なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書2章13-23節による説教

   「夢によるお告げ」  マタイ2:13-23、   2017年1月1日(日)船越教会礼拝説教


・今日は新しい年であります2017年の最初の日曜日です。この日曜日も聖書日課の聖書箇所の一つであり

ます、マタイによる福音書2章13節以下のイエス誕生後の物語からき言葉を聞きたいと思います。

・マタイによる福音書のイエス誕生物語では、東方の博士たちはベツレヘムの幼子イエスを礼拝し、黄金、

乳香、没薬を贈物としてささげた後、夢で「ヘロデのところへ帰るな」とのお告げを受けて、別の道を通

って自分たちの国へ帰って行きました(2;11-12)。

・その後には、今日のマタイによる福音書の箇所ですが、生まれたばかりの幼子イエスとヨセフとマリア

のエジプトへの逃避行とヘロデの幼児虐殺、そしてヘロデが死んだ後にイエスの家族(聖家族)はエジプト

からイスラエルの地に帰り、ガリラヤの地方のナザレの町に住んだというのです。

・この聖家族のエジプトへの逃避行とイスラエルの地への帰国の物語において、主役を演じているのはマ

リアではなくヨセフです。ヨセフはマリアが受胎した時、彼女との婚約を解消しようとしました。しかし、

ヨセフは夢で主の天使が現れて、その天使が命じたとおりマリアを妻として迎え入れました。今日のとこ

ろでもヨセフは、夢に現れた主の天使の命令に従って、イエスとマリアを連れてエジプトへ逃げていくの

です。

・「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供と母親を

連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出

して殺そうとしている』。ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが

死ぬまでそこにいた」(2:13-15)と記されている通りです。

・考えて見ますと、マタイによる福音書の物語でのヨセフは随分お人よしに思えます。婚約中にマリアが

妊娠し、マリアが出産した直後には幼子と母マリアを連れてエジプトへ逃げていかなければならないわけ

です。随分損な役割をヨセフは引き受けています。

・ヨセフはヘロデが死んで、エジプトからイエスとマリアを連れてイスライルの国に帰ってくるときにも、

夢で主の天使がヨセフに現れて、子供とその母親を連れて帰るようにと命じられます。

・高橋三郎さんは、「ヨセフにとっては、(直接自分の身から出た子ではないこの幼子イエスのために)

