なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ルカ福音書2章22-24,39-40節による説教

 1月8日(日)は本所緑星教会に招かれて礼拝説教を担当しました。その時の説教をが下記の説教です。


      「成長への招き」ルカによる福音書2章22-24、39-40節

                          2017年1月8日(日)本所緑星教会説教


・おはようございます。北村と申します。ご存知の方もあるかと思いますが、私は現在日本基督教団から教

師の免職処分を受けている者です。そこで、私は教団にあって教師なのか信徒なのかを、神奈川教区の常置

委員会を通して信仰職制委員会に問い合わせてもらいましたところ、私は免職させられた教師で信徒ではな

いという回答がありました。ですから私は教団の免職教師ということになります。そのような免職教師であ

る私のような者をお招きいただき、心から感謝申し上げます。

・さて今日は1月8日ですので、イエス誕生後の出来事としてルカ福音書に記されていますイエスの宮詣の

記事から、特に2章の40節からみ言葉を与えられたいと思います。このルカ福音書2章40節によるバル

トの説教があります。その説教の最初のところでバルトはこのように語っています。

・≪・・・憂鬱の霊が新年にやって来て、わたしたちの中に吹き込もうとする。「またもや一年だ、たいへ

んだ、もう一年が過ぎ去ってしまった。お前はまた一年、年をとった。喜ばしい黄金色(こがねいろ)の青

年期が去って、誰も喜ばない晩年により近づいた!」と≫。そして続けて、≪そのことを、新年に、ひとと

き、熟考することはよいであろう。しかし、それについて、あまりに長く、あまりに深く学ばないように、

特にそれについて嘆息しないように≫と私たちに注意を促しています。それからルカ福音書の2章40節の最初

の言葉、新共同訳では「幼子はたくましく育ち」ですが、そこをバルトは「その子供は成長した」と訳して

います。≪「その子供は成長した」。あなたはそのことをきいたか。その幼子は救い主だった。その救い主

はまた、それゆえ必ずしも、ベツレヘムの幼子として止まってはいない。年月は彼においても跡形なく過ぎ

去ったのではない。彼が年をとっていったように、わたしたちが年をとっていくなら、わたしたちは、何ら

溜息の小道に居るのではない。むしろ、成長し年をとっていくことをゆるされていることはわたしたちにと

っても、すばらしい、美しいことなのである≫(説教集14、30頁)と。

・いったい生きるとは何なのでしょうか。みなさんはどうお考えでしょうか。イエスの場合は、ベツレヘム

に誕生してから、どのように生きられたのでしょうか。福音書によれば、イエスは誕生後、ガリラヤのナザ

レで大工の子どもとして少年時代を過ごし、父ヨセフの仕事を引き継ぎ、早死にした父ヨセフに代わって一

家の生活を支えていたようです。そして30歳のころ、当時としてはすでに壮年期にはいっていたと思われ

ますが、バプテスマのヨハネのもとに行き、悔い改めの洗礼を受けました。そしてバプテスマのヨハネがガ

リラヤの領主ヘロデ・アンティパスによって獄中の人となってから、イエスは、福音書に描かれている公生

涯を生きられたのです。最後は苦難を受け、十字架に架けられて殺され、埋葬され、三日目に復活し、復活

のキリストとして霊において今も私たちの中に生きておられるのです。

・イエスにおいて生きるとは、神の独り子として生まれ、神の独り子になるということでした。福音書のイ

エスの十字架の場面で、ローマの兵隊の百人隊長が、≪イエスが息を引き取られたのを見て、「本当に、こ

の人は神の子だった」≫といったというのです(マルコ15:39)。イエスは神の子として生まれ、神の子とな

るために生きられたのです。

・生きるということは、イエスにおいても私たち一人一人においても同じことではないでしょうか。私たち

が生きるのも、私たちが一人ひとりに与えられた命、神からの贈り物としての命を紡いで生きるということ

です。神に命与えられた私たちは神の被造物です。神の被造物としての私たち一人一人の命には神のかたち

(似姿)が刻まれているのです。ですから、私たちが生きるのは、神のかたちにふさわしく成長していくこ

とであると言えるのです。

・ご存知のように、創世記1章27節には、≪神はご自分にかたどって人を創造された。/神にかたどって創

造された。/男と女とに創造された≫と言われています。ここには私たち人間が神のかたち、その似姿に創

られたことが明確に記されています。ところで神のかたち(似姿)とは、何を意味するのでしょうか。神の

かたちに私たち人間がつくられたということは、私たちの中に神がご自身の姿を見出すことを欲しておられ

るということではないでしょうか。私は創世記のこの人間創造のところを、このように解釈しています。

・私たち人間は、それぞれが他に変わりえない固有な存在として造られ、そのそれぞれの固有さにおいて

互いに助け合い、支え合い、愛し合うとき、私たちの中に神のかたちが現れるのではないかと思うのです。

「神は愛なり」(汽茱魯4:16)と言われていますが、その見えない神の愛が、私たちが互いに愛し合う

ことによって見えるようになる。汽茱魯佑任呂海里茲Δ妨世錣譴討い泙后少し長くなりますが、その個

所を引用させていただきたいと思います。

・≪愛する者たち、互いに愛し合いましょう。神から生まれた者は皆、神を知っているからです。愛する

ことのない者は神を知りません。神は、その独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わた

したちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神

を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わし

になりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、

わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合

ならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです≫

