なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(76)

メール配信による各自自宅礼拝になって一か月が経ちました。この日で5回目の日曜日になります。5月末まではこの形の礼拝になると思います。

 

5月10日(日)復活節第5主日礼拝(通常10:30開始)

 

(注)讃美歌はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

 

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

 

③ 讃 美 歌  8(心の底より)を歌いましょう(各自歌う)。

讃美歌21 8(心の底より)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-008.htm

 

⓸ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

 

⑤ 交 読 文   詩編100編1-5節(讃美歌交読詩編109頁)

        (当該箇所を黙読する) 

 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書15章21-28節(新約30頁)

        (当該箇所を黙読する)

 

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

 

⑧ 讃 美 歌    196(主のうちにこそ)

讃美歌21 196(主のうちにこそ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-196.htm

説教 「痛みに共感して」 北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 私の娘の知人に、難病の娘さんを抱えていらっしゃるお母さんがいます。また、名古屋時代の教会で出会いました、白血病の小学6年生の娘さんを亡くしたお母さんを知っています。その方には2人の子供さんがいらっしゃいますが、白血病で亡くなったのは上の女の子で、下の方は男の子で、生まれたときから二分脊椎で下半身に障がいをもっています。その子は、私が紅葉坂教会の牧師になってから明治学院大学に来て学び、卒業して名古屋に帰って就職し、結婚しています。
  •  
  • このマタイ福音書の物語を読んで、そういう2人の母親を思い出しました。

 

  • 今日の聖書に出てくる母親は悪霊にひどく苦しめられている娘を抱えて、イエスに「主よ、どうかお助けください」と願った、とあります。この母親は、イエスに出会う前から、「どうか、お助けださい」という心の叫びをもって、ずっと生きてきたに違いありません。

 

  • もしかしたら、イエスの衣に触れて癒された長血を患っていた女のように、癒しを求めて、よいと言われる医者や占い師のようなところに行けるだけ行って、全財産を使い果たしてしまっていたのかも知れません。あるいは、そもそも最初から財産などなく、どうしようもなく苦しんでいたのかも知れません。

 

  • もし、この母親のような人が「主よ、お助けください」と叫ぶこともなく、悪霊にとり憑かれて苦しむ娘と共に、自分たちの現実を運命としてあきらめてしまったらどうでしょうか。ただひたすらこの自分たちの本当に苦しい状況を耐える以外にないと思ってしまっている、としたらです。

 

  • 多分二人は生きられなくなって、この母親は娘を殺して、自分も死ぬという道を選んでしまうかも知れません。あるいは、たとえ生きていても、死んでいるに等しい絶望状態のまま生き続けなければならないでしょう。何てつらいことでしょうか。

 

  • 今の私たちの社会にも、そのような激しい痛みを抱えながら、助かる手立てが見いだせないまま、沈黙の内に苦しみ続けている方々が沢山いるのではないでしょうか。

 

  • ところで、今日のマタイによる福音書の15章21節以下では、その母親である女の人が、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」と、イエスに叫んで助けを求めます。すると、イエスは何もお答えにならなかった、というのです。

 

  • 必死に助けを求めて叫ぶこの女の人の叫びに何もお答えにならないで、この女の人を無視しているかのようなイエスの姿は、福音書の中にはほとんど描かれていません。異例なイエスの姿に思われます。

 

  • 同じマタイ福音書11章28節には、有名な言葉ですが、≪疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。≫と、イエスは「誰でもわたしのもとに来なさい」と招いているのです。

 

  • そのイエスのもとに助けを求めてやってきた、娘が悪霊にひどく苦しめられている母親に対して、イエスは何も答えようとしなかったというのです。「そこで、弟子たちは近寄って来て、(イエスに)願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。』」と言った、というのです。

 

  • すると、何も答えないイエスに、それでも食いついて離れず、「主よ、憐れんでください」と叫ぶこの女の人に、イエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えた、というのです。

 

  • この女の人の切実な叫びを受けて、弟子たちもイエスも随分冷たい応答ではないでしょうか。

 

  • 弟子たちは、「こんなに叫んで願っているのですから、何とかしてあげていただけませんか」と、イエスに執り成すこともできたと思うのですが、そうはしていません。イエスも、この女の人がカナン人イスラエル人ではなかったからなのでしょう。自分はイスラエル人の失われた羊のところにしか遣わされていないと言って、この女の叫びを受け止めようとはしません。

 

  • エスは、ここで人間と人間との間に一つの線引きをしたのです。イスラエル人と非イスラエル人(異邦人)との間に線を引いて、その線の向こう側に入る非イスラエル人(異邦人)とは、私は関係ないと。ですから、非イスラエル人の異邦人の女であるカナン人の女がどんなに叫ぼうが、私が遣わされたのはあなたのような人にではないので、どうぞお引取りくださいというわけです。このイエスは、随分偏狭な考えの持ち主ではないでしょうか。異邦人を蔑視するユダヤ人の男という感じです。

