なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(70)

    「安心という誘惑」エレミヤ28:1-9、2017年7月16日(日)船越教会礼拝説教

・私たちは、日曜日ごとに諸教会で聞くことのできるメッセージの中に、国家社会に関わるものがどれだ

けあるのか、よくは分かりません。けれども、私たち船越教会では日曜毎の礼拝説教で、もう大分前から、

おそらく安倍政権が安保法制を成立させ、自衛隊が海外で武器をもって戦うことができるようになった頃

からだと思いますが、旧約聖書の預言書のひとつでありますエレミヤ書を礼拝説教のテキストにしてきま

した。

預言者エレミヤの預言は、ユダの国とその王、高官および民衆のすべてが、他の国を征服支配する覇権

主義的な国家であるバビロンやエジプトの脅威の中で、どのような道を選んでいくべきかという内容の預

言です。その意味で、エレミヤの預言は政治的・社会的な発言と言ってよいでしょう。

旧約聖書の信仰の民イスラエルは、神ヤハウエとの間に結ばれた契約に基づいて、共にこの歴史社会の

中を生きるように選ばれた人びとでした。エレミヤの時代には、イスラエルは、そのような神ヤハウエと

の契約共同体であると同時に、紀元前10世紀ごろから王国を形成していました。最初の王はサウルです。

サウルの次はダビデ、そしてソロモンまで、イスラエルは12部族の統一王国でした。しかし、ソロモン以

イスラエルは、北王国イスラエルと南王国ユダに分裂します。北王国イスラエルは紀元前721年にアッ

シリアによって滅ぼされてしまいます。エレミヤが預言者として活動した時代は紀元前627年から紀元前

568年ごろまでです。南王国ユダも紀元前597年にはバビロニアの第一回捕囚、紀元前586年には第2回捕囚

によって滅ぼされてしまいます。

・前回取り上げましたエレミヤ書27章のエレミヤの預言も今日の28章の偽預言者ハナンヤの預言を含ん

だエレミヤの預言も、第1回捕囚と第2回捕囚の間の時期に語られたものです。27章では、エレミヤは軛を

自分の首にかけるという象徴行為によって、第一回捕囚でバビロンに連れて行かれなかった、エルサレム

に残留していたイスラエルの民に向かって、バビロンの軛を負えと語ったのです。同盟国と結託したり、

強国エジプトに頼ってバビロンと戦うのではなく、バビロンの支配を甘んじて受けて、そのバビロンの軛

を負って生き延びよと。

・このエレミヤの預言に対して、偽預言者たちが「バビロンにつかえるべきではない」という真向から反

対の預言をしていることは、27章でも記されていました(9-10節、14節、16-17節)。特に27章16節17節

では、エレミヤの預言としてこのように語られています。《主はこう言われる。(第1回の捕囚によってバ

ビロンに持って行かれた)主の神殿の祭具は今すぐにもバビロンから戻って来る、と預言している預言者

たちの言葉に聞き従ってはならない。彼らは偽りの預言をしているのだ。彼らに聞き従うな。バビロンの

王に仕えよ。そうすれば命を保つことができる》と。

・ユダのイスラエルの民がバビロンに仕えるべきなのか、仕えてはならないのか。どちらを選ぶかによって、

彼ら・彼女らにとってはその命と生活が完全に奪われてしまうのか、少なくともバビロンの支配の下とは

言え、生き延びることが出来るのかということが決まるのです。それほど彼ら・彼女らにとっては生き死

にを決するほどの重要な問題でした。

・偽預言者ハナンヤが祭司やイスラエルの民に語ったと言われる預言の内容が、28章2節以下に記されてい

ます。バビロンの軛を負えと預言したエレミヤに対して、ハナンヤは、《イスラエルの神、万軍の主はこう

言われる。わたしはバビロンの王の軛を砕く》(27:2)と預言しています。そして《二年のうちに、わたし

はバビロンの王ネブカドネツアルがこの場所(エルサレム神殿)から奪って行った主の神殿の祭具をすべて

この場所に持ち帰らせる。また、バビロンへ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロン

の捕囚の民をすべて、わたしはこの場所へ連れ帰る、と主は言われる。なぜなら、わたしがバビロンの王

の軛を打ち砕くからである》(3,4節)と述べています。

・エレミヤがバビロンの王の軛を負えと言ったとき、どのくらいの時期を考えていたかといいますと、

《ネブカドネツアルとその子、その孫に仕える》(27:7)と言われていますから、約70年間くらいの時期

だったと思われます。ところが、ハナンヤは、神は2年の内にバビロンに奪われたエルサレム神殿の祭具

と共に、ユダの王をはじめ捕囚の民をエルサレムに帰還させるというのです。

・バビロン捕囚を免れたエルサレム残留民がエレミヤとハナンヤの預言を聞いて、どちらを真実の預言と

して受け止めたでしょうか。おそらくエレミヤの厳しい預言よりも、ハナンヤの安心感を与える預言に、

民の多くの人々は耳を傾けたのはないでしょうか。ハナンヤの預言は、二年経って、彼の預言が実現し

なかった場合、その預言が偽りだったことが証明されます。しかし、それまではハナンヤの預言が偽り

であるか、真であるかは分かりません。ただ希望的観測ではなく、歴史的な現実を冷静に分析する力の

ある人は、ハナンヤの預言が偽りか真かを判別することが出来たかも知れません。そのような人がエル

サレムの残留民の中にどれだけいたのかは分かりませんが、おそらくそれほど多くはいなかったのでは

ないでしょうか。

・自分の預言とは真逆の預言をしたハナンヤの預言に対して、エレミヤはこのように語っています。

《アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように、どうか主があなたの預言の言葉を実現し、

主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように》(28:6)と。エ

レミヤは、自分の預言と真逆の預言をしたハナンヤに対して、「アーメン(まことに、心から)、ど

うか主がそのとおりにしてくださるように、どうか主があなたの預言を実現し」てくださるようにと

言っているのです。このエレミヤの言葉に、預言者エレミヤの懐の深さを感じます。自分の預言と真

逆の預言をしたハナンヤを、初めから批判し否定しているのではありません。預言者としての自分に

はそのようには考えられないが、一人のユダの国の人間としては、もし主がハナンヤの預言を実現し

てくださるならば、そのようにしてくださるようにと、エレミヤは言っているのです。それが実現す

れば、バビロンに捕囚されていった人々にとっても、エルサレムに残っている人びとにとっても、望

ましいことに違いないからです。

・エレミヤはそのように語った後、《だが》と言って、《わたしがあなたと民のすべての耳に告げるこ

の言葉をよく聞け。あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争

や災害や疫病を預言した。平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わ

された預言者であることが分かる》(28:7~9)と語っているのです。

・エレミヤは、2年後に主はバビロンの軛を解くと預言するハナンヤの預言を、主が実現してくさるよう

にと語りながら、他方で、罪の悔い改めを求める審判預言を語って来た昔からの預言者は、自ら喜んで

審判を語る預言者はいないと思われるから、その審判預言は神から託された預言であることを示してい

ます。また、事実歴史的にそれが証明されています。しかし、《平和を預言する者は、その言葉が成就

するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる》と語って、ハナンヤの預言が神

からのものであるかどうかに疑問符をつけているように思われます。

・さて、私自身も一人の牧師として、毎日曜日礼拝で神の言葉を取り次ぐ務めを与えられている者です。

自分の語る説教の言葉が真実なのか、それとも偽りなのかが問われていると、いつも思っています。そ

のような思いを持ちながら説教を語っています。しかし、教会によって牧師職に立てたれたからと言っ

て、私が語る言葉がすべて真実であるというわけにはいきません。

・特に私たちが属する日本基督教団という教会で立てられた教職者が、戦時下に語られた礼拝説教の多

くが、聖書が証言している神の言葉の真実を正しく語っていたかと言いますと、そうとは言えないから

です。説教ではありませんが、日本基督教団の名によってアジアの諸教会に発信しました「日本基督教

団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書簡」の第二章にはこのような内容の言葉があります。「全

世界をまことに指導し救済しうるものは、世界に冠絶せる万邦無比なるわが日本の国体であるという事

実を、信仰によって判断しつつ、日本基督教団を信頼するように求める。正義と共栄との美しい国土を

東亜の天地に建設することによって神の国をさながらに地上に出現させることは、われらキリスト者

してこの東亜に生を享けし者の衷心の祈念であり、最高の義務であると信ずる」と。

・戦時下の教会での説教も、語る者は苦労されたと思いますが、その多くは天皇全体主義的国家であ

りました戦前の日本の国家の枠組みの中で語られ、日本の侵略戦争を肯定し、戦争を鼓舞する言葉も語

られていたと思われます。そのような説教の言葉は、聖書が証言しているイエス・キリストの福音から

すれば、残念ながら真実の言葉とは言えなかったのではないでしょうか。形は違っても、現在において

も私たちが同じ過ちを繰り返す危険性が全くないとは言えません。むしろ大いにあり得ることではない

かと思います。

・そのことを考えますと、預言者ハナンヤに対するエレミヤの闘いは決して遥か昔の聖書の中の出来事

ではないかと言って、軽く考えてはなりません。平和がないのに安易に平和を語ること、安心していて

はいけないの安心を語ること、そいういう偽りの言葉に騙されてはなりません。イエスを信じ、イエス

に従って生きようとする私たちは、軛を負うように、自分の十字架を負ってイエスに従って行かなけれ

ばなりません。

・特に現在の安倍政権がめざしている強い日本の国という、一人一人の命と生活を大切にする政治では

なく、アメリカの言いなりになって、全体主義的な国家の下に私たちを統制しようとする幻想を許して

はなりません。自分の十字架を負ってイエスに従うということは、福音書のイエスの物語を今ここで生

きるということではないでしょうか。イエスは、ローマ帝国の支配の下にファリサイ的なユダヤ教社会

であった当時のユダヤ社会が見棄てた人々である、病人、悪霊に憑かれた人、遊女、律法違反者という

レッテルを貼られて、社会から疎外されていた人びとと共に生きられました。そして神の国はあなた方

の間にあると言われました。

・私たちも、この時代と社会において、教会に連なっている者として、イエスの生き様に少しでも倣って、

福音書の物語を今ここで生きていきたいと願います。