なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(303)

         船越通信癸械娃魁。横娃隠掲3月5    北村慈郎

・26日(日)の礼拝後、Iさんから、月刊「みんなねっと」(全国の家族と家族会をつなぐ機関誌&最

新の精神保健福祉情報誌!!)をこれから教会に持ってくるので、回し読みして下さいというアッピール

がありました。Iさんは何時も反原発のアッピールはしていますが、このようなアッピールは初めてで

す。私は「みなねっと」(2017年1月号)を借りて読みました。その中で「精神科医療の現状と改革の展

望」と題した氏家憲章さんの文章の中に、日本の現状について以下のように書かれていました。「他の先

進諸国は、精神の病気や障害があっても、地域生活中心の精神科医療です。これが今日の精神科医療の到

達点です。一方わが国の精神医療の政策は、いまだ先進諸国で唯一、精神科病院への入院中心の隔離・収

容の精神医療政策を継続しています。そのため精神科医療の今日の到達点と、わが国の精神医療政策は噛

み合っていません」と。また、精神科医斎藤環さんのお話しとして「オープンダイアローグ」のことが

紹介されていました。その内容は、「⑴連絡を受けてから、24時間以内にチームで患者の所へ行く。⑵

家族を含め1時間半以内で話し合いをする。⑶結論を急がない。⑷危機が去るまで毎日続ける」というも

のです。その紹介者は、「薬物中心の日本の精神医療に明るい展望を開かせてくださった講演でありまし

た」とコメントをつけていました。どちらの記事も、地域や人との関係の中で、入院中心の隔離・収容や

薬物中心ではない精神医療のあり方が求められています。寿地区活動委員会ではろばの家の報告がありま

すが、その報告を聞いていますと、浦河べてるの家の当事者中心の取り組みが少しずつ広がっているよう

に思われますが、まだまだなのでしょう。このことにも心を向けていきたいと思います。

・3月1日(水)午後1時半から農村伝道神学校の卒業式がありました。T校長から2016年度が始

まってしばらくしたときに、この卒業礼拝の説教を私は頼まれていましたので、農伝の卒業礼拝で説教を

しました。その説教の中で、私は牧師になるということはどういうことなのかということをお話ししまし

た。たまたま最新号の『時の徴』の「聖書随想」に、Uさんという方が、「10年ほど前、真剣に牧師の道

を目指し始めてまもなく中学時代の恩師にこう言われたことがある」と言って、「俺のような教師やお前

の目指そうとしている牧師って職業は、何も生み出さない仕事なんだぞ。人間に関わっていくだけの仕事

なんだ。人の人生に関わっていくんだ。それだけなんだ。」》という言葉を記していました。その言葉を

紹介させていただいて、<「み言葉に仕える」働きに関わり、そのことによって飯を食う牧師という仕事

は、人が食うために必要な生産を何も生み出さないばかりか、人が命をけずって得た生業(なりわい)の

一部をいただいて自分が飯を食うということなのです。そのようにして人間に関わり、他者の人生に関

わっていく牧師の仕事が、人をだまして儲けるペテン師ではなく、まともな仕事と言えるとすれば、それ

はなぜなのでしょうか。みなさんには、まずそのことをよく考えていただきたいと思うのであります>

と。そして、<私は現在日曜礼拝でエレミヤ書の連続講解説教をしていますが、最近23章のエレミヤの

預言者批判を扱っています。この預言者批判のところで、エレミヤが預言者の何を批判しているかという

と、一つは預言者の振舞いです23:12,14)。もう一つは、預言者が語る言葉、彼らの宣教の内容そのもの

への批判です(23:16,17)。つまりエレミヤが批判している預言者たちは、「平和がないのに『平和だ平

和だ』と言う」偽りの預言をして、人々を神にある解放と救いから遠ざけてしまっているというのです。

/「み言葉に仕える」働きを担う者にとって、このエレミヤの預言者批判は自らに向けられている言葉と

して読まざるを得ません。自らの振舞いとその語る言葉によっては、神にある解放と救いから人々を遠ざ

けてしまうこともあり得るのです。そのような形で他者の人生に関わっていくとすれば、私たちは誰より

も厳しく神に裁かれるに違いありません。・・・それでも私が牧師の仕事を続けているのは、聖書の語る

エスの出来事には、人間と全ての自然にとって究極的な解放のメッセージがあると信じているからで

す。ヨハネ黙示録の著者が語っているような、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、

人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくだ

さる。もはや死もなく、もはや悲しみも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(21:3,4)とい

う終末的な世界がイエスによってこの世の現実に突入していることを知らされているからです。ですか

ら、パウロと共にこのように信じたいと思っています。「神の国は、・・・聖霊によって与えられる義と

平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だか

ら、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」(ローマ14:17-19)と(傍点筆

者)。・・・>。

・卒業礼拝後懇親会に出て、帰りかけた時、携帯に留守電やメールが沢山は入っていることに気付きまし

た。紅葉坂教会の方が召されて、その葬儀のことで私に連絡が来ていたのです。さっそく連絡を取り、病

院から搬送されている遺体は葬儀式まで葬儀社であずかることになったと言うので、私はそのまま葬儀社

に伺いました。午後5時半ごろ葬儀社に着き、まず棺に入った遺体を前に家族の方々に集まってもらい一

言祈って、葬儀の打ち合わせをしてから、葬儀社の車で石川町駅まで送ってもらい、私は鶴巻に帰りまし

た。鶴巻に着いたのは午後9時過ぎでした。

・3月3日(金)朝秦野日赤病院に行き、前立腺の検査のたけの採血をしました。この日は採血だけし

て、診察は10日ですので、そのまま船越教会に向かいました。この日午後1時から船越教会で有志によ

る世界祈祷日の式文礼拝をすることになっていたからです。TさんとHさんの発案で急遽この日に行うこと

になりました。川崎の教会から2人、田浦教会から1人、私を入れて船越教会から5人が参加し計8人の

集まりでした。船越教会の礼拝でも世界祈祷日の礼拝式文を使った礼拝をという希望があり、教会として

パンフレットを15部取り寄せましたので、5日の役員会で検討し、3月19日(役員会で26日なりまし

た)の礼拝で世界祈祷日の式文礼拝ができればと思っています。