なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(495)

船越通信、№495 2021年12月19日(日)北村慈郎

  • 今日はクリスマス礼拝です。主イエスの誕生を心からお祝い申し上げます。
  • 12日(日)は礼拝に耳の不自由なOさんが久しぶりに出席しました。礼拝後礼拝堂で筆談してOさんからの質問にいくつか答えた後、毎週の礼拝式及び説教原稿はTさんを通してOさんにも送られていますので、Oさんからロマ書になってから先生の説教は難しいですと言われました。私も筆談で「四苦八苦」していますと答えますと、Oさんもうなずいていました。Oさんとの筆談を終えて、12月の役員会を行いました。既に役員会報告がみなさんに書記のNさんからメールで送られていますのでご覧になっていただきたいと思います。新年の1月2日の日曜日の礼拝は、会堂に集まることは止めて、メール配信による各自分散礼拝にしました。礼拝式及び説教原稿は私が作りますので、年末の26日の日曜日は信徒講壇にして、その日を私の冬の休暇にしてもらいました。クリスマス礼拝と燭火礼拝は、どちらも礼拝だけですので特に話し合う内容はありませんでした。今回の役員会では懸案の「災害時に教会ができることは何か」について話し合い、役員の方に原案を作ってもらい、それを役員会で検討し、その上で皆さんとの話し合いをして、災害時における教会の対応についてのある程度のマニュアルを作っておくようにすることにしました。また、災害が起きた時に教会から家に帰れない私のような者が2,3名いるという想定で、備品についても再検討していくことにしました。このところ比較的大きな地震が続いていますので、役員会の議題として項目を挙げておくだけではなく、一歩踏み込んで考えていくことにしたという次第です。ご理解いただきたいと思います。

・ 東京神学大学から「危機的状況からのお願い」という手紙が、「日本基督教団の教会に仕える牧師・伝道師、役員・長老の皆様、キリスト教主義学校の理事長・学長・校長・宗教主任に皆様」宛に来ました。内容は学生数が激減したので、このままだと文科省私学助成金がカットされ、財政困難に陥るので、学生を東京神学大学に送り出してもらいたいというものです。この手紙を読んで、東京神学大学も落ちるところまで落ちたという実感を持ちました。志をもって自主的に学びたいと入学する学生が集まらない神学校を、学生数の数合わせを無理して維持する必要があるのでしょうか。本末転倒としか思えません。私は、東京神学大学は1970年代の機動隊導入問題を総括した上で、国家に対峙する福音宣教という方向性を明確にしない限り、その神学教育の再生はありえないと思ってきました。以前に神奈川教区の有志の会で検討したことのある私の「日本基督教団マニュフェスト私案」の具体的な提案の一つとして、日本基督教団としての神学教育の主体性を強調した上で、「各教団認可神学校の自主性を重んじるが、教団立東京神学大学については、合同教会としての内実をもつ神学校になるように体制を抜本的に改め、機動隊導入の否を認めて再出発するように促す」を入れたことがあります。東京神学大学の存続を願うとするならがば、今の東京神学大学が変わらなければ無理だと思います。東京神学大学を支援する方には、ぜひそのことを考えてもらいたいと思います。この東京神学大学の手紙を読んで、何とも悲しい思いにさせられたのは、私だけではないのではないでしょうか。

・ この週は教区の委員会もなく、出かけることもなく鶴巻で過ごしました。ただ先週連れ合いの納骨の報告を連れ合いの遺した関係者約160名に出しましたので、その返信やクリスマス・カード、中にはお花を送ってくれる人もあって、必要な方にはお礼のハガキを出しました。いただいた手紙の中に、生前連れ合いの千賀が毎週木曜日に行っていた国会前の辺野古新基地反対の座り込み(月木の午後)に休まず来ている方が3人で、そのうちの二人は80代半ばの人であるということが書いてありました。連れ合いの生前には私も時々ですがその座り込みに参加していました。新年になったら少しは参加出来たらと願っています。

★ 斉藤幸平『人新生の「資本論」』⑯

・ 斉藤は本書第6章の表題を「欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム」とし、「資本主義は、絶えず欠乏を生み出すシステムなのである」と断定している。「前資本主義社会においては、共同体は共有地をみんなで管理しながら、生活していた。…土地は根源的な生産手段であり、それは個人が自由に売買できる私的な所有物ではなく、社会全体で管理するものだったのだ。だから、入会地のような共有地は、イギリスでは『コモンズ』と呼ばれてきた。そして、人々は、共有地で、果実、薪、魚、野鳥、きのこなど生活に必要なものを適宜採取していたのである。森林のどんくりで、家畜を育てたりもしていたという。/だが、そのような共有地の存在は、資本主義とは相容れない。みんなが生活に必要なものを自前で調達していたら、市場の商品はさっぱり売れないからである。誰もわざわざ商品を買う必要がないのだ」と言う。資本主義社会になって、「コモンズを失った人々は、商品世界に投げ込まれる。そこで、直面するのは、『貨幣の希少性』である。世の中には商品が溢れている。けれども、貨幣がなければ、私たちは何も買うことができない。貨幣があればなんでも手に入れられるが、貨幣を手に入れる方法は非常に限られており、常に欠乏状態である。だから、生きるために、私たちは貨幣を必死に追い求める」。「かつて、人間は一日のうち数時間働いて、必要なものが手に入れば、あとはのんびりしていた。昼寝をしたり、遊んだり、語り合ったりしていたのだ。ところが、いまや、貨幣を手に入れるために、他人の命令のもとで、長時間働かなくてはならない。時は金でなり。時間は一分一秒であっても無駄にできない、希少なものになっていく。/資本主義に生きる労働者のあり方を、マルクスはしばしば「奴隷制」と呼んでいた。意志にかかわりなく、暇もなく、延々と働くという点では、労働者も奴隷も同じなのである。いや、現代の労働者の方が酷い場合すらある。古代の奴隷には、生存保障があった。替えの奴隷を見つけるのも大変だったため、大事にされた。/それに対して、資本主義のもとでの労働者たちの代わりはいくらでもいる。労働者は、首になって、仕事が見つからなくなれば、究極的には飢え死にしてしまう」というのである。   

 

追伸:

上記の斎藤幸平の『人新生の資本論』の引用には、現代の日本のような資本制社会ではホームレスが生まれるのは必然であることが記されています。ホームレスが出ないような社会を築かなければ、「寄せ場」はなくならないし、「炊き出し」もなくならないということです。