(汽茱魯4:7-12)。

・ところが現実の私たち人間はどうでしょうか。神のかたちとしてつくられた私たちの命にはほこりがか

ぶってしまっているのではないか。資本と権力が結託して、悪魔的な力が私たち人間の命を覆っていて、

社会的弱者が切り捨てられていく、暴力的な世界を、私たち人間が生み出しているのではないでしょうか。

神はそのような私たち現代人の中にご自身のかたち、似姿を見出すことができないで、悲しみ、私たちの

姿から目をそらせてしまうこともしばしばなのではないでしょうか。神が喜ばれる私たちの姿ではなく、

神が悲しまれる神のかたちを失ってしまった、むきだしの利己主義に生きる私たちのみじめな姿が世界の

あちこちで露呈している。それが現実のこの世界ではないか。

・私たちはパウロと共に、≪わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれ

がわたしを救ってくれるでしょうか≫(ローマ7:24)と叫ばざるを得ません。そして同時にまた、パウロ

と共に、≪わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします≫(同7:25)と告白せざるを得

ません。なぜなら、私たちはイエス・キリストによって、私たちの与えられたこの命には神のかたちが刻

まれていること、私たちが神の独り子イエスの兄弟姉妹であるイエスと同じ神の子であること、そのよう

な人間の本来的生を発見し、神の霊である聖霊の導きによって、その人間の本来的生を私たちが生きるこ

とができるからです。

パウロは申します。≪わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のため

に死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。

従って、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのです≫(ローマ14:7-8)と。このパウロ

の言葉は、ハイデルベルク信仰問答の第一の問いに対する答えでもあります。

ハイデルベルク信仰問答の第一の問いは、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」

です。そしてその答えはこうです。「わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、

わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもって、わたし

のすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解き放ってくださいました。また、天にいます

わたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も頭から落ちることができないほどに、わたしを守ってください

ます。実に万事がわたしの益となるように働くのです。そうしてまた、御自身の聖霊によってわたしに永遠

の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜ぶように、またそれにふさわしいように整え

てもくださるのです」。

・今日の週報の祈りの課題にありますように、「日本・世界の政治のため」私たちは祈らなければなりませ

ん。食糧一つとっても、現在世界のすべての人々が食べることができる食料があっても、その分配が不公平

なために、日本のように飽食社会では、まだ食べられる食料が沢山捨てられ、片やアフリカの国々では餓死

する子どもたちが沢山生まれています。この現実はまさに政治の貧困によります。2020年の東京オリンピッ

クにおいて、フランスやデンマークなどのヨーロッパの国々で、最近ではトルコのイスタンブールで起きて

いるテロ対策が重要な問題になっています。このテロやイスラム国の問題も、先進国による収奪、つまり南

北問題に起因しています。これも政治の問題、その貧困にあります。ですから政治がよくなるために私たち

は祈らなければなりません。と同時に、イエスが山上の説教の中で「あなたがたの光を人々の前に輝かしな

さい」(マタイ5:16)と語っていますように、私たちは私たちの中にある神のかたちを、それを閉じ込めて

しまっている扉を開いて、開花させなければなりません。もしかしたら政治を主導している人たちは、すべ

ての人の中にある神のかたちを閉じ込めて、その扉を施錠して固く閉ざし、資本や権力の奴隷になっている

のかもしれません。そして私たちにもその危険性に陥る可能性は常にあります。政治のために祈ると共に、

どのようにしたらこの社会が「義と平和と喜び」(ローマ14:17)に満ちた神の国になるのかを、私たちの

光を人々の前に輝かすことによって現わさなければなりません。

・≪あなたがたの中にある神のかたちのあらわれは、それがひと度始まった時は、停止することも後退する

もできない。青年時代の喜びや力はたしかに置き去りにされる。しかし、神がわたしたちの中に、ご自分を

映し出されるところから流出する内的喜びや内的力は後に残されることはない。神のみ前に明らかとなって

いる人間から出る祝福はあとに置き去りにされることはない。そのように成長しつつある人間の中に、神が

ご自身を見られるご満悦も取り残されることはできない。人間が自分であるものになる処に立てられる神の

支配とみ国は、とり残されることはできない。むしろ、それらは増大し、前進すべきものである。・・・・

「だからわたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたち

の『内なる人』は日々新たにされていきます」(競灰螢鵐4:16)≫(バルト)。

・新しい年の初めに当たり、《わたしたちが年をとっていくに比例して、わたしたちの中にある光は輝き、

神のかたちがわたしたちの中に明るく、好ましく現れるように》、最後まで神の独り子として、ご自身の神

のかたちにふさわしく歩まれたイエスとともに、この年の私たちに与えられている新しい一年の旅に歩みだ

していきたいと思います。私たちのつたない歩みではあっても、私たちに与えられている光を輝かし、「義

と平和と喜び」を指し示すことができるように、聖霊の導きを祈ります。