なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(92)

9月6(日)聖霊降臨節第15主日礼拝(通常10:30開始)

 

(注)讃美歌はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

                                                                                                  (ローマ5:5)

③ 讃 美 歌  206(七日の旅路)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-206.htm

 ④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編98編1-9節(讃美歌交読詩編107頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書21章18-32節(新約41頁)

        (当該箇所を黙読する)

 ⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

 ⑧ 讃 美 歌 505(歩ませてください)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-505.htm

 説教 「信の力」 北村慈郎牧師

祈祷

    イエスが宣べ伝えたのは、「すべての人は神の無条件の恵みによって救われるのだ」という、まさに喜ばしいおとずれである福音であります。

    この神の無条件の恵みは、マタイによる福音書5章43節以下の「敵を愛しなさい」という教えの中にあります、「あなたがたの天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」という言葉がよく示しているものです。

    しかし、このイエスが宣べ伝えた神の無条件の恵みに対して、「人間は律法を守らなければ救われない」という律法主義が支配する当時のユダヤでは、イエスはなかなか受け入れられませんでした。特に今日のマタイによる福音書21章23節以下の「権威についての問答」に出てきます「祭司長や民の長老たち」は、そうでした。ファリサイ派の人々や律法学者もそうでした。

    けれども、「徴税人や娼婦たち」は、バプテスマのヨハネが示した「義の道」(=神の無条件の恵み)を信じました。ですから、イエスは、「祭司長や長老たち」よりも、「徴税人や娼婦たち」の方が先に神の国に入るだろう、と言われました。

    マタイによる福音書では、21章23節以下で、イエスはますますユダヤ教の指導者たちと対決していくことになります。

    無条件の神の恵みを宣べ伝え、自らそれを信じて振る舞うイエスと、律法遵守こそ、神に至る祝福の道であると説き、それを信じて振る舞うユダヤ教の指導者たちとは、相容れることはできなかったからです。

    そういうイエスユダヤ教の指導者達との決定的な対立に向かう歩みを伝えるマタイ福音書の記者は、18節から22節に、いちじくの木を呪うイエスの奇跡物語を挿入しています。このイエスの奇跡物語は、奇跡物語の中では異様な感じがする奇跡物語です。

    エルサレム郊外のベタニアに泊まっておられたイエスが、朝早くエルサレムの都に帰る途中、イエスはお腹を空かせていました。そこで道端に植わっていたいちじくの木を見たので、いちじくの実を食べて空腹を回避しようとしました。イエスはいちじくの木に近寄りました。ところが、いちじくの木には実はなっていませんでした。葉のほかは何も実はなかったのです。するとイエスは八つ当たりしているかのように、いちじくの木に向かって、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、そのいちじくの木は枯れてしまったというのです。

    大変奇妙なイエスの奇跡物語です。ルツによれば、「この物語が奇妙なものとして目立つようになったのは最近になってのことである」というのです。「それ以前は、そこで問題になっているのは、いちじくの木ではなくイスラエルであったことについては意見の一致があって、その文字通りの意味についての異様さは・・・全く起こり得なかった。今日でも、この物語はたいてい、イスラエルに対する審判を告げようとする象徴行為として象徴的に解釈される。ただ稀にのみ、反ユダヤ教的解釈を避けようとして、いちじくの木をイスラエルと結びつけない試みが存在する」と言っています。

    マタイによる福音書では21章1節から24章2節までは、「イエスの敵対者たちとの間の決着」がテーマですので、この呪いの奇跡物語も、いちじくの木はイスラエルの象徴ととるのが自然ではないかと思われます。

    ただこのいちじくの木を呪う物語の後半部分では、イスラエルに対する審判ではなく、いちじくの木を呪い枯らしたイエスの奇跡行為が、人間にとって不可能に思われることを行うことのできる、疑いを抱きつつではない心からの「信仰の行為」として、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」という信仰の問題に繋がっています。

    「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」という弟子たちの問いに対して、イエスは答えてこう言っています。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かって『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。」と。有名な山を移すほどの信仰です。

    しかし、誰が木が枯れることを祈るでしょうか。「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」という、祈りの万能は癒しの物語の文脈では適していると思われますが、木が枯れることを祈る祈りの万能は無意味に思われます。

    ですから、ルツは、「彼(マタイ)自身の意図に反して、この多少不幸なテキスト・・は今日の読者としての私に、信仰はそれが愛の行為を働かせるときにのみ万能であって欲しいという願いを誘い出す」と言って、ガラテヤの信徒への手紙5章の6節を引用しています。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」

    今日のマタイによる福音書の「権威についての問答」(21:23-27)も、「『二人の息子』のたとえ」(21:28-32)も、イエスユダヤ教の指導者との対決という枠の中に入りますが、内容的には「信仰とな何か」が問われているように思われます。

    神の無条件の恵みに信頼して生きる信仰です。イエスも十字架の極みに至るまでその信仰に生きた方です。すべての人に無条件に恵みを与えておられる神に信頼して、神を愛し、己の如く隣人を愛せよと命じる神に従って最後まで歩まれたのです。

    そのエスの信仰に倣って、信じて生きる者へと私たちは招かれているのではないでしょうか。すべての人を無条件に愛していてくださる神の恵みは、それを信じて生きる人の証言によって、人々の前に顕わとなり、その恵みの存在を気づかなかった人に気づきを与えるきっかけになるのです。

