なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

聖霊降臨節礼拝説教「聖霊の賜物」ルカによる福音書11章1-13節

5月28(日)聖霊降臨節第1主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌   18(「心を高くあげよ!」)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-018.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編146編1-10節(讃美歌交読文159頁)

⑥ 聖  書  ルカによる福音書11章1-13節(新約127頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   474(わが身の望みは)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-474.htm

⑨ 説  教  「聖霊の賜物」        北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

福音書によりますと、イエスはしばしば人々から離れて、静かな場所に行って祈っておられたと記されています。イエスの祈りで私たちがよく知っているのは、十字架を前にしたイエスゲッセマネの祈りです。ルカによる福音書の記述によれば、イエスは、ひざまずいて「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈ったと言われます(ルカ22:42,42)。ルカによる福音書にはその後に、「すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴りのように地面に落ちた」(ルカ22:43,44)という注釈がついています。ルカによる福音書は、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴りのように地面に落ちた」と、イエスの祈っている姿を言い表しているのであります。この記述によって、イエスが十字架を前にして、それが自分の受けるべき定めなのかどうか、苦しみながら神に熱心に祈り、その汗が血の滴りのように地面に落ちるほどであったということが分かります。

 

日本的な伝統によれば、祈りとは、願掛けと言われますように、神仏に自分の願いを実現してもらうことが、その目的であると言えるでしょう。けれども、イエスの祈りは、自分の願いの実現が目的ではありません。確かにイエスも、神に向かって自分の願いの実現を祈っています。ゲッセマネの祈りで言えば、マルコによる福音書では、最初にイエスは、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ14:36前半)と祈っています。これは明らかに、「この杯」とは、イエスの苦難と十字架を意味していますから、イエスは目の前に迫っている苦難と十字架という定めから逃れられるものなら、逃れさせてくださいと、神に祈っているのです。日本的な伝統では、このようなイエスの願いを、熱心に、執拗に祈ることによって、その願いを神に成就してもらうことが祈りになります。しかし、イエスは、そのように自分の願いを率直に神に向かって祈りましたが、無理矢理その実現を神に願い求めているわけではありません。マルコによる福音書では、イエスは、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ14:36)と祈った後、続けてこう祈っているのであります。「しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」(マルコ14:36後半)と。

 

このゲッセマネのイエスの祈りに、私たちの祈りが何をめざして祈るのかが、よく示されていると思います。その点について、先ほど司会者に読んでいだいたルカによる福音書の11章1-13節の、祈りをめぐるイエスと弟子たちの問答も参考になります。

 

このところも、イエスが祈っていたことが契機となって、「弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネバプテスマのヨハネ)が弟子たちに教えられたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った」(ルカ11:1)というのです。そこで、イエスは「祈るときには、こう言いなさい」といって、いわゆる主の祈りを教えられたのです。2節から4節に、ルカ版の主の祈りが記されています。

 

<父よ、/御名が崇められますように。/御国が来ますように。/わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。/わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。/わたしたちを誘惑に遭わせないでください>です。

 

私たちが通常礼拝などで祈る「主の祈りは」こうです。「天にまします我らの父よ、/ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。/み国を来たらせたまえ。/みこころの天になるごとく/地にもなさせたまえ。/我らの日曜の糧を、今日も与えたまえ。/我らが罪を犯す者を、我らがゆるすごとく、/我らの罪もゆるしたまえ。/我らをこころみにあわせず、/悪より救い出したまえ。/国とちからと栄とは/限らなくなんじのものなればなり。アーメン」(下線の部分は、ルカ版の主の祈りにはない。)私たちが現在祈っている主の祈りは、教会の礼拝の中で祈るに相応しい形に整えられたものです。

 

この主の祈りにおける祈りの内容は、ゲッセマネのイエスの祈りにおける、「しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」の「御心に適うことが行なわれますように」に尽きるのではないでしょうか。つまり、イエスが教える祈りを一言で言えば、「神の御心に適うことが行なわれますように」になります。

 

祈りは神との対話です。対話を通して、私たちは神に自分を理解してもらい、同時に神が何を考えておられるかを知ることができるようになります。そして、神の御心に適うように私たちが生きていくことの出来る力も、祈ることによって与えられるのではないでしょうか。

 

今日のルカによる福音書の箇所には、「わたしたちにも祈りを教えてください」という弟子の一人に対してイエスは、主の祈りと共に、熱心に求める者に神は必要なものを与えてくださるということを、一つの譬えによって語っています。その譬えとは、このような譬えです。<「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです』。すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何か与えるわけにはいきません』。しかし言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何かを与えることはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう>(ルカ11:5-8)。

 

このような譬えを語った後に、続けてイエスは、「そこで、わたしは言っておく」と言って、あの有名な「求めよ、さらば与えられん」という言葉を語っているのです。<求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる>(ルカ11:9,10)。

 