自分の故郷を捨て、遠い異郷に落ちのびて行くことは、どれほど大きな犠牲であったかを思うとき、黙し

て(黙って)この重荷を甘受した(引き受けた)彼の服従は、限りなく美しい。神の救いは、この信仰の

服従を通して、前進したのである。しかもこれに先立って、東方から来た異邦人たちも、その服従を通し

て、幼子イエスを守った。マタイがこの二つの服従を並記したとき、きたるべき福音前進の予表を、すで

にここに見出したのであろう」と言っています。

・イエスの父ヨセフの登場は、マタイによる福音書ではこの2章までで、3章以降には全く登場しません。

3章以降はイエスの公生涯の記事になりますので、既にヨセフは死んでいたからでしょう。

・そういう意味でも、ヨセフの信仰の服従を示す今日の記事は印象深く思われます。東方の博士たちの信

仰の服従とヨセフの信仰の服従によって、幼子イエスの命は守られました。そして幼子イエスの命が守ら

れることによって、3章以下のイエスによる神の救いの御業の展開があり得たのです。

・けれども一方、東方の博士たちとヨセフの信仰の服従によって、ヘロデの幼児虐殺という悲惨な事件が

起こされたということも言えるわけです。東方の博士たちがヘロデに頼まれたように、幼子イエスの誕生

した場所を教えてしまっていれば、幼子イエスがヘロデに虐殺されたでしょう。そうすれば、ヘロデの幼

児虐殺はなかったのです。あるいはヨセフが夢で現れた天使の命令に従わず、エジプトへ幼子イエスとそ

の母マリアを連れて逃げなければ、ヘロデは幼子イエスを見つけ出して殺していたかも知れません。そう

したら、ヘロデの幼児虐殺はなかったでしょう。

・そういう意味では、ヘロデによって殺された幼児たちは東方の博士たちやヨセフの信仰の服従の犠牲者

だと言うこともできるのです。実際にこのマタイによる福音書のヘロデの幼児虐殺の物語の後の教会の解

釈の中には、ヘロデによって殺された幼子を殉教者としてみる解釈があると言われます。

・もちろん、ヘロデの幼児虐殺はヘロデの暴挙以外の何ものでもありません。その意味で東方の博士たち

に、またヨセフに責任があるわけではありません。もちろんイエス自身にもです。問題は、神を神とも思

わないヘロデのような権力者がこの世に存在するということです。けれども、神が支配する世界である神

の国では、このような暴君としての王ヘロデのような存在は許されません。

・ヘロデの幼児虐殺によって殺されていった幼子の存在を考えますと、何としてでもヘロデのような横暴

な権力者が政治的実権を握るような社会を変えていかなければなりません。

・昨日テレビを何となく見ていましたら、アメリカのドローンによる爆撃で被害を受けたパキスタンの少

女の訴えが放映されていました。その中で、この少女が支援者によってヒロシマ原爆資料館を見学して

いるところも写されていました。アメリカはピンポイントで彼らが規定するテロリストを殺害するために、

ドローン爆撃を続けているようですが、その誤爆によって沢山の幼い子供たちの命が奪われているのです。

・ヘロデによる幼児虐殺をオバマ大統領によるドローン爆撃で犠牲となっているパキスタンの幼い子供た

ちの死が重なって見えてしまします。

・東方の博士もヨセフも、夢によるお告げを受けて行動しました。そのことによって神らは神に従ったの

です。この服従としての信仰を生きる人たちによって、神のみ心がこの地上において現れるのです。神は

オールマイティーのカードを出すようにして、この世に御自身を現わそうとはしません。神は私たち人間

をご自分の似姿にお造りになった方です。神のみ心である神の愛を、私たち人間がお互に愛し合うことに

よってこの世に表そうとしておられるのです。

・けれども、アダムとイブが神の命令を破って、自分が神のようになろうとして神に禁じられていた木の

実を食べて以来、私たち人間は互いに愛し合うよりも、的を外してしまって、互に他を蹴落として競い合

う生存競争の泥沼に落ち込んでしまったのです。そのような私たちを神は独り子イエスをこの世に送り、一

人のまことの人であり、ひとりの真の神であるイエスを通して、そのイエスの兄弟姉妹として私たちが神の

似姿として生きていくことが出来るように、私たちを再創造しようとされているのです。

・そのイエスに従って生きる服従の信仰こそが私たちに求められているのではないでしょうか。それは自分

の十字架を負って神とイエスに従う信仰です。夢で天使のみ告げを受けて、それに従った東方の博士たちも

ヨセフも、歴史の中で働く神のみ業への服従によって神のみ業の担い手たらんとしたのです。この服従とし

ての信仰は、イエスが十字架の死に至るまで貫いた神信頼でもあります。

・ヨセフとマリアと共にエジプトに逃げて、命が助かった幼いイエスは、ヘロデの幼児虐殺によって自分の

身代わりに殺されてしまった幼い子供たちの死を負い目として背負いつつ成長したに違いありません。そし

てそのようなことのない、人間同士が殺し合い、憎しみ合う罪の現実に代わって、すべての人が神の愛を体

現する、それぞれの固有の生をもって、お互いが兄弟姉妹として生きることのできる神の国の実現成就のた

めに、その公生涯を歩まれたのです。

・(『食材としての説教』でも引用していますが、哲学者の木田元さんと演出家の竹内敏晴さんの対談の中

で、服従としての信仰に関わるくだりがありますので、最後に紹介して終わりたいと思います。

・(竹内)・・・非常に不思議に思うのは、アメリカ合衆国政府が神のことをしきりに口にする。ブッシュ大

統領が中国に行って、アメリカ人の80パーセントは神を信じていると言ったでしょう。しかしキリストの

ことはひとこともこない。・・・・キリストのことを思えば、愛の問題が出てくるはずだと思うのに、その影

すらない」

・(木田)だからですか。近頃アメリカはキリスト教じゃなくてユダヤ教の国だって言う人がいます。

・(竹内)そういうふうに言うんですか。私も最近、そう感じます。十字架以前だ、と。

・(木田)キリストは本当に自分が十字架にかけられましたからね。

・(竹内)そういう意味で、十字架の問題を真剣に考える思想家なり宗教家が出てくる時期ではないかと思う

んですが、その気配がない。

・(木田)バチカンは第二次大戦中、ナチズムに対してさえ抵抗できなかったくらいですから。

・(竹内)こんあときに、どうしてキリスト者が明確に発言しないんだろうか。私はキリスト者に対してい

ささかがっかりしているんです。天皇制の問題を考えるときに、天皇制に対して一番抵抗力を持ちうるのは

キリスト者だろうと思ったから、私は何遍かキリスト者に対する期待を書いたことがあるんです。仏教はど

うも信用ならない。キリスト者ががんばってくれなきゃ困ると言ったことがあるんだけれど、いまの状況を

見ていると、もう全然あかん。

・(木田)本当にキリスト教を旗印に掲げるんだったら、十字架に架けられたキリストをもっと問題にして

いいはずですがね。

・マタイによる福音書のイエス誕生物語には、すでにイエスの十字架が指し示されていると思われます。ヨ

セフの服従もイエスの十字架への信仰ということが出来るのではないでしょうか。

・私たちも、この新しい一年の歩みに向かって旅立つこの日に、私たちのイエスへの服従を通して、神のみ

業がこの社会の中に現わされるということを、肝に命じたいと思います。そして闇の深まりを思わせる現在

の状況にあって、その闇の中に輝く光を指し示していきたいと願います。