なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

東方の博士たち(燭火礼拝説教)マタイ2:1-12から

26日の日曜日は私の冬期牧師休暇に当たり、船越教会の礼拝は信徒講壇になります。私は説教をしません。そこで、昨日(24日)の燭火礼拝での説教を掲載します。

 

「東方の博士たち」マタイ2:1-12、2021年12月24日(金)燭火礼拝説教

 

  • 「日がのぼると東の国から 三人の博士が/あちらこちらの町々で、たずねながら やって来た。/「ベツレヘムへは、あの幼な児と乙女のもとへは/どの道を まいったらよいのですかの?」/老いも若きも それは知らない/三人の博士は さらに旅した/金の星に 従って/明るくやさしく/きよらに輝く金の星に/星は ヨセフの家のうえに/とまり/博士たちは 歩み入った/三人の博士が 歌にうたった/子牛が鳴き あのみどり児が/泣いていた。」(ハインリッヒ・ハイネ、『クリスマスの贈り物』より)
  • この星を頼りに東の国からやってきた博士たちの物語は、天使のみ告げを受けてやってきた羊飼いたちと共にイエスの誕生の出来事に色を添えています。
  • 博士たちは、馬小屋で誕生したイエスのところに来る前に、エルサレムにやってきて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言って、そのユダヤ人の王がどこでお生まれになるのかを、エルサレムの人々に尋ねました(マタイ2:2)。
  • これを聞いて、当時のユダヤの王様であったヘロデも、エルサレムの人々も不安を抱きました(同2:3)。
  • そしてヘロデ「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシア(王、救い主)はどこに生まれることになっているかと問いただし」ました(同2:4)。
  • そして、エルサレムにやってきた東方の博士たちを、ヘロデはひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめ、《そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言って、ベツレヘムに送り出し》(同2:8)ました。
  • 博士たちは「…王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まりました。博士たちはその星を見て喜びにあふれました。家に入って見ると、幼子が母マリアと共にいました。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました」(同2:9-11)。
  • ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、(博士たちは)別の道を通って自分たちの国に帰って行きました」(同2:12)。ヘロデには知らせなかったのです。
  • 以下は、以前この講壇からしたマタイ福音書のこの箇所の説教でもお話しましたことですが、繰り返しになりますがご容赦いただきたいと思います。
  • 私は、このマタイの箇所を思い巡らしていたときに、文芸評論家の加藤周一が書いた「ちいさな花」という文章を思い出しました。その加藤周一の文章から、「小さな花の命」が、ヘロデやエルサレム社会の大祭司たちや律法学者たちには不安をもたらし、東方の博士には喜びをもたらしたイエスの誕生の出来事に通じるものを感じましたので、紹介させていただきます。
  • 加藤周一の「ちいさな花」という文章は、ベトナム戦争の時代にアメリカでとられた一枚の写真についてのものです。加藤周一はこのように書いています。
  • 「1960年代の後半に、アメリカのベツナム征伐に抗議してワシントンへ集まった『ヒッピーズ』が、武装した兵隊の一列と相対して、地面に坐りこんだとき、そのなかの一人の若い女が、片手を伸ばし、目のまえの無表情な兵士に向かって差しだした一輪の小さな花ほど美しい花は、地上のどこにもなかったろう。(中略)/一方には史上空前の武力があり、他方には無力な一人の女があった。一方にはアメリカ帝国の組織と合理的な計算があり、他方には無名の個人とその感情の自発性があった。権力対市民、自動小銃対小さな花。一方が他方を踏みにじるほど容易なことはない。/しかし人は小さな花を愛することはできるが、帝国を愛することはできない。花を踏みにじる権力は、愛することの可能性そのものを破壊するのである・・・・・」(加藤周一「小さな花」『小さな花』かもがわ出版、2003年、36頁)。
  • そして加藤周一は、「権力の側に立つか、小さな花の側に立つか、この世の中には選ばなければならない時がある。(中略)/私は私の選択が、強大な権力の側にではなく、小さな花の側にあることを、望む。望みは常に実現されるとは、かぎらぬだろうが、武装し、威嚇し、瞞着し、買収し、みずからを合理化するのに巧みな権力に対して、ただ人間の愛する能力を証言するためにのみ差し出された無名の花の命を、私は常に、かぎりなく美しく感じるのである」(前掲書、38頁)と言っているのであります。
  • 私はこの加藤周一の文章を読んで、「小さな花の命」とイエスの命が重なって感じられました。そして、このマタイのイエスの誕生物語を思い巡らすうちに、本当に不安が不安を生み出していくヘロデの権力の側にではなく、東方の博士とともに「小さな花の命」となってこの世に誕生されたイエスを、心から喜び、イエスの側に立ち続ける者でありたいと思いました。

 

  • 祈ります。

 

神さま、イエスさまの誕生を祝うクリスマスの燭火礼拝に共に参加できましたことを心から感謝いたします。馬小屋に誕生されたイエスさまが、権力と軍事力によってではなく、謙遜と愛の力によって私たちの中に平和と喜びと公平な社会を築いてくださったことを覚え、感謝いたします。ベツナッム戦争の時代に一人の若い女性が兵士に一輪の小さな花を挿し出したように、私たちも、権力の側にではなく、平和な一輪の小さな花の側に立ち続けていくことができますように、私たち一人一人をお導き下さい。今命と生活が脅かされている一人一人に、助けのみ手が与えられますように。

 イエスさまのお名前を通して、この祈りを捧げます。  アーメン