なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(4)

    「権力者の暴力」マタイ2:13-23、2017年10月8日(日)船越教会礼拝説教

・マタイによる福音書のイエス誕生物語では、東方の博士たちはベツレヘムの幼子イエスを礼拝し、黄金、

乳香、没薬を贈物としてささげた後、夢で「ヘロデのところへ帰るな」とのお告げを受けて、別の道を通

って自分たちの国へ帰って行きました(2;11-12)。

・その後には、今日のマタイによる福音書の箇所ですが、生まれたばかりの幼子イエスとヨセフとマリアの

エジプトへの逃避行とヘロデの幼児虐殺、そしてヘロデが死んだ後にイエスの家族はエジプトからイスラエ

ルの地に帰り、ガリラヤの地方のナザレの町に住んだというのです。

・このイエスの家族のエジプトへの逃避行とイスラエルの地への帰国の物語において、主役を演じているの

はマリアではなくヨセフです。ヨセフはマリアが受胎した時、彼女との婚約を解消しようとしました。しか

し、ヨセフは夢で主の天使が現れて、その天使が命じたとおりマリアを妻として迎え入れました。今日のと

ころでもヨセフは、夢に現れた主の天使の命令に従って、イエスとマリアを連れてエジプトへ逃げていくの

です。

・「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供と母親を連

れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出し

て殺そうとしている』。ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死

ぬまでそこにいた」(2:13-15)と記されている通りです。

・考えて見ますと、マタイによる福音書の物語でのヨセフは随分お人よしに思えます。婚約中にマリアが妊

娠し、マリアが出産した直後には幼子と母マリアを連れてエジプトへ逃げていかなければならないわけです。

随分損な役割をヨセフは引き受けています。

・ヨセフはヘロデが死んで、エジプトからイエスとマリアを連れてイスライルの国に帰ってくるときにも、

夢で主の天使がヨセフに現れて、子供とその母親を連れて帰るようにと命じられます。

・高橋三郎さんは、「ヨセフにとっては、(直接自分の身から出た子ではないこの幼子イエスのために)自

分の故郷を捨て、遠い異郷に落ちのびて行くことは、どれほど大きな犠牲であったかを思うとき、黙してこ

の重荷を甘受した彼の服従は、限りなく美しい。神の救いは、この信仰の服従を通して、前進したのである。

しかもこれに先立って、東方から来た異邦人たちも、その服従を通して、幼子イエスを守った。マタイがこ

の二つの服従を並記したとき、きたるべき福音前進の予表を、すでにここに見出したのであろう」と言っ

ています。

・イエスの父ヨセフの登場は、マタイによる福音書ではこの2章までで、3章以降には全く登場しません。3章

以降はイエスの公生涯の記事になりますので、既にヨセフは死んでいたからでしょう。

・そういう意味でも、ヨセフの信仰の服従を示す今日の記事は印象深く思われます。東方の博士たちの信仰の

服従とヨセフの信仰の服従によって、幼子イエスの命は守られました。そして幼子イエスの命が守られること

によって、3章以下のイエスによる神の救いの御業の展開があり得たのです。

・けれども一方、東方の博士たちとヨセフの信仰の服従によって、ヘロデの幼児虐殺という悲惨な事件が起こ

されたということも言えるわけです。東方の博士たちがヘロデに頼まれた幼子イエスの誕生した場所を教えて

しまっていれば、幼子イエスがヘロデに虐殺されたでしょう。そうすれば、ヘロデの幼児虐殺はなかったこと

になります。あるいはヨセフが夢で現れた天使の命令に従わず、エジプトへ幼子イエスとその母マリアを連

れて逃げなければ、ヘロデは幼子イエスを見つけ出して殺していたかも知れません。そうしたら、ヘロデの

幼児虐殺はなかったでしょう。

・そういう意味では、ヘロデによって殺された幼児たちは東方の博士たちやヨセフの信仰の服従の犠牲者だと

言うこともできるのです。実際にこのマタイによる福音書のヘロデの幼児虐殺の物語についての後の教会の解

釈の中には、ヘロデによって殺された幼子を殉教者としてみる解釈があると言われます。東方の博士たちの神

への服従とヨセフの服従によって殺された幼児たちもまた、神への信仰の服従の故に殺された殉教者というよ

うに考えたのでしょう。

・ヘロデの幼児虐殺はヘロデの暴挙以外の何ものでもありません。その意味で東方の博士たちに、またヨセフ

に責任があるわけではありません。もちろんイエス自身にもです。服従としての信仰は、服従を否定する力や

存在と対立します。神を神として信じるときには、神でないものは信じないからです。神と富とに同時に仕え

ることはできないと、イエスも語っています。ですから、東方の博士たちもヨセフも、神とヘロデの両方に

同時に仕えることは出来なかったのです。服従としての信仰は、自分の十字架を負って神とイエスに従う信

仰ではないでしょうか。夢で天使のみ告げを受けて、それに従った東方の博士たちもヨセフも、歴史の中で

働く神のみ業への服従によって神のみ業の担い手たらんとしたのです。この服従としての信仰は、イエス