そして、「あなたがたの中に、魚(さかな)を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」と言って、自分の子供への父親の愛に引き合いに出し、続けて「このように、あなたがたは悪い者でありながら、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11:11-13)と、イエスは語っているのです。

 

エスは、ここで熱心に祈る者には、神は聖霊を与えてくださると言っているのであります。先ほど私は、イエスにおいて祈りとは、神との対話であり、祈ることによって祈る者に神が神の御心が示され、更に祈る者を神の御心を行う者にしてくださるということだと言いました。「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」とは、そういうことなのです。

 

ところで私たちは熱心に祈っているでしょうか。イエスは、熱心に祈る者、求める者に、神は聖霊を与えてくださるとおっしゃっているのです。そしてそのイエスは私たちに、「求めよ、さらば与えられん」と約束してくださっているのです。

 

ボンフェッファーは、<最初の「聖霊降臨日」の出来事は、イエス・キリストを愛し、イエス・キリストの言葉を守る者たちのところで今でも繰り返されるであろう。弟子たちがかつてイエス・キリストに向かって心をひとつにしていた時に天から激しい風が吹いてきたように、今日もまた、イエス・キリストへの愛のあるところで聖霊降臨日の出来事が繰り返されるであろう。そして、イエス・キリストへの愛のあるところでは、イエス・キリストの言葉全体が、すなわち約束と戒めとが保持され、固く守られるであろう>と言っています。そして<「イエスを愛する」とはどういうことであろうか>と言って、「それは<われわれに言葉を与え、われわれを守る方に所属する>いうこと、<イエスとの交わりを他の何ものにもまさって追い求める>ということ、<イエスが今、ここにいてくださることを熱望する>ということである」と言っています。更に<このようにイエスを愛する者は、自分の愛する者の言葉を固く守り、それに固着し、それを離さない。そしてその言葉どおりに生きることが可能な場合には、そのとおりに生きようとする。イエスへのこのような愛は、やがて完全な成就を経験することになるだろう。すなわち、神とイエス・キリストが、「その人のところへ行って、その人と一緒に住む」ことになるであろう。その場合には、何者も弱り果てることはなく、何事も無意味になることがない。…神とキリストがわれわれのうちに住む時には、われわれの心のさまざまな部分を占めている別の「主」は、すべて退かなければならない。キリストご自身が、われわれのうちに生きて、今、われわれを支配するのである。しかしすべてが明らかにそのようになるのは、われわれが主キリスト・イエスを愛し、その言葉を守る時だけである。みずからの完全な救いをキリストのうちに求め、われわれのうちに求めなくなるその度合いに応じて、すなわちわれわれがキリストを自分の上に立つ主とする度合いに応じて、キリストはわれわれのうちにいまし、ついには完全にわれわれを占有するようになるであろう。しかしキリストを愛そうとはせず、自分のみを愛する者は、あるいは、喜んでキリストを受け入れようとはするけれども、決して仕えようとはせず、服従しようともしない者は、キリストの言葉を決して守ろうとはしない。それゆえ、そのような人には、何も起こりはしないであろう>。

 

少し長くなりましたが、ボンフェッファーの言葉を引用させてもらいました。私たちは今日のペンテコステに当たり、私たちに求められていることは、この社会や人間を憂えること以上に、私たちが熱心に祈り、イエスを愛し、聖霊を受けて生きているのかということではないかと思うのです。聖霊を与えられて、神とキリストが私たちの中に住んでいなければ、「そのような人には、何も起こりはしない」というボンフェッファーの言葉を噛みしめたいと思うのであります。

 

 

祈ります。

 

  • 神さま、ペンテコステの礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、ペンテコステの時に弟子たちに起こったことが、今もイエスを心から愛する者たちの中で起こっていることを信じます。神さま、どうか私たちを、イエスを心から愛する者の一人にしてください。
  • エスとその弟子たちによって人々の中で起こったことが、今も私たちの中で起こりますように。そのためにその働きの一端を、私たちも担うことができますようにお導きください。
  • 非日常である熱い戦争によって人が殺されるだけではなく、この日常の中で一人の人間が隣人を殺害する事件が続いて起きています。神さま、「殺してはならない」というあなたの戒めを守ることのできる、あなたの造られた人間として、私たちが生きることができるようにしてください。
  • 今この世界の中で傷つき、苦しみ、命と生活が脅かされている人々をあなたが支えてください。私たちに分かち合う力を与えてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。特に今病の中にある方々を癒し、支えてください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩    343(聖霊よ、降りて)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-343.htm

⑪ 転入会式  

⑫ 讃 美 歌   521(とらえたまえ、われらを)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-521.htm

⑬ 讃 美 歌       81(主の食卓を囲み 1、2節)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-081.htm

聖 餐 式

讃 美 歌   81(主の食卓を囲み、3節)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-081.htm

⑭ 献  金 

⑮ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑯ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。