    信仰をそのように考えることが出来るとするなら、今日の教会に連なる私たち自身の中に、イエスの示している信の力がどのように現れていると言えるでしょうか。

    実のならないいちじくの木がイエスによって枯れてしまいましたが、私たち自身が実らないいちじくの木になってはいないでしょうか。

    イエスの敵対者である今日のマタイによる福音書の個所で考えられていますユダヤ教の指導者たち、大祭司にしろ、長老たちにしろ、あるいはファリサイ派や律法学者たちにしろ、彼らも彼らなりにユダヤ教徒としてイスラエルの神ヤハウエを信じていたに違いありません。しかし、その彼らの信仰がイエスによって批判されたのです。

    何故でしょうか。今日のマタイ福音書の21章32節に出てくる「徴税人や娼婦たち」を律法違反者である罪人として、彼らは自分たちの仲間から差別排除していました。彼らは、彼らのその信仰によって、自分たちは律法にちゃんと従って生きている正しいユダヤ教徒であり、正しい人間なんだと、自己正当化していたのでしょう。一方徴税人や娼婦は、自分たちとは違って、律法を守らない罪人であり、ダメな人間なのだと。

    このイエスの敵対者たちの中にある自己正当化としての信仰が、私たちキリスト者の中にもありはしないでしょうか。私は洗礼を受けてキリスト者になったのだから、そうでないキリスト教を信じていない人たちとは違って、彼ら彼女らよりましな人間なんだという思いです。

    船越教会の皆さんの中にはそのような思いはないかもしれませんが、クリスチャンを自分の看板にしているようなキリスト者の中には、イエスの敵対者と同じ自己正当化としての信仰があるように思えてしますのです。

    自己正当化としての信仰は、イエスの敵対者が徴税人や娼婦を裁いているように人を裁きます。

    パウロがローマの信徒への手紙14章で語っているのも、人を裁く信仰についてです。パウロはここで、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです」(ローマ14:1-4)

    人間を神の「召し使い」という言い方には違和感を持つ方もいるかと思いますが、ここでは、すべての人は神の召し使いなのだから、同じ召し使い同士で食べ物のことで裁き合ってはならないということが言われています。「召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです」と言われていますように、大切なのは神ご自身であり、その神がどうされるかということなのです。

    この説教で繰り返し語っていますように、信じる私の信仰ではなく、私たちによって信じられる神の信仰(=真実)が、信仰にとって大切であるということです。ですから、パウロはこのように語っているのです。「神の国、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも信頼されます。だから平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。食べ物のために神の働きを無にしてはなりません」(ローマ14:17-19)と。

    信仰は、何よりも神が私たちに何をしようとしておられるのか、その神の働きに心を開くことです。パウロは、神は、聖霊によって与えられる義と平和と喜びである神の国に私たちを招いてくださっていると言うのです。その神の招きに従って生きる、キリストに仕える私たちキリスト者は、神に喜ばれ、人々にも信頼されるようになるのだと。「だから平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。食べ物のために神の働きを無にしてはなりません」と語っているのです。

    私たちは、人間の思惑によってつくられている現代日本社会の能力主義、経済優先主義のシステムによって、弱者切り捨ての経済的な格差を広げています。貧困によって苦しむ人々が、子供たちを含めてどんどん増えています。また、政府が進める国家主義的な教育や、軍備による安全保障によって、平和がどんどん遠ざかっていく恐れを感じています。この現実の厳しさに翻弄されて、自分の無力さを痛感させられることも多いのではないかと思います。

    そして今は世界的なコロナウイリス感染により、私たちの社会はさらに厳しい状況になっています。ただコロナのことで自然破壊を伴っていた経済成長第一主義の生き方が根本的に問われて、新しい生活スタイルが模索され始めています。私たちにはできなかった社会の在り方が、コロナによって変えざるを得なくなっているというのも不思議なことです。

   現実を直視することは大切ですが、同時に私たちは目を天に向けて神に祈り、神が今私たちの中でイエスを通して何をなそうとされているのか、その神の働きを受け止める信仰を確かなものにしたいと願います。  

   「神の国、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも信頼されます。だから平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。食べ物のために神の働きを無にしてはなりません」(ローマ14:17-19)

    このパウロの言葉を噛みしめたいと思います。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も船越教会に集まって、共に礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。
  • 今日はイエスの敵対者に対するマタイ福音書の物語から、イエスを信じる「信の力」について考えました。イエスの敵対者に対する批判は、敵対者のユダヤ教徒の指導者たちに信仰がなかったからではありません。その信仰が自己正当化に陥っていたからです。その過ちは私たちの中にもあるように思われます。
  • 神さま、あなたの真実を心から受け入れ、それに応えて生きる私たちの信仰を確かなものにしてください。この問題に満ちた今の日本の社会に生きています私たちは、そのあまりの厳しさのゆえに自らの無力さに陥るものですが、そのようなときにも、あなたの聖霊の働きに私たちの心を開くことができるようにお導きください。
  • 大きな台風が近づいています。今夜から明日にかけて、特に奄美や九州地方に影響が出そうですが、どうぞこの台風による被害ができる限り少なくなるように、備えることができますようにお導きください。
  • 今日も礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

⑩ 讃 美 歌   458(信仰こそ旅路を)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-458.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

 

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)

讃美歌21 28(み栄えあれや)

https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

 ⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 

 これで礼拝は終わります。