私たちが生きて行くときの力になるのは、他者の寄り添いと共に言葉の力があるように思います。この鶴巻通信では、私が与えられたその言葉の力を、これから紹介していけたらと思っています。
鶴巻通信(20) 「わが足すべるとも」
ベイリーの『朝の祈り、夜の祈り』の16日朝の祈りの中に、このような言葉がありました。
「わが足すべるとも
汝は倒れたもうことなし
かく思うとき
わが歩みはいよよかたし」。
イエスを信じ、イエスと共に歩んでいる者には、何かのことで自分が崩れそうになるときに、その現実から少し退いて、立ち止まり、共に歩んでいて下さるイエスのことを思い起し、祈る時が与えられています。その時、自分は独りで苦しんでいるのではないのだ、苦しんでいるこの自分と共にイエスも苦しんでいてくださるのだという想いが与えられて、イエスが一緒にいて下さるなら、この苦しみも少し軽くなるように思えるのではないでしょうか。
私たちにとっては、苦しみのない生活ができればそれに越したことは無いのかも知れませんが、この地上の人生を生きている限り、そういうことは、まず不可能に近いでしょう。 そういうことを思うと、上記の言葉が響きます。
下記の写真は、最近の散歩で出会った夕方の富士と昼間の富士です。