なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(270)

           船越通信癸横沓亜 。横娃隠暁7月10日    

・7月3日(日)は礼拝後何時ものようにしばらくお茶を飲みながら懇談の時を持ちました。懇談後、Hさ

ん、Iさん、Nさんの3人に教会からのお花をもって、先日母上を天上に送られたH・Sさんのお宅に弔問に行

っていただきました。3人が教会に帰って来てから、7月役員会を行いました。6月教務報告・会計報告の後、

6月17日(日)の田浦教会牧師就任式に行ってくださったHさん(Tさんも行ってくださいました)からその

報告を受けました。協議事項の中で私の夏期休暇について取り上げられ、8月27日(土)~9月2日(金)と

9月17日(土)~9月23日(金)にさせていただきました。その関係で8月28日(日)と9月18日(日)

の船越教会の礼拝説教をどなたかにお願いすることになり、どちらかを関田先生にお願いし、一方をTさん

かHさんにお願いすることにしました。その後私の方から関田先生にお願いしたところ、9月18日(日)の

船越教会の礼拝説教を引き受けてくださいました。また、私の船越教会滞在日は、土曜日から月曜日までを

金曜日から日曜日まで変更させていただきました。今年4月からまた農村伝道神学校の講師として農伝に行く

ようになり、その準備を月曜日に鶴巻でしなければなりませんのでそのようにさせていただきました。ご

了解ください。

・5日(火)は午前10時5分からの農伝の礼拝で説教を依頼されていましたので、朝早くから出かけ、エレミ

ヤの召命の記事から説教をしました。このエレミヤの召命の記事は、私が1963年に東京神学大学を受験した

時に、入学試験の時の礼拝で当時東神大の旧約教授だった船水衛一さんが、この箇所をテキストに私たち受

験生に向かって「召命無き者は去れ」と説教したところです。農伝の礼拝の私の説教では、エレミヤの召命

の記事の思い出としてそのことを枕で話して、バビロンの第一回、第二回という捕囚を経験するイスラエル

の民にとっての破局的な時代の中で活躍した預言者エレミヤの孤独と使命について、神を告発するまでに至

ったエレミヤの苦悩と預言者として民の側に自分が同調するのではなく、民を預言者として託された神の言

葉(神ヤハウエとの契約)の側に導く責任の重さについて話し、牧師として立てられる者にも求められる課

題ではないか、そのために農伝での準備の学びを大切にして欲しいという主旨のことをお話ししました。10

時25分には礼拝は終わりましたので、その後お昼まで農伝の図書館で本を読み、昼食は農伝の食堂で学生や

教師と共にいただき、午後説教演習と説教学を担当しました。その後、この日は神奈川教区の「伝道資金に

ついての学びの会」と常置委員会が蒔田教会でありましたので、蒔田教会に向かいましたが、午後5時からは

じまっていた学びの会には、一時間遅れの参加になってしまいました。午後9時過ぎに常置委員会の陪席を終

えて、何時ものように中華店で数名の有志と会食をして、午後10時半ごろ散会して、地下鉄蒔田から横浜に

出て、相鉄で海老名まで行き、海老名から小田急鶴巻温泉まで行く予定でした。ところが横浜から午後11

時には相鉄に乗ったのですが、寝てしまったのでしょう、乗った電車の車掌のアナウスの声は、次は二俣川

横浜行きですと言うではありませんか。ボーとしていた頭で反復して、どうも自分の乗っている電車は海老

名から引き返してきた横浜行きであることに気づいて、二俣川で降りて海老名行きのホームにかけていき、

ちょうど来た急行に飛び乗りました。時刻はちょうど0時でした。海老名発小田原行きの小田急の最終電車

は、確か0時2?分。間に合うだろうか心配でしたが、海老名の乗り換えもかけて小田急のホームに行き、

0時23分発の最終にかろうじて間に合い、家に着いたのは0時40分を過ぎていました。寝てしまって終点で降

り害って戻ってしまったというのは初めての経験です。自分の衰えを自覚しなければいけないということで

しょうか。

・6日(水)は、今度兵庫教区の議長に新しく選出されたO牧師から4日(月)、5日(火)と教団の常議員会

があって上京しているので私に会いたいと、数日前に連絡があり、この日午前10時に新横浜で会う約束をし

ていました。O牧師からは船越教会でも鶴巻の自宅にでも来てくださるということでしたが、それでは申し

訳ありませんので、私の方から新横浜まで行き、そこで話し合うことにしました。O牧師が私に会いたいと

いう理由は、特別な事ではなく、兵庫教区の議長になったので初めて教団常議員会に上京するから、兵庫教

区の方から北村に挨拶をしてくるようにと言われたからということでした。10時に新横浜の新幹線改札で落

ち合い、コーヒーを飲んで、1時間半ほど話し合い、今秋の教団総会議案となった大阪教区と神奈川教区の私

の免職撤回と聖餐論議の場の設定を求める議案のコピーと『戒規か対話か・・』を差し上げて別れました。

兵庫教区は私の支援会の集会には必ず常置委員の方を2名派遣してくださって、支援の意志を示し続けてくだ

さっています。2年前の第39/合同後24回教団総会開催年のときの春の各教区総会には、支援会からアッピー

ルさせていただくようにお願いしましたが、兵庫教区と西中国教区が受け入れてくださいました。その二つ

の教区の教区総会に私は准議員として受け入れていただいて、支援のアッピールをさせていただきました。

それ以来兵庫教区は2015年度も2016年度も私に准議員の一人として兵庫教区総会の案内を総会資料と共に送

ってくださっています。そのような形で兵庫教区が私への支援を表明してくださっていることは、私自身は

もちろん支援会の運動にとっても大きな力になっています。ありがとうございます。

・7日(木)は連れ合いは教区の婦人集会に出席しなければなりませので、私が国会前の辺野古新基地建設

反対の座り込みに参加しました。暑い日でしたが、私を入れて6名で座り込みました。数週間前に意識を失っ

信濃町の慶応病院に緊急入院した80代後半のSさんは、私が伺ったときには、すでに座り込んでいました。

何時も一緒に座り込んでいる一人の方が後から来て、Sさんを見つけて、厳しい言葉で体調が思わしくない

ときには迷惑をかけるから座り込みには来ないでくれという主旨のことをSさんに向かって言われました。

私はSさんお隣に座っていて、心の中でそんなことをSさんに言っても、Sさんは命をかけてここに座り込ん

でいるのだから、聞きっこないよとつぶやいていました。8日は船越教会で聖書研究会があり、この日でヤ

コブの手紙は読み終えました。