下記の説教の枕の部分は、本日のクリスマス礼拝に子どもは来ませんでしたので割愛しました。
12月19日(日)クリスマス(待降節第4主日)礼拝(10:30開始)
(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま
しょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「起きよ、光を放て。あなたを照らす光が昇り、主の栄光あなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」 (イザヤ書60:1-2)
③ 讃美歌 268(朝日は昇りて)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-268.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編113編1-9節(讃美歌交読詩編126頁)
(当該箇所を黙読する)
⑥ 聖 書 マタイによる福音書4章16節(新約5頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 255(生けるものすべて)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-255.htm
⑨ 説 教 「暗黒の中に輝く光」 北村慈郎牧師
祈 祷
(クリスマス礼拝に子ども連れの家族が来るというので、この枕にする)
- クリスマスというと、みなさんにとってはサンタクロースのプレゼントが、すぐ思い浮かぶでしょう。でも、クリスマスのなかで、サンタさんからのプレゼントは、クリスマスを一本の樹木にたとえますと、その樹木の枝か葉っぱのようなものなのです。樹木の中心は何と言っても、幹です。大地に張った根に支えられて、空に向かってまっすぐ伸びている樹木の幹から枝や葉っぱがその先に伸びているのです。クリスマスで樹木の幹に当たる中心は、イエスという人の誕生という出来事です。
- まずその物語りを短くお話しましょう。
- ヨセフとマリアという男女が婚約していました。その婚約中にマリアには赤ちゃんができました。まだ二人は夫婦にはなっていませんでしたので、ヨセフは婚約を解消しようと思いました。ところがヨセフに夢の中で天使が現われて、「恐れないでマリアを妻として迎えなさい。マリアのお腹の中の赤ちゃんは神の霊によって宿ったので、マリアは男の子を産む。その子にイエスと名づけなさい」と言います。ヨセフは目が覚めると、天使の言われたようにマリアを妻として迎え、男の子が生まれたので、イエスと名づけました。イエスはベツレヘムという村の馬小屋の飼い葉おけに寝かされました。ヨセフとマリアがベツレヘムにやってきたのは、ローマ皇帝アウグストウスの命令でヨセフの生まれ故郷であったベツレヘムに住民登録のためでした。ですから二人は旅の途中でした。みんなが住民登録をしたので、ベツレヘムの宿屋はすでに一杯で、ヨセフとマリアはある宿屋の主人の厚意で、馬小屋で夜を過ごすことになったわけです。そのときにマリアが赤ちゃんを産んだのです。
- これがクリスマスの中心にある物語です。
- この物語りから、教会は何を読み取ってきたかといいますと、いろいろありますが、私は二つあると思っています。
- ひとつは、イエスさまという人間を通して、神はどのような方であるか、何を考え、何を望み、どのように私たちとこの世界を導こうとされるのかという、神の心を知ることが出来るということです。ですから、イエスは、人となった神であると、私たちは信じています。
- もう一つは、イエスさまが飼い葉おけの中で生まれたということです。それは、イエスさまがこの世の最も低いところ、弱い人々、貧しく苦しんでいる人々のところにやってきたということです。アウグストウスは当時の最高権力者です。自ら神と名乗って皇帝礼拝を人々にさせました。イエスさまはそういうアウグストウスのような者と正反対の人です。
- このイザヤの預言は、紀元前732年にアッスリヤの王ティグラテピレセル三世が北イスラエル王国に攻めて来て、「ギレアデ、ガリラヤ、ナフタリなどの全地を占領し、人々をアッスリヤへ捕ら移した」後の悲惨な、荒廃の中にある民の上に、神からの救いの光が臨むという救済預言です。
- ところで、ガリラヤという地域は、北王国の北辺に当たっているため、北王国の辺境の地であり、繰り返し北からの侵略にさらされてきました。・・・・上記のアッスリヤによる占領と住民の捕囚という悲運に会ったばかりではなく、その後もバビロン、ペルシャ、マケドニア、エジプト、シリアと支配者が交代して、異民族の支配下に置かれました。その結果、他民族との混血が進んだばかりでなく、文化的にも、生粋のユダヤ教文化とは異質なるものとなりました。「異邦人のガリラヤ」という言い方には、ガリラヤに対する深い軽蔑がこもっているのです。高橋三郎さんは「イエスが公生涯への第一歩を踏み出すに当たり、最も見捨てられていたこの辺境に向かったことは、その福音の本質を如実に示す、重大な選択であったと言わねばならなりません」と言っています。
- バプテスマのヨハネがヘロデ・アンティパスによって捕えられたと聞き、イエスは住み慣れたナザレを離れて、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムに来て、そこに住んだというのです。マタイによる福音書の著者は、そのナザレからガリラヤへのイエスの移住は、預言者イザヤの預言の成就であり、<そのときから、イエスは、「悔い改めよ、天の国は近づいた。と言って、宣べ伝え始めた」(4:17)と言うのです。
- この辺境の地ガリラヤにおいて始められたイエスの宣教とは、どのような出来事なのでしょうか。マタイ福音書の著者は、それは、預言者イザヤの預言の成就である「暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」という出来事だったと言っているのであります。この預言の成就は、イエス誕生においても言えるのではないでしょうか。イエスの誕生は、「暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」という出来事だったのです。
