なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(44-2)

   「嘆き」エレミヤ書17:12-18、2016年7月24日(日)船越教会礼拝説教

・今年の平和聖日は8月7日(日)です。この日の船越教会の礼拝は國安敬二牧師にお願いしました。その

日私は、今無牧の紅葉坂教会の礼拝説教を頼まれてすることになっているからです。その日が近づいてきて、

いろいろと思いめぐらせていましたところ、1999年の平和聖日のころに紅葉坂教会にあった、一つの出来事

を思い起こしました。

・そのことが起こったしばらく前に、神奈川教区だよりに、「日本ホーリネス教団、神奈川教区」に対する、

日本基督教団神奈川教区総会名による謝罪文が掲載されました。そこには、戦時下日本基督教団がホーリネ

ス教団に対して、ホーリネス教団の教職の“自発的辞任”と教会解散をすすめた、「その結果、多くの教会

が閉鎖され、多くの教職が教師籍を剥奪されましたが、(おおかたの教会、キリスト者は)それらに加担す

る役割を果たすことになりました。それどころか、横浜のある教会は礼拝に出席しようとした弾圧を受けた

教職の出席を断ったという事実があります。いずれも、これは自分の教会に災いの及ぶのを恐れ、『切り捨

て』『排除』による自己保身の姿勢であり、誠に申し訳なく思います」と記されていました。

・これを読んだ紅葉坂教会の信徒の一人が、紅葉坂教会の週報のコラムに投稿した文章の中で、「横浜のあ

る教会とは、紅葉坂教会のことである。肌身を切り裂かれる思いがする。当時の役員会の苦悩は、想像をす

るしかないが、しかし、教会は、その事実から逃れることはできない。/教区は、同じ痛みをもってこの文

章を公表しただろうか」と書いたのです。

・そしてこの信徒の週報コラムを読んだ、戦時下紅葉坂教会牧師の子息の方が抗議して来て、その思いを私

が文章で書いてくださいとお願いしました。そして書いて来た文章の中に、戦時下紅葉坂教会の建物が当時

の陸軍の補給部隊に接収され、かろうじて会堂一階部分にあった17畳の和室だけは礼拝堂として使うことが

許されたことに触れ、「その時の牧師の体を張った努力があったればこそ、現在の紅葉坂教会が存続するの

ではないでしょうか。対ホーリネス教会に対する云々が事実と云われるならば、・・・戦時中の牧師の教会

死守の姿も事実のことです。小生は先の(信徒の方の)文章を読み『死者にむち打つ』ような考え方だなと

強いショックを受けました。現在の教会の重だった方々がその様な目或いは考え方で故・・・牧師をみてお

られるとするならば、当時の牧師と共に苦労してきた小生としては耐え難い感に捕らわれています。亡き父

、・・・牧師もきっと口惜し涙にくれていることと存じます。・・・」と記されていたのです。

・私は、この時にどう対応すべきか苦慮しましたが、事実は事実をしてみなさんに明らかにすることではな

いかと思い、「平和聖日特集号」として教会だよりを発行しました。「はじめに」の文章を私が書き、なぜ

この平和聖日特集号をだすようになったのかについての説明を書きました。そして神奈川教区の「日本ホー

リネス教団、神奈川教区」に対する謝罪文、その文章を読んで書いた信徒の週報コラム、戦時下紅葉坂教会

牧師の子息の方の文章、そしてその年の「平和聖日を迎えるに当たって」という私の文章、その中には問題

になった戦時下の事実についても記しました。実は、1995年4月に私が名古屋の教会から紅葉坂教会の牧師

に着任した早々に、神奈川教区のある先輩牧師から、戦時下に紅葉坂教会の礼拝に出席するのを断られた

ホーリネス教会の牧師が健在なので、北村さんその方を訪ねて話を聞いておいたらどうかと勧められて、

その牧師にお会いして2時間ほどお話を伺っていたのです。お話を伺って、私はそのことは事実に違いない

と思いました。ですから、この問題が起こったときにも、既にその牧師はお亡くなりになっていましたが、

この事実はうやむやにしてはならないと思いました。ただ戦時下の牧師の子息の思いも事実の一面ですの

で、それを書いてもらい両論併記のような形で教会だよりの特集号として、教会のみなさんに読んでいい

ただくことにしたのです。

・少し丁寧にこのことをお話ししましたのは、この問題には、今日のエレミヤ書に記されています、エレミ

ヤの嘆きが生まれた状況と重なっているところがあるように思えたからです。戦時下という厳しい状況の中

で信仰者としてどのように生きるのかという時に、その信仰の真実を貫くのか、状況に妥協するのかという

二者択一が信仰者には問われるのではないかと思うのです。迫害を恐れたならば、信仰者としての真実を貫

くことができない、そういう状況ではないかと思うのです。

・エレミヤも預言者としての自らを貫くことの困難さに直面していたように思われます。15節に<御覧くだ

さい。彼らはわたしに言います。/「主の言葉はどこへ行ってしまったのか。/それを実現させるがよい」

と。>と記されています。ここには、エレミヤの語った預言が実現しないことに対するイスラエルの民の嘲

笑が語られています。同じ預言者ですが、イザヤの場合は、そのような民の嘲笑に対しては、神の側に立っ

て、<災いなるかな>と叫んだに違いありません。イザヤ書5章19節以下にこのように記されています。<彼

らは言う。/「イスラエルの聖なる方を急がせよ/早く事を起させよ。それを見せてもらおう。/その方の

計らいを近づかせ、実現させてみろ。/そうすれば納得しよう。>(19節)。これはエレミヤ書の<御覧く

ださい。彼らはわたしに言います。/「主の言葉はどこへ行ってしまったのか。/それを実現させるがよい

」と。>と内容的には全く同じ言葉です。預言者イザヤもエレミヤと同じようにイスラエルの民から、お前

の語る言葉を実現させてみろと、嘲笑されているのです。それに対してイザヤは、<災いだ、悪を善と言

い、善を悪と言う者は。/彼らは闇を光とし、光を闇とし/苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする

