なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(75)

5月3日(日)復活節第4主日礼拝(通常10:30開始)

 

(注)讃美歌はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

 

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

 

③ 讃 美 歌  7(ほめたたえよ、力強き主を)を歌いましょう(各自歌う)。

讃美歌21 7(ほめたたえよ、力強き主を)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-007.htm

 

⓸ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

 

⑤ 交 読 文   詩編118編1-12節(讃美歌交読詩編129頁)

        (当該箇所を黙読する) 

 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書15章1-20節(新約29頁)

        (当該箇所を黙読する)

 

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

 

⑧ 讃 美 歌    197(ああ主のひとみ)(各自歌う)。

讃美歌21 197(ああ主のひとみ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-197.htm

説教 「言い伝え」 北村慈郎牧師

祈祷 

 

  • 人間の言い伝えと神の掟である神の言葉について記されています、今日のテキスト、マタイ福音書の箇所の中で、イエスは≪口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚す≫(11節)と言っています。これは、ファリサイ人、律法学者が、手を洗わないで食事をしたイエスの弟子たちを非難したのに答えて語られたイエスの言葉です。
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  • 同じことを、更に丁寧な形でイエスはペトロの質問に答えて語っています。16節から20節のところです。そこを読んでみます。≪イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべての口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない」≫。

 

  • 現在の新型コロナウイリス感染に苦しんでいます私たちからしますと、果たしてこの≪口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚す≫(11節)というイエスが語ったと言われる言葉を、そのまま事実に即したものとして受け取ることはできないように思われます。

 

  • 私たちは新型コロナウイリスの飛沫感染を防ぐために、マスクをし、手洗いとうがいをしています。それはコロナウイリスが鼻と口から私たちの体に入って来て、感染症を引き起こすのを防ぐためです。ということは、≪口に入るものは人を汚さず≫とは言えないのではないか。新型コロナウイリスの場合は、鼻や口から入るウイリスによって人が汚がされるどころか命まで奪われる危険性があるからです。

 

  • 感染症は古代メソポタミヤの時代からあったと言われていますが、病原菌についても、それが人体に入って来る経路についても、古代では何も分かっていませんでした。イエスの時代も同じでした。ですから、イエスは≪口に入るもの≫を食べ物と考えて、ウイリスは想定せずに、≪口に入るものは人を汚さず≫と言えたのでしょう。

 

  • 一方このイエスの言葉の後半、≪口から出て来るものが人を汚す≫、≪・・・口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口なとは、心から出て来るからである。これが人を汚す≫。これは、現代でも事実に即している言葉ではないでしょうか。
  • 新型コロナウイリス感染拡大を防ぐために、緊急事態宣言が出され、営業自粛や外出自粛が要請されている中で、「自粛警察」と言われる言葉の暴力に走る人々の行為は、正に≪口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す≫行為と言えるではないでしょうか。
  • 自粛要請通り午後8時まで営業の店に「バカ」の貼り紙があったと言います。また、別の都内の飲食店で、店主によれば、客を入れず、女性のシンガーソングライターが、当日彼女と店主とその連れ合いだけで、本人が持参したスマートフォンで配信したところ、いつの間にか店内に「自粛してください。次、発見すれば、警察呼びます 近所の人」という貼り紙が張られていたと言うのです。或いは、各地で県外ナンバーの車を傷つける嫌がらせがあったりもするようです。
  • ある学者は、このような「『自粛警察』といった私的制裁は、地域や家族を守るためと善意でやっている可能性があり、手に負えない。驚くほど陰湿な相互監視社会だ」と指摘しています(辻田真佐憲、東京新聞5月2日夕刊)。
  • もちろん現在のコロナウイリス感染拡大の中で、医療従事者やスーパーの店員のように働いている人々に感謝し、彼女ら・彼らを励ます行動も、私たちの中から生まれています。
  •  新型コロナウイルスの感染拡大が続く中、特設サイト「いま、最前線で働くあなたへ」(https://mainichi.jp/covid19-message/)には、社会を今支えている多くの人々への応援メッセージが数多く寄せられ、先の見えない状況は続いているものの、「お体を大事にしてください」「決して1人じゃない」などと思いやりがこもった温かい言葉にあふれていて、その総数は30日までに200件を超えたそうです。
  • また、イギリスのロックバンド「クイーン」のメンバーが医療従事者にささげる曲として、代表曲のひとつ「伝説のチャンピオン」の歌詞の一部を替えて、日本語で「“君たち”こそがチャンピオン」と歌った曲をインターネットで配信し、支援を訴えました。配信で得られた収益は医療従事者に防護服などを提供している基金に寄付されるということで、クイーンのメンバーの一人、ブライアン・メイさんは「人類を守るために戦っている最前線の戦士の皆さんすべてにこの曲をささげたい。日々、みずからの命を危険にさらしているあらゆる人々、皆さんがチャンピオンです」とコメントしています。
  • ですから、≪口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す≫だけではないことも事実です。人を思いやる言葉も、私たちの口からでてくるものだからです。
  • ≪「この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。/人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。」≫(マタイ15:8,9)このイザヤの言葉は、ファリサイ人、律法学者に向けられたものです。
  • マタイのこの個所で、イエスは彼らの人としての根本的な歪みを指摘しています。それは、神の言葉の曲解です。
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  • ファリサイ人、律法学者は、イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わなかったのを見て、イエスにこのように抗議しました。≪「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」≫(2節)。

 

  • それに対してイエスは答えて、このように語っています。≪「なぜあなたがたも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたがたは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」(3-6節)。

 

