なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(49)

 エレミヤ書による説教は、この前にエレミヤ書20章1~6節による説教(48)がありますが、

(48)は後日掲載します。


     「苦闘」エレミヤ書20:7-13、2016年10月30日(日)船越教会礼拝説教

・今日は、礼拝後「船越教会の今後を考える」というテーマで、修養会を行うことになっています。今日

の礼拝説教のテキストは、修養会を意識してその主題説教のテキストとして選んだ聖書箇所ではありませ

ん。連続して説教をしているエレミヤ書の続きです。けれども、このエレミヤ書のテキストは、エレミヤ

の告白と言われるところで、預言者、すなわち神(ヤハウエ)を信じる信仰者としてのエレミヤの叫びと

言ってもよいところです。それはエレミヤの信仰告白です。エレミヤ書には、エレミヤの告白と言われる

文書が五つあります。今日の箇所は、5番目の最後のものです。エレミヤの告白ですから、エレミヤの心の

底からこみ上げてくる言葉と言ってよいでしょう。

・船越教会は、本質的にはエレミヤと全く同じ、イエスを主と信じる信仰者一人ひとりが、<二人または

三人がわたしの名によって集まるところにわたしもその中にいる>(マタイ18:20)とのイエスの約束に基

づいたイエスの「兄弟姉妹団」であります。ですから午後の修養会では、そのようなイエスの「兄弟姉妹

団」である<船越教会の今後を考える>ということになると思います。<船越教会という宗教集団の組織

の今後を考える>というのではありません。例えば「人口減少が続く横須賀市の今後を考える」とか、「高

齢化社会における年金制度や医療の問題の今後を考える」というようなテーマと同じような意味で、「船

越教会の今後を考える」というのではありません。

・先週25日(火)から27日(木)まで、第40回(沖縄キリスト教団との合同後第25回)教団総会が行われ

ました。私はその教団総会に、私の「戒規免職撤回と聖餐論議の場の設定を求める」教団総会議案が二つ、

神奈川教区と大阪教区から出ていましたので傍聴しました。この教団総会の主題は「伝道する教団の建設

~十字架の贖いを土台として~」でした。けれども、この主題を掲げた執行部の方々の関心は、もっぱら

教勢(教団の信徒数)と財政でした。信徒の高齢化により2020年には信徒数と財政が相当減少して、現状

を維持することが困難になるという危機感が煽られていました。一方、一人ひとりの信仰者が、この時代

と社会の中でイエスの福音にふさわしくどう生きていくのかという問題については、無関心というか、ほ

とんど何も考えていないという状態です。そのような問題に関わる議案は、執行部側からは殆ど何も出て

いませんでした。そのような内容を含む議案は、むしろ諸教区から出されていましたが、上程されたもの

は総て否決、後は時間切れ廃案になってしまいました。教団総会で多数を占める執行部側は、信徒数と財

政という護教的なものへの関心に終始していたように思います。

・<船越教会の今後を考える>というテーマで、教団執行部の方々と同じように、船越教会をどう守るこ

とが出来るかという護教的な話し合いをするつもりはありません。私たち一人ひとりがイエスの福音を信

じる信仰者として、イエスの兄弟姉妹団である教会に連なり、この時代と社会の中をどう生きていくのか、

私たちにとってイエスの福音とは何か、という基本的な問いをはじめ、21世紀のこの現代社会において、

キリスト者として、またキリストの教会としてどう生きていくのかを、真剣に聖書と現実の往還の中で問

い、聖書からその道を示されて、信仰・希望・愛に生きていきたいと思うのであります。

・そこで今日は、エレミヤの5番目の告白の前半のテキストから、預言者エレミヤの信仰者としての独自な

あり方について学び、私たちが一人の信仰者として生きるとはどういうことなのかを考えたいと思います。

・第一に、エレミヤは、神に召された預言者つまり一人の信仰者としては神と格闘しているということで

す。

・私たちキリスト者も洗礼を受けて信仰者になったからと言って、それですべてが終わるわけではありませ

ん。そこから信仰者としての歩みが始まるのです。その歩みの過程では次々に問題とぶつかって、自分の信

仰が問われます。神との格闘が始まるのです。その都度、自分と神との関係が問われるのです。

・先ほど司会者に読んでいただいたエレミヤ書20章7節にはこのように記されています。<主よ、あなたが

わたしを惑わし、/わたしは惑わされて/あなたに捕らえられました。/あなたの勝ちです>と。ここには

「惑わす」という言葉が使われていますが、「惑わす」はヘブル語ではパーサーという動詞です。主として

男が女を、あるいは女が男を誘惑する意味で使われています。木田献一さんは、<エレミヤが神の与えた使

命のゆえに困窮(苦しみ)に陥ったとき、神に向かって「あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて、