- ボンフェッファーが獄中で迎えたクリスマスについて、『抵抗と信従』という獄中書簡でこのように述べています。両親に宛てた手紙ですが、<僕には、お二人にクリスマスの便りを書くこと以外、もう何もすることが残っていません。さて、僕がこのような孤独なクリスマスによって意気消沈しているとは、どうか考えないでください。今年のクリスも、スペインやアメリカやイギリスで祝った一連のさまざまなクリスマスの中に、特別な場所を占めるでしょう。僕は、後になって、この日を恥じることなく、むしろ誇りをもって思い起すことができるでしょう。/キリスト教的に考えるなら、監房のクリスマスは何ら特別な問題ではありません。おそらく、クリスマスが名前だけとなってしまっているところよりも、いっそう有意義な、真のクリスマスが、この牢獄で多くの人によって祝われることでしょう。悲惨、苦悩、貧困、孤独、困窮、罪責が、神の前では人間の判断とは全く違った意味を持っているということ、人間が常に目をそらす方を神は向くということ、キリストは宿屋では全然場所がなかったので、馬小屋で生まれたということ、—-これらのことを、囚人は他の誰よりもいっそうよく理解します。実にこれらのことこそが、囚人にとっての福音なのです。囚人はそのように信じることによって、自分が、一切の空間的な、時間的な制限を越えたキリスト者の中に置かれていることを知り、獄房の中に過ごす年月はその意味を失うのです>。
- ボンフェッファーが獄中にいたのは、あの600万人のユダヤ人が虐殺されたと言われるナチ、ヒットラーの時代にドイツにおいて、ヒットラーの暗殺計画に加わったという理由でナチの秘密警察ゲシュタボに捕まったためです。そのために強制収容所に入れられたのです。強制収容所にはユダヤ人であるというだけで捕まって、ガス室に送られて殺されるのを待っている人たちがいました。
- 先ほどのイザヤの預言にあった「暗闇に住む民」、「死の陰の地に住む者」と言われている人々と言ってよいでしょう。彼ら・彼女らの上には「暗闇」と「死」が支配していたからです。その強制収容所を体験し、「夜と霧」を書いた精神医家フランクルは、例えばどうしても自分の研究を完成したいという学者・研究者のように、将来自分はこれをやりたいというものを持っていない人は、大変厳しい強制収容所の生活を耐えることはできなかったと言っています。
- そういうところでのクリスマスを、ボンフェッファーは、自由に生活できていた時に経験したクリスマスと全く変わらないどころか、「スペインやアメリカやイギリスで祝った一連のさまざまなクリスマスの中に、特別な場所を占めるでしょう」と言っているのです。
- またこうも言っているのです。「キリスト教的に考えるなら、監房のクリスマスは何ら特別な問題ではありません。おそらく、クリスマスが名前だけとなってしまっているところよりも、いっそう有意義な、真のクリスマスが、この牢獄で多くの人によって祝われることでしょう」と。
- ボンフェッファーは、「クリスマスが名前だけとなってしまっているところ」に対して、「いっそう有意義な、真のクリスマスが、この牢獄で多くの人によって祝われることでしょう」と言っているのです。
- 晩年バルトも、ほとんど刑務所での説教しか説教をしなかったと言われます。それは囚人こそがイエスの福音を最もよく受け止めることの出来る人たちだと、バルトが思っていたからです。「キリストは宿屋では全然場所がなかったので、馬小屋で生まれたということ」は、他の誰よりも囚人がいっそうよく理解できると、バルトも思っていたからではないでしょうか。
- 「悲惨、苦悩、貧困、孤独、困窮、罪責」の中にある人ことが、「神我らと共に」の「我ら」に当たるからではないでしょうか。私たちは、「悲惨、苦悩、貧困、孤独、困窮、罪責」の中にある方々と共に、「神我らと共に」を生きているのではないでしょうか。
- マタイによる福音書25章31節以下の最後の審判の記事で、神の国を受け継ぐ者は、「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と言われています(マタイ25:35,36)。この「わたし」とは、十字架にかけられ、復活して、天に上り神の右にいる栄光の「人の子」で、イエスのことを意味します。ですから、イエスは生前、飢え、渇き、病み、捕らわれの人と一つとなって生きたということです。「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」というのは、そういうことです。
- そういう宿屋には泊まる場所がなく、馬小屋でイエスが生まれたイエスの誕生を祝う今年のクリスマスが、「クリスマスが名前だけになったところ」で祝われるクリスマスではなく、「悲惨、苦悩、貧困、孤独、困窮、罪責」に苦しむ方々のことを思い、私たちの中で有意義で、真のクリスマスとなりますように!
祈ります。
- 神さま、今日も会堂に集まって礼拝をすることができ、心から感謝いたします。
- 神さま、今年も主イエスの降誕を祝うクリスマスを迎えることができましたことを、心から感謝いたします。新型コロナウイルス感染が世界中に広がってから、2年が経とうとしています。この間、このウイリス感染で亡くなった人も多く、またそのために悲しむ家族も多く出ています。また、経済活動の停滞により、貧困に苦しむ人が世界中で今まで以上に増えています。このウイリス感染のような困難を乗り越えるためには、ワクチンや薬の開発だけでなく、相互扶助による他ありません。しかし現実は同じ国の中でも経済格差により、世界的には今だ南北問題の壁により貧しい人々が圧倒的に不利な状況に置かれています。
- 神さま、この悲惨な状況を変えるために、あなたはイエスをこの世に遣わして下さいました。このイエスの誕生を祝うクリスマスの時に、そのことをもう一度私たちが深く受け止めることができますようにお導き下さい。
- 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
- 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
- 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン
⑩ 讃 美 歌 271(喜びはむねに)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-271.htm
⑪ 献 金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)
⑫ 頌 栄 28(各自歌う)
讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。annkokunonakani