 

  • けれども、女の人は引き下がりません。「イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助け下さい』と言った」というのです。でもまだイエスは、自分の前にひれ伏して願っているこの女に対して、「子供たち(イスラエル人)のパンを取って小犬(異邦人)にやってはいけない」と答えたというのです。ますますイエスユダヤ人の男で、民族主義者であり、差別者ではないですか。

 

  • それでもこの女の人は引き下がりません。すごいですね。女は「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と、イエスに言ったというのです。

 

  • すると、イエスはこの女の人の言葉に心動かされたのでしょう。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言われ、「そのとき、娘の病気はいやされた」というのです。

 

  • この物語によりますと、「主よ、わたしを憐れんでください」(キリエ、エレイソン)、神さまは決してわたしを見捨てないで、助けてくださるという深い信頼による祈り、叫びが、イエスを通して神の助けを呼び出したかのように思えるほどに、人間の信頼のすごさを感じます。この女の人はイエスを動かしたのですから。

 

  • この物語を繰り返し読んで味わっていますと、私たちの中で神が働くのは、助ける人を通してだけでなく、助けを求める人を通してでもあることが分かります。この物語では、「主よ、憐れんでください」と、諦めないでイエスに執拗に食い下がる病の娘を持つ母親に、まず神が働いているのはないでしょうか。

 

  • そしてその母親である女の人の執拗な嘆願に突き動かされて、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言われ、娘から悪霊を追い出したイエスにおいて、神が働いているのです。

 

  • ここには、人間の痛みへの深い共感を通して、偏見や差別をも超えて、病の娘を持つ母親である女の人とイエスとの間に神が臨在することが描かれているように思います。私たちが思い描いている神観念ではなく、生きた神、死を命にかえることのできる甦りのいのちを与えてくださる神が、病の娘を持つ母親である女の人とイエスとの間に現在するのです。神われ等と共に、インマヌエルの現実です。 

 

  • このコロナ禍の中、緊急事態宣言により他者との交わりを避けて、ひとり自宅に閉じこもっていますが、帰天した連れ合いのことを思うことが多く、なかなか集中して本も読めないでいます。それでも何かしないではいられませんので、時々読みやすい本を手に取っています。先週『マザー・テレサの日々のことば』を読み直してみました。

 

  • 9月20日の言葉を紹介します。「神にとって、私たちひとりひとりは 特別な存在であり、それぞれユニークな被造物なのです。私たちはひとつの世界です。私たちはみんな、イエス・キリストにおいて兄弟姉妹なのです。私たちは、苦しんでいる兄弟姉妹のために働かなくてはなりません。そして神がこう言われるのを聞きましょう。『わたしは難民だった、その時、あなたは私に家を与えてくれた』」。

 

  • また、マザー・テレサが設立した「神の愛の宣教者会」の働きについて、別の日の言葉の中でこのように述べています。「私たちの役割は、イエス様に私たちを使っていただくということです。私たちと共に 私たちを通して、私たちの中にで、働いていらっしゃるのは神ご自身なのです。」

 

  • このようなマザー・テレサの言葉には、神は神の被造物である私たち人間を、苦しんでいる人のために働くことを通して互いに愛し合う者として創造されたというという信仰が示されているように思われます。その神の働きに参与することによって、私たちは神に造られた人間本来の姿を取り戻すことが出来ると。

 

  • この本の中に、「たくさん本を読んでいるからと言って、それが何だ」というようなことが書かれていて反省させられました。新型コロナウイリス感染を防ぐために、今は、人との触れ合いを極力避けなければなりません。このコロナの問題が終息して、人との触れ合いの中で生きる日常が返って来た時には、又思いを新たにして、苦しんでいる他者との関りを引き受けて、自分に何ができるかを問い続け、自分に与えられた課題を果たしていきたいと思います。

 

  • 特に神に与えられた命を抱えて生きながら、その命が脅かされている人に臨在しておられる神の招きに応えて、私たちが互いに愛し合うために働き続いていて下さる神の働きに参与していきたいと思います。

 

祈ります。

 

  神さま、私たちに私たちが命与えられて、今ここに生きている意味を悟らせてください。自己実現を求めて、私たちは競争社会の中で他者を蹴落として自分の豊かさを求めて生きる誘惑の中にいます。あなたが私たちを、他者との交わりの中でお互いを大切にし合って生きるために創られたことを思い起こさせてください。イエスがそのために私たちの所に来てくださって、そのあなたの示す道を切り開いてくださったことを。

   今も様々な苦しいの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。

今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。

    この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 456(わが魂を愛するイエスよ)(各自歌う)。

讃美歌21 456(わが魂を愛するイエスよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-456.htm

 

⑪ 献  金

(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

                     

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)

讃美歌21 28

https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo讃美歌21 8(心の底より)

 

⑬ 祝  祷

  主イエスの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 

 これで礼拝は終わります。