なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(42)

     「このような日が来る」エレミヤ書16章14-21節、

                       2016年7月3日船越教会礼拝説教

・ エレミヤの預言はエレミヤの時代のイスラエルの人々だけではなく、エレミヤの死後もイスラエ

ルの人々に大きな影響を与えたと思われます。先ほど司会者に読んでいただいた16章14節、15節には、明

らかにバビロン捕囚を前提にして、その捕囚の地バビロンからのパレスチナへの帰還について記されてい

ます。ほぼ同じ内容の言葉が23章7節、8節にも記されています。

・ これは明らかに時代的にはバビロン捕囚も終わりに近づいた時期の回復の預言と言ってよいで

しょう。エレミヤ書にはこのような捕囚期末の回復の預言がかなり書き加えられています(3:18,23:8,

31:8)。バビロンに対する審判の預言と共に、この時期にエレミヤ書に加筆された部分は多いと言われて

います。

・これは何を意味するかと言えば、<捕囚の民が、いかにエレミヤの預言によって、過去の破滅の意味(

つまり自分たちの国が滅び、バビロンに捕囚されて来たのは何故なのか)を考え、また将来の回復の預言

について考えたか>(木田献一)ということです。この過去の破滅の意味を考え、また将来の回復の預言

について考えるということは、自らのアイデンティティーをどこに据えて、これから自分たちはどのよう

に歩んでいくべきなのかという、彼らにとっては生き方の根本に関わる大変重要な課題でありました。捕

囚の民が、それをエレミヤの預言に触発されて行ったとすれば、捕囚の民にとってエレミヤの預言がいか

に重要な意味を持っていたのかということが推し量られるのであります。

・今日の箇所は、そのような意味でエレミヤ自身の預言ではなく、後からエレミヤの預言に加筆されたも

のと考えられますが、エレミヤの預言によって考えらえた捕囚の民の証言として、ここからエレミヤの預

言に通じるものを読み取ることが出来るのではないかと思います。

・14節、15節の回復の預言の後に、16節から18節までは、審判の預言が続いています。この審判の預言で

は、17節で<わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている。彼らはわたしの前から身を隠すこともで