あなたに捕らえられました」と告白しているのは衝撃的である>と言っています。男が女を、女が男を誘惑

するように、エレミヤは神に誘惑されて、神の虜になってしまったというのです。

・<エレミヤは召命の時も、「若者にすぎない」自分が預言者となることはできないと拒否しました(1:6

)。にもかかわらず、彼は使命の実行のために押し出されたのです。そのことを、彼は神に向かって「あ

なたは勝ちです」(20:7)と言っています。その結果、「一日中、笑い者にされ」、嘲(あざけ)られま

た。彼は語る度に、指導者や有力者に対して、その「不法や暴力」を批判せざるを得ませんでした。「北

からの災い」の到来を預言して外敵の攻撃を警告し、内なる不正を批判することは、彼に迫害と嘲笑(人

々のあざけり)をもたらしました。若いエレミヤが預言者としての課題を拒否して、神の言葉を語るまい

としても、神の言葉は、彼の心身の奥底にあって、消すことが出来ない火のようにもえあがるのでありま

した。9節にこう語られています。「主の名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の

中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。/押さえつけておこうとして/わたしは疲れ

果てました。/わたしの負けです」と。エレミヤは、「わたしは負けです」と、神との格闘における敗北

を認めているのです>。

・このエレミヤにおける神との格闘、そしてその敗北は、私たちキリスト者にとっても、主イエスとの格

闘、そしてわたしたちの敗北ではないでしょうか。私たちは主イエスに従って、イエスの兄弟として、イ

エスの姉妹として、この現実社会を生きて行こうとする時に、権力や資本の不正や暴力を見過ごしにでき

ません。安倍政権を批判し、東京電力を糾弾するのは、権力者の横暴と資本をもつ大企業の不正を、その

まま見過ごしにはできないからです。原発反対も、新基地建設反対も、それらのよって人間や自然が破壊

されるからでありますが、私たちキリスト者にとっては、そのことを主イエスが望みはしないからでもあ

ります。エレミヤが「主の名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉

じ込められて/火のように燃え上がります。/押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。/

わたしの負けです」語っていますように、私たちも、権力と資本による不正と暴力を見過ごしにできない

のは、どんなに抑えつけようとしても、内なる主イエスが私たちをそうさせないからではないでしょうか。

権力と資本による不正と暴力の犠牲となって苦しむ小さくされた人びとと共に生きられて、十字架の苦し

みを負われて死に、そして三日後に復活して活ける主として、今も私たちの中にいたもうイエスの存在が、

押さえつけようとしても押さえつけられないからではないでしょうか。

・第二に、それだからこそ、エレミヤには敵対者の攻撃が厳しかったのです。「迫害と嘲笑(人々のざけ

り)」となってエレミヤを襲いました。

・10節にこのように語られています。<わたしには聞こえています/多くの人の非難が。/「恐怖が四方

から迫る」と彼らは言う。/「共に彼を弾劾しよう」と。/わたしの味方だった者も皆/わたしがつまず

くのを待ち構えている。/「彼は惑わされて/我々は勝つことができる。/復讐してやろう」と>。

・<「恐怖が四方から迫る」というのは、エレミヤが「北からの災い」を警告するために使った言葉です

(6:25)。ここでは彼の善意に悪をもって報いようとする人々が彼を嘲笑する(あざける)ために「恐怖

が四方から迫る」と語っているのです。エレミヤを迫害する者の恐怖が、四方からエレミヤに迫っている

ぞという脅迫ともとれます>。

・今沖縄の高江でヘリパッド建設反対運動をしている人々の中から、二人の人が逮捕拘留されています。

これは明らかに反対運動に対する弾圧です。先週の説教でも触れましたが、Yさんが沖縄の高江のヘリパッ

ド建設反対運動に参加しているのは、彼の信仰的な良心からきていると思われます。Yさんは、自分が辺

野古や高江の運動に参加しているその経験に基づいた講演の中で「イエス様は、いつも迫害されている者

と共にいました。 常に弱い者の味方をしてくださいました。私はそういう人になりたい。」 と語ってい

ます。この現実社会の中でのイエスに従って生きる者は「自分の十字架」を負わなければなりません。イ

エスが苦しまれたその苦しみ一端を、この身で背負わなければなりません。そのことは迫害や嘲笑(人々

のあざけり)を、私たちも受けなければならないということです。

・けれども、第三に、エレミヤの信仰告白としてこのよう言われています。11節、12節です。<しかし主

は、恐るべき勇士として/わたしと共にいます。/それゆえ、わたしを迫害する者は勝つことはできない

>と。12節ではこのように語られています。<万軍の主よ/正義をもって人のはらわたと心とを究め/見

抜かれる方よ。/わたしに見させてください/あなたが彼らに復讐されるのを。/わたしの訴えをあなた

に打ち明け/お任せします>。<外面的な応報ではなく、「各人の心の奥底の姿に照らして、神は報いる

べきではないかと、エレミヤは言うのです。エレミヤほど「人のはらわたと心を究めることを神に求めた

人物はいないのではないでしょうか。その上で、彼は自分の主張と訴えを神に委ねるのであります>。

・このようにエレミヤが経験したように、私たち信仰者も主イエスを信じて生きる時に、「神と格闘」し、

「この世からの抵抗(迫害と嘲笑〔人々のあざけり〕)」を受け、それにもかかわらず、「主はわれらと

共にいます」が故に、迫害や嘲笑に負けることはないのです。ですから、私たちもエレミヤと共に、<主

に向かって歌い、主を賛美せよ。/主は貧しい人々の魂を/悪事を謀る者の手から助け出される>という

言葉を、信仰の告白として語ることが出来るのです。

・そのことを確かにしつつ、午後の修養会では<船越教会の今後について>共に考えていきたいと思いま

す。