「夢と言葉」エレミヤ書23:23-32、2017年3月5日(日)船越教会礼拝説教
・みなさんは、牧師である私がこの講壇で語ることがすべて真実であると思い込んではいないと思いま
す。先週敗戦直後に、戦時中に講壇で、「戦勝のために語ったことも祈ったこともないが、語るべきこと
を十分に語りえなかったことに対する責任を感じ、講壇に立ちがたく思われた」という理由で、牧師の辞
意表明をされた福田正俊牧師のことを紹介しました。この福田牧師の思いのように、牧師として毎週講壇
に立つ者としては、聖書の使信を「語るべきことを十分に」、或はまた「真実に語り得たかどうか」とい
うことが常に気になるものであります。ただ自分としては聖霊の導きを祈りつつ、精一杯語るだけです。
ですから、みなさんもご自分で聖書と取り組んで、そこで何が本当に語られているかを受け取るようにし
ていただきたいと思います。
・さてエレミヤの預言者批判も、今日の所がある面で最高潮に達しています。まず第一に預言者たちの神
理解が問題にされています(23,24節)。そのところをもう一度読んでみたいと思います。《わたしはた
だ近くにいる神なのか、と主は言われる。/わたしは遠くからの神ではないのか。/誰かが隠れ場に身を
隠したなら/わたしは彼らを見つけられないと言うのかと/主は言われる。/天をも地をも、わたしは満
たしているではないかと/主は言われる》。
・夢を語り人間的な預言に終始する預言者にとって、神は間違った意味で一面的に近き神でありました。
しかし、近き神は同時に遠い神であることによってのみ真に近き神なのであります。内在の神、私たちと
共にいてくださる神は同時に、私たちすべてを超えてある超越の神であることによって真に生ける神なの
であります。それが24節で語られている、「天にも地にも」どこにでもおられる遍在の神ということなの
でしょう(関根正雄)。
・「神の宣教」(ミッシオ・デイ)ということが言われます。本田哲郎さんは釜ヶ崎の労働者はその人生
の苦難の経験を通して既に神の洗礼を受けていると言います。ですから、その先輩たちに教会で洗礼を受
けた自分は連なっていくのだという主旨のことをおっしゃっています。この本田哲郎さんの考え方の中に
も、神の宣教(ミッシオ・デイ)が反映されているように思います。教会が福音宣教をもって働きかける
前に神の宣教がこの世界に展開されていて、教会はその神の宣教に参与していくに過ぎないのだというの
です。この考え方は「教会の外に救いはない」という伝統的なカトリックの考え方を否定しています。
・エレミヤが批判している預言者たちは、神がイスラエルの民を選んだのだから、その神がイスラエルの
民を滅ぼすわけがないと勝手に信じ込んで、平和がないのに平和だ、平和だと、自分が見た夢に基づいて
偽りの預言、安易な救済預言を語っていたのでしょう。しかし、神が預言者を通して語ろうとしている言
葉は、そのような安易な救済預言ではないのです。そのことは、前回のところにはっきりと語られていま
した。《もし、彼らがわたしの会議に立ったのなら/わが民にわたしの言葉を聞かせ/彼らの悪い道、悪
い行いから/帰らせることができたであろう》(23:22)と。神が預言者を通してイスラエルの民に語ろ
うとした言葉は、その民の悪しき行為に対する怒りの言葉、裁きの言葉であったのです。18節から20節の
ところでもこのように語られていました。《誰が主の会議に立ち/また、その言葉を見聞きしたか。/誰
が耳を傾けて、その言葉を聞いたか。/見よ、主の嵐が激しく吹き/つむじ風が起こって/神に逆らう者
らの頭上にうずを巻く。/主の怒りは/思い定められた事を成し遂げるまではやまない。/終わりの日
に、お前たちは/このことをはっきり悟る》。ここには本来預言者が語るべき神の言葉は、「思い定めら
れた事を成し遂げるまではやまない」「主の怒り」の言葉であると言われているのであります。
・ですから、偽りの言葉を語る預言者たちは、人々に神の名を思い起こさせるのではなく、むしろ逆に、
神の名を忘れさせるのだというのです。《偽りを預言し、自分の心が欺くままに預言する預言者たちは、
互に夢を解き明かして、わが民がわたしの名を忘れるように仕向ける。彼らの父祖たちがバアルのゆえに
わたしの名を忘れたように》(26,27節)と。そのような偽りを語る預言者たちに対して、神は《・・・
わが民を迷わせた。わたしは、彼らを遣わしたことも、彼らに命じたこともない。彼らはこの民に何の益
ももたらさない》と言われると、エレミヤは語っているのです。
・このエレミヤの預言者批判を、私は牧師としての己に向けられている言葉として聞かざるを得ません。
先週の水曜日に農村伝道神学校の卒業式礼拝がありました。私はその卒業礼拝の説教を高柳校長から頼ま
れていましたので、卒業礼拝に行き説教をしてきました。説教では、今日の船越通信の中に書きました、
み言葉に仕える働きを担う牧師になるということはどういうことなのかということと共に、「み言葉に仕
