな伝統を守るために

   現代の人びとの心に新しく働く御霊のはたらきを見いだすために

   来るべきより大きな栄光の日の望みのために

       立ちはたらくことができますように。

 

  神よ、この日、

   わたしが利益よりも正義を先にすることができますように。

   自分よりも他人を先に

   肉の事がらよりも霊の事がらを先に

   目前のたのしみよりも高貴な目的を果たすことを先に

   名声よりも名分を先に

   そして、すべてのものよりもあなたを先にすることができますように。

 

 主よ、主の何ものにもまさる栄光は、イエス・キリストのみ顔に、ひとたびあますところなくわらわれました。どうかきょうも、主のみ心をわたしの心とさせてください。勇気ある心、真実な心、やさしい心、ひろい心、あなたにかたく結ばれた心を。

 主のみ名によって。                   アーメン