十字架の死に至るまで貫いた神信頼でもあります。

・このように東方の博士とヨセフの服従への信仰は、高橋三郎さんが言うように、ある面で確かに「限りな

く美しい」と言えるでしょう。しかし、このマタイによる福音書のイエス誕生物語の中で、その東方の博士

たちやヨセフの服従としての信仰が、ヘロデの幼児虐殺という事件を生み出したことを考える時に、手放し

でその服従としての信仰を「限りなく美しい」と言えるでしょうか。権力者の中には狡猾で残忍な者もいま

す。ヘロデはまさにそのような狡猾で残忍な存在でした。「暴君の多かった古代世界でもヘロデは残忍な

王として悪名高い。彼は権力の座を狙う者を容赦なく粛清したが、それは身内の者といえども例外でなく、

叔父のヨセフ、妻のマリアンメ、その兄アリストブロス三世、その母アレクサンドラ、妻の伯父アンティ

ノゴス、さらに自分の息子三人までも彼の手にかかって殺された。彼はユダヤの王であったが、それはロ

ーマ元老院(げんろういん)に承認されての地位であったから、なかばローマの傀儡であり、他方イドマ

ヤ出身で生粋のユダヤ人でなかったため、民族的自尊心の強いユダヤ人の間では軽蔑され、また宮廷内

では常に暗殺の陰謀に悩まされた。このような綱渡り的な状況で36年間もの間、王権を維持し得たこと

はおどろくべきことである。しかしそのために血なまぐさい犠牲をいささかも顧みなかった。ことに晩年

には猜疑心も強くなっていたため、あらゆる反ヘロデの動きには徹底的弾圧を加えた。彼は人民から全く

尊敬されていないことを知っていたので、彼が死ぬときにはユダヤの全世帯が家族一人を殉死させて全人

民がそとって王の死を悲しむべきことを決めていたほどである(ヨセフス『古代史』17・181)。皇帝ア

ウグストゥスは、ヘロデの息子であるより豚の方がまだ安全だとさえ言った」(新共同訳注解)と言わ

れています。

・このようなヘロデの時代でのイエスの誕生でしたので、このイエスの誕生を救い主の誕生として描くマ

タイ福音書のイエス誕生物語では、それを知ったヘロデがイエスの生まれた地域の幼児を虐殺したという

物語に仕立てたのでしょう。けれども、マタイ福音書が描く東方の博士たちやヨセフの服従としての信仰

が、結果的にヘロデの幼児虐殺を生み出したということは、根も葉もないことではなく、歴史的な事実で

もあるわけです。「ヨセフにとっては、(直接自分の身から出た子ではないこの幼子イエスのために)自

分の故郷を捨て、遠い異郷に落ちのびて行くことは、どれほど大きな犠牲であったか」(高橋三郎)。そ

の自分の十字架を負ってヨセフは天使のみ告げを通して神に従ったのであります。そしてそのヨセフの服

従としての信仰の波及として、幼児の命をも奪ってしまったのです。信仰って一体なんなのでしょうか。

・ボンフェッファーに「安価な恵み」と「高価な恵み」という考え方があります。「安価な恵み」は服従

を伴わない信心が求める恵みです。「高価な恵み」は服従としての信仰がもとめる恵みです。安価な恵み

は、私たちの幸福主義を満足させてくれます。個人の癒しと慰めを求める信心であり、それを与えられて

満足する信仰です。けれども、この「安価な恵み」からは個々人の一過性の幸福はもたらされるかも知れ

ませんが、真の幸福も神の国も到来しません。国家の暴力も社会にある抑圧差別も温存されたままです。

神の国にふさわしい平和や正義や喜びは、「安価な恵み」からは生まれません。服従としての信仰が求め

る「高価な恵み」は神の国にふさわしい平和と正義と喜びです。その中にこそ癒しと慰めがふくまれてい

るのではないでしょうか。自分が一人幸福だからよいわけではありません。みんなが幸福にならなければ、

自分自身の幸福もあり得ないのではないでしょうか。

・私は最近、改めて「主の祈り」に私たちの信仰の全てが言い表されているように思えてなりません。先

ほどご一緒に祈った「主の祈り」です。ひとつひとつのフレーズをよく吟味しながら祈ると、「主の祈り」

キリスト教信仰のすべてが言い表されているように思えるのです。

≪天にまします我らの父よ、

ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。

み国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、

地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。

我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく、

我らの罪をもゆるしたまえ。

我らをこころみにあわせず、

悪より救い出したまえ。

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり。

アーメン≫

服従としての信仰は、「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛しなさい」というイエスの招きに従う

信仰に尽きると思います。私たちは英雄主義的になる必要はありません。主の祈りを祈りつつ、自分の与

えられている賜物を用いて、他者である隣人との関わりを、東方の博士たちやヨセフに見倣って、この世

の権力者や富める者を中心にではなく、イエスとイエスの神を中心として築いていきたいと願います。