>(20節)と言って、上からお前たちは間違っていると、イスラエルの民に対応しているのです。イザヤ

は民の嘲笑に対しても容易に屈しませんでした。

・しかし、エレミヤは民から嘲笑されると、痛く傷ついてしまうのです。<わたしは、災いが速やかに来

るよう/あなたに求めたことはありません。/痛手の日を望んだこともありません。/あなたはよくご存

じです>(16節)と神に向かって語っており、北からの災いの預言をイスラエルの民に語ったのは、神に

命じられたからであって、自分がそれを望んだからではないと言っているのです。この16節の言葉から窺

がえるのは、エレミヤが民からの嘲笑に痛みを覚えことの理由が、エレミヤがその最善を民のために尽く

し、執り成し祈って来たのに、エレミヤの方から民に災いを下すことを神に求めた、という風に民に誤解

されたことでした。エレミヤにとってはそれほど心外なことはなかったのです。けれども、<エレミヤと

しては審判の不可避なことについては少しも疑いを持っていませんでした。寧ろ圧倒的に迫りくる審判の

予感に戦き、17節以下ではじめて自分と民との間を区別して、神に祈っていると見られる>のです。

・<わたしを滅ぼす者とならないでください。/災いの日に、あなたこそわが避け所です。/わたしを迫

害する者が辱めを受け/わたしは辱めを受けないようにしてください。/彼らを恐れさせ/わたしを恐れ

させないでください。/災いの日を彼らに臨ませ/彼らをどこまでも打ち砕いてください>(17,18節)。

ここでは、エレミヤは自分とイスラエルの民とを区別して、<わたしを滅ぼす者とならないでください。

/災いの日に、あなたはわたしの避け所です>と、エレミヤは自分について祈り、イスラエルの民に対し

ては<災いの日を彼らに臨ませ/彼らをどこまでも打ち砕いてください>と神に祈っているのです。

・木田献一さんは、このエレミヤ書の箇所の註解において、<預言者の語ることが、聞く者にとって不快

な不利益な面を含んでいるとしても、それは預言者の口を封じ、迫害したり、辱めたりする理由には全く

ならないはずである。それゆえに、エレミヤは、彼に不当な迫害を行う者たちを徹底的に打ち砕いてほし

い、と神に祈っているのです」と述べた後、<このように復讐を求める預言者の言葉に抵抗を感じる人が

あるのも当然であるが、エレミヤは、人間の責任、罪、悪などの問題を飛び越えて、人間性の再生とか、

罪や悪の赦しを語っているのではないことをわれわれは知らねばならない>と言っています。

・エレミヤが、自分と民とを区別して、<わたしを迫害する者が辱めを受け/わたしは辱めを受けないよ

うにしてください。/彼らを恐れさせ/わたしを恐れさせないでください。/災いの日を彼らに臨ませ/

彼らをどこまでも打ち砕いてください>と祈ったことを、自分だけが災いから逃れたいというエレミヤの

エゴイズムと思う人もあるかも知れません。しかし、信仰者としての真実を厳しい状況の中で貫こうとす

るなら、自分ひとりで立たなければならないということもあるのではないでしょうか。信仰者として、民

と共にあることは大切なことですが、その民が間違った方向に歩んでいるときに、預言者エレミヤは、た

った一人でも神の前に真実な者として立とうとしたのです。そして災いによってイスラエルの民が徹底的

に打ち砕かれることを祈ったのです。18節の最後の言葉<災いの日を彼らに臨ませ/彼らをどこまでも打

ち砕いてください>という新共同訳に対して、岩波訳は<彼らの上に、災いの日を来させ、/倍の破れを

もって、彼らを打ち破ってください>と訳していますし、関根訳も<災いの日を彼らの上にこさせ、/破

れを倍にして彼らをそこない給え>と訳しています。過ちに陥っている人間は、その過ちが徹底的に打ち

砕かれなければなりません。そうでなければその人間の再生はあり得ません。

・主イエスの十字架の贖いによって、私たちが罪赦されて、神の子どもとして新しく生きることが許され

ているというのが、イエスの十字架の贖罪信仰です。イエスが私たちの罪を私たちに代わって徹底的に引

き受けて下さり、十字架にかかって死んでくださったことによって、古い私たちはイエスの十字架と共に

死に、復活して、罪や悪から自由な新しい人間として私たちが生きることができるというメッセージでは

ないかと思います。ここには、罪との断絶がはっきりとしています。私たちの自身の中にある、打ち砕か

れなければならない罪を、あいまいにしてはならないと思います。それを徹底的に打ち砕いていただいて、

主イエスと共に再生の歩みを、同信の兄弟姉妹と共に、まだなお罪の虜の中にある人々と共に一歩一歩歩

んで行きたいと思います。