  • 神の掟である神の言葉の勝手な解釈である人間の言い伝えの方を、ファリサイ人、律法学者は神の言葉よりも大切にしていると、イエスは言うのです。ここでの人間の言い伝えはユダヤ教の清浄の教えを指しているものと思われます。イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をするのは、この清浄の教えに反するので、ファリサイ人、律法学者はイエスに抗議したのです。

 

  • おそらくイエスの弟子たちは、いつもいつも食事の前に手を洗わなかったわけではなかったと思われます。安息日に麦畑を通っていた時に、空腹のため麦の穂をつまんで食べてしまったように、ある時突発的に手を洗わないで食事をしてしまったということなのでしょう。しかし、たまたまそれを見ていたファリサイ人、律法学者は、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えを破ったと、重箱の隅を突っつくようにイエスに訴えたのでしょう。彼らはイエスの活動を快く思っていなかったからです。

 

  • 他人の行動を監視して、自分たちの基準を逸脱する行動を非難告発する態度には、その人の中にある種の恐れがあるからではないでしょうか。自分の正しさ、義が揺らぐ恐れです。その意味で、ファリサイ人、律法学者は律法に束縛されていたのであって、人間として自己中心性という罪から解放され、神の霊によって与えられた自由と責任をもって律法を守る人ではなかったのではないでしょうか。「自粛警察」と言われている人たちのように。
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  • 恐れが人間をどんなに深く破壊するかについて、ボンフェッファーはこのように語っています。少し長くなりますが引用します。

 

【・・・恐れは人間の心の中に入りこみ、人間をうつろにする。そしてある日突然、人間は、無抵抗になり、力なく破滅してしまうのである。恐れは、人間と神やほかの人々とを結びつけている糸をひそかにかみ切り、困窮の中でしがみつこうとしてもそれを断ち切る。そして人間は途方にくれて、地獄の嘲笑をうけながら、自分自身のうちに沈んでしまうことになる。

 

そのとき恐れは人間をあからさまにあざ笑って言う。<今はわれわれ二人だけだよ、君と僕とね、さあ僕のほんとうの顔をみせてあげよう>。このように恐れをまざまざと見せつけられた者がいる。また自分に迫られている大きな決断をすることへの恐れによって、過酷な運命や病者への恐れによって、とても抵抗しがたく自分をその下僕としてしまう悪徳への恐れによって、恥辱への恐れによって、他人への恐れによって、死への恐れによってぞっとするような孤独に落ちこんだ者がいる。

 

そしてこのような者は、恐れは単なる悪の仮面にすぎず、その裏側では神に敵対する世界が自分を捕らえようと待ちかまえているのだということをすぐに悟る。この孤独、この助けのなさ、このすべての者の上に広がる霧以上に、神に敵対するさまざまな力の現実を人間に感じさせるものはない。恐れにとらわれた人間をあなたがたは見たことがあるだろう。それは子供の場合にも、すさまじく、大人の場合にも、ひどい。動物じみたおびえ、必死の防御、それは神の被造物のようには見えず、まるでしいたげられ、破壊され、病んだ者のような姿をしている。

 

 しかし、人間は恐れてはならないのだ。解決を見だすことのできない状況や不明瞭で罪悪に満ちた状況のただ中にあっても、希望を持っているということが、人間をすべての被造物から区別する点である。

 

<どうしてあなたはそれがわかるのか>という問いに対して、われわれはある名を挙げよう。その名というのは、悪も身をすくませ、恐れと不安といえどもしりごみせざるをえない方の名、ただひとり恐れに勝ち、その恐れを勝利品として凱旋の行列にともなわせ、やがて十字架におもむき、虚無に身をゆだねた方の名、そしてまた<恐れから救われた人間の勝利の声>である方の名、すなわち十字架にかけられたが今もなお生きているイエス・キリストという方の名である。】(『主のよき力に守られて、ボンフェッファー一日一章』23-24頁)

 

  • 私たちは、恐れに打ち勝ったイエスによって、「人間は恐れてはならないのだ。解決を見だすことのできない状況や不明瞭で罪悪に満ちた状況のただ中にあっても、希望を持っているということが、人間をすべての被造物から区別する点である。」ということを、今このコロナ禍の中で肝に銘じたいと思います。祈ります。 神さま、今日も礼拝することが出来、ありがとうございます。 神さま、一刻も早く新型コロナウイリス感染が終息し、また教会に共に集まり礼拝することが出来るようにお導きください。 新しい週の全ての人の歩みを支えてください。
  •  この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン
  •  神さま、このコロナ禍の中で、「自粛警察」と言われる行動によってお互いを監視し合うのではなく、この難局を乗り越えて行くために希望をもってお互いが支え合い、助け合っていくことが出来るように私たちをお導きください。国や各自治体の施策が最も困っている人やその働きに向けられますように。感染してお亡くなりになった方も多くなっています。その方々とご家族の方々の上にあなたのみ手が添えられますように。また、同じコロナ禍によって苦しむ諸外国の上にもあなたの導きが与えられ、その終息の道が開かれますように。
  •  新型コロナウイリス感染拡大を防ぐために、外出自粛が長くなっています。5月6日までの期間が延長されようとしています。そのために私たちは教会に集まって礼拝を守ることが出来ません。今日の礼拝も自宅分散礼拝になりました。
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⑩ 444(気づかせてください)(各自歌う)。

讃美歌21 444(気づかせてください)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-444.htm

 

⑪ 献  金

(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

                     

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)

讃美歌21 28番

https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

 

⑬ 祝  祷

  主イエスの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 

 これで礼拝は終わります。