える」働きを担う者にとって、今私たちがエレミヤ書から聞いています、エレミヤの預言者批判は自らに
向けられている言葉として読まざるを得ないこと。自らの振舞いとその語る言葉によっては、神にある解
放と救いから人々を遠ざけてしまうこともあり得るということ。そのような形で他者の人生に関わってい
くとすれば、私たちは誰よりも厳しく神に裁かれるに違いないということを語って、牧師には福音の真実
を曲げて偽りの言葉を語ってしまう危険性が常に付きまとっているということに注意を促しました。
・この箇所のエレミヤの言葉を読んでいますと、そのことをひしひしと感ぜざるを得ません。私は農伝の
卒業礼拝の説教で、このようにも語りました。《私の3人の子供たちは、自分で稼いで、ほとんど言葉を
もって他者の人生に関わることもなく、つつましく生きています。そのような子共たちの生き方が時々う
らやましく思うことがあります。自分はなぜ牧師などという道をえらんでしまったのかと。それでも私が
牧師の仕事を続けているのは、聖書の語るイエスの出来事には、人間と全ての自然にとって究極的な解放
のメッセージがあると信じているからです。ヨハネ黙示録の著者が語っているような、 「見よ、神
の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神とな
り、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも労苦もない。最
初のものは過ぎ去ったからである」(21:3,4)という終末的な世界がイエスによってこの世の現実に突入し
ていることを知らされているからです。ですから、パウロと共にこのように信じたいと思っています。
「神の国は、・・・聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える
人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではあ
りませんか」(ローマ14:17-19)と(傍点筆者)》。そのように語りました。
・今日のエレミヤ書の箇所には、偽りの預言者に対する批判と共に、《夢を見た預言者は夢を解き明かす
がよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい》(28節)と語られてい
ます。神の言葉を受けた者は、忠実に神の言葉を語るように勧められているのです。私たちにとりまし
て、神の言葉は受肉したイエスです。ヨハネ福音書の著者は、そのイエスについえて「言は肉となって、
わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵
みと真理とに満ちていた」と語っているのであります。このイエスを主と告白して、忠実にイエスの証言
者として生きること。それが私たちにとって、《わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語る
がよい》に対する応答ではないでしょうか。
・最後に偽りを語る預言者たちに、神は「立ち向かう」と3回繰り返して語られていることに注目したい
と思います。30節から32節前半までですが、このように語られています。《それゆえ、見よ、わたしは仲
間どうしでわたしの言葉を盗み合う預言者たちに立ち向かう、と主は言われる。見よ、わたしは自分の口
先だけで、その言葉を「託宣」と称する預言者たちに立ち向かう、と主は言われる。見よ、わたしは偽り
の夢を預言する者たちに立ち向かう》と。
・《三度繰り返される「見よ、わたしは預言者たちに立ち向かう」という戦線布告の定式には、この(偽
りの)預言者たちを神の審判の前に呼び出す神のことばの断固とした圧力が強調されている》(ワイ
ザー)のです。
・私は、偽りの神の言葉を語っている預言者たちを、何という愚かな者たちなのかと、遠くから冷笑して
いる神ではなく、「立ち向かう」神に、預言者たちを審くことによって、その誤りから彼らを解き放とう
する神の温かさを感じるのであります。人格的な関係というのは、ある面でぶつかり合う関係と言えるの
ではないでしょうか。「立ち向かう」神に、そのようなものを感じます。
・エレミヤが真実な預言者として立ち得たのは、この「立ち向かう」神と、何度も何度もぶつかって、自
らの弱さや過ちや不信仰を抱えている己の自己変革を求められたからではないでしょうか。そのような自
己変革を通して、神の言葉を取り次ぐ預言者として、エレミヤは、真実な神の言葉を語り得たのではない
でしょうか。そのようにして、エレミヤは神の真実をもって、同胞としてのイスラエルの民との新しい関
係を求めていったのではないでしょうか。
・イエスにおいても、人々から離れて一人神に祈ったイエスの祈りが、あのようなイエスの生涯の歩みを
生み出した力ではなかったかと思うのであります。ここにも「立ち向かう」神との出会いを感じるのであ
ります。
・私たちもそのことを大切にしたいと思うのであります。