きず、その悪をわたしの目から隠すこともできない>と言われています。ここには、神の目からわたした

ちは自分身を隠し、また自分の悪を隠すことは出来ないと言われていますが、その比喩的な言い方として

16節には、魚を釣る漁師と狩りをする狩人のことが記されています。<見よ、わたしは多くの漁師を遣わ

して、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての丘、

岩の裂け目から、彼らを狩り出させる>と。ここではイスラエルの民が魚や動物に譬えられていて、それ

を探し出し釣り上げる多くの漁師や、狩り出す多くの狩人を、神は遣わすと言われているのであります。

魚や動物がどんなところに隠れていても見つけ出されてしまうというのです。そして釣り上げられ、狩り

出されたイスラエルの民の悪と罪を神は二倍にして報いると言うのです。<まず、わたしは彼らの罪と悪

を二倍にして報いる>(18節a)。何故なら<彼らがわたしの地を、憎むべきものの死体で汚し、わたしの

嗣業を忌むべきもので満たした>(18節b)からだと言われているのです。

・この「二倍にして報いる」と言われているのは、漁師と狩人による処罰を二重の罰と解釈して、紀元前5

97年と587年の2回のバビロン捕囚を意味していると考えられています。この二回のバビロン捕囚を経験し

イスラエルの民は、神ヤハウエへの自らの背信という過ちを悔改めて、イスラエルの神ヤハウエに向か

って、<主よ、わたしの力、わたしの砦/苦難を襲う時の逃れ場よ>と呼びかけているのです。19節後半

から20節ではこのように言われています。<あなたのもとに/国々は地の果てから来るでしょう。/「我

々の先祖が自分のものとしたのは/偽りで、空しく、無益なものであった。/人間が神を造れようか。/

そのようなものが神であろうか」と。>。「真の神を知る者はそれ以外の神々は総て人の造ったものであ

るばかりでなく、偽りであり、空しいものであることを知る」(関根正雄)のです。バビロンに捕囚され

イスラエルの民は、捕囚時代のつらい経験を通してそのことに気づいたのです。この気づきは、イスラ

エルの民にとって自分たちのアイデンティティー、自分たちは何を信じ、どのように生きていくべきなの

かという、その方向性の確認でもありました。

・奴隷の地エジプトからモーセを通して解放してくれた神ヤハウエと結んだ契約、その約束に基づいて、

ただ神ヤハウエのみを大切にし、隣人の命と生活を奪わないで、互に互いを大切にして共に生きていく。

それがイスラエルの民に与えられた道でありました。それは神ヤハウエに祝福された道であり、イスラ

エルの民だけではなくすべての人に平和と幸いをもたらす道でもありました。イスラエルは、その道を

歩んで、神の祝福に全ての人々を招く使命が与えられていたのであります。

・21節は、捕囚期のイスラエル民が彼らのその根源的な使命に気づいたことを示しています。<それゆえ、

わたしは彼らに知らせよう。/今度こそ、わたしは知らせる。/わたしの手、わたしの力強い業を。/彼

らはわたしの名が主であることを知る。>。この21節の「彼ら」はイスラエルの民以外の全ての民を指す

と考えられます。ですからこの21節は、<異邦人の改宗がかつて実現しなかったが、今度こそ彼らはわが

力を知り、ヤハウエを受け入れるであろう>(関根正雄)と読むことが出来ますので、そこには捕囚期の

イスラエルの民がヤハウエ信仰にが立ち帰って、彼らの使命を全うすることによって、異邦人もヤハウエ

を受け入れ、イスラエルの祝福に共に与かるようになるというのです。

・私はこのエレミヤの箇所の説教を準備する中で、捕囚期のイスラエルの民を私たち日本の教会・キリスト

者に置き換えて考えている自分がありました。4月16日に行われた私の支援会の総会で関田先生が「北村慈

郎牧師の免職撤回を求め、開かれた合同教会をつくる宣言5項目のめざすもの」と題してお話ししてくださ

いました。宣言5項目とは、<)迷嫉隆宰匯佞量反処分の即時撤回と教団教師の復権を求めます。∪算

についての論議の場が設定されることを求めます。げ縄教区に対する謝罪と関係回復への具体的作業

を求めます。グ貶?な「公同教会」の主張を再考し「合同教会」の形成を求めます。>です。この中の

<「戦責告白」の教団史における意義を踏まえ、歴史に向かい合う教団となることを求めます。>を中

心に関田先生はお話をされました。

・関田先生は、<日本基督教団が第二次大戦下における教会としての罪を悔い改め、「戦責告白」を通し

て赦されて生きる教会になったとうこと。このことの故に私は本当に日本基督教団を愛しています>と言

われました。「第二次大戦下における教会としての罪」とは、日本基督教団の戦争協力のことです。その

本質は天皇制の問題です。明治憲法の第一章第三条に「天皇神聖にして侵すべからず」とあります。こ

天皇を神として日本国民を統合して「富国強兵」の道を明治以後の日本の国は突き進んで、満州事変を

引き起こし15年戦争に入り、最終的には太平洋戦争に突入して破局を迎えたわけであります。戦前の教会

は、「わたしの他に何ものをも神としてはならない」という十戒の第一戒からしても、キリスト教会の大

事な宣教のメッセージの根底に天皇制と矛盾するものがあるわけですが、それを日本の教会は何とかあい

まいにやり過ごしてきたわけです。今日のエレミヤ書の箇所にある<人間が神を造れようか。そのような

ものが神であろうか>(20節)という問題に重なっています。

・敗戦によって日本の教会は、神でないものを神にしてしまったという、戦時下の誤りに対する悔い改め

をしないまま、戦後アメリカ軍の占領下キリスト教ブームに便乗して、信徒を増やすという教勢の拡大に

邁進しました。1967年イースターに当時の日本基督教団鈴木正久議長名で出された「第二次大戦下におけ

日本基督教団の責任についての告白」(いわゆる戦責告白)が、はじめて戦時下の日本の教会の誤りを

認めて、その悔い改めの告白を公にしたのです。しかし、この戦責告白の中にも天皇制に対する言及はあ

りません。現在の天皇はその言行(言っていることや行っていること)からして、安倍晋三首相などより

はるかにかつての日本の侵略戦争に対する反省の思いは強いように見えます。しかし、今後政府がまた天

皇を利用して、主権在民を覆して国家主義的な日本の国づくりをしないとも限りません。ご存知のように

安倍政権にはそのような兆候が顕著に表れています。そのような現代の状況にありまして、「人間が神を

造れようか。/そのようなものが神であろうか」というイスラエルの捕囚民の信仰を共有しつつ、人と

なった神である受肉のイエスの生涯と死と復活に神の真実を見いだしていきたいと思います。イエスの十

字架による和解によって、すべての人と人とが国家や民族を媒介としないで直接結び合わされていること

を信じ、イエスによる平和が実現しているというこの福音の真実に立って、時が良くても悪くても、私た

ちは歩んでいきたいのです。その私たちの志を神が支えてくださいますように!。