なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(58)

   「惑わされずに」エレミヤ書23:16-22、2017年2月26日船越教会礼拝説教

・私の友人に神学校の同級生で、現在C教会の牧師をしていまSさんという人がいます。ご存知の方もいる

かもしれませんが、彼が10年前の戦責告白40周年に神奈川教区常置委員会主催の<「戦責告白」40周年を

覚える神奈川教区集会~地の塩、世の光としての教会~>、シンポジウム『日本基督教団の戦争協力と戦

責告白の現代的意義』の発題者の一人として発題をしてくれました。その発題の表題は《国家の歩みと軌

を一つにした教会の歩みは1945年8月15日で終わっていない。~各個教会の教会史が伝える息づかい~》19

67年3月26日の「戦責告白」の意義でした。彼はこの発題の資料として各個教会の教会史から沢山引用を

準備してくれました。その中に信濃町教会75年史からの引用があります。敗戦直後の記事ですが、三つ引

用しています。

・一つは、1945(昭和20)年8月19日(日)聖日礼拝説教 福田正俊牧師 《福田牧師は、15日の

天皇の放送に触れ、「畏れ多くもこの国の運命を救い給うたのがただ陛下の御愛であると感じた」と述

べ、日本の教会の主体性確保と独立自給実現を求めるなど、憂国的な心情を強い調子で吐露してやまな

かった。》

・二つ目は、1945(昭和20)年9月2日臨時長老会 「その精神は祈祷その他に生かすこと」という条件つ

きで、国民儀礼の廃止を決定。

・三つ目は、1945(昭和20)年11月 福田正俊牧師 辞意表明 「辞意の理由は、戦時中、講壇におい

て、戦勝のために語ったことも祈ったこともないが、語るべきことを十分に語りえなかったことに対する

責任を感じ、講壇にたちがたく思われたことーーー」。

・この福田正俊牧師の辞意表明を読む限り、敗戦後3か月前後において福田正俊牧師は、自分が戦時下に

おいて講壇で語って来た説教を振り返って、「戦勝のために語ったことも祈ったこともないが、語るべき

ことを十分に語りえなかったこと」を自己批判しているのです。そしてその責任を感じ、講壇に立てない

と牧師の辞意表明をしたというのであります。

・当時福田正俊牧師のように、戦時下に自分が講壇で語ってきた説教が語るべきことを十分に語っていた

かどうかを自らに問うた牧師がどれだけいたかということは分かりません。おそらくほとんどいなかった

のではないかと思われます。福田牧師のような問題意識を持っている人が多ければ、戦時下の日本基督教

団の戦争協力に対する自己批判としての戦責告白に類するものが、実際に戦責告白が出た戦後22年が過ぎ

た1967年よりもっと早くに出たかもしれないからです。ところが戦責告白は、戦後22年経ってやっと出た

のです。戦責告白が出るに当たっては、戦後日本基督教団の牧師になった、当時としては若手教職の問題

意識が反映していました。60年安保を経て、若手牧師の一部に、日本基督教団が戦時下の戦争協力に対す

る罪責を悔改めないでは、説教を語り、宣教することができないという問題意識があったのです。Iさん

もその一人ですが、そのような問題意識を持った当時の若手教職の突き上げがあって、1967年3月26日の

イースター日本基督教団総会議長の鈴木正久の名で戦責告白が出たのです。今年はその戦責告白が出て

から50年目の年になります。

・ですから、戦責告白が問題にしていることは、教会が立つべきイエスの福音の真実にちゃんと立ってい

るかどうかということです。イエスの福音の真実を薄めたり、歪めていはしないかということです。

・今日の偽りの預言たちを批判しているエレミヤの預言も同じことを問題にしています。彼らは「主の口

の言葉ではなく、自分の心の幻を語る」(16節)と言われています。6章14節では「彼らは、わが民の破

滅を手軽に治療して、平和がないのに『平和、平和』と言う」と言われています(8:11も)。

・前回のエレミヤの預言者批判では、預言者たちが「姦淫を行い、偽りに歩むこと」(14節)、即ち預言

者たちの振舞いが問題でした。今日の所は、彼らが語る言葉そのもの、つまり預言者の宣教の内容が問題

にされているのです。その点では、前回よりも今日の箇所は、預言者批判の核心に触れていると言えるで

しょう。預言者が語るべき神の言葉を歪めて、「自分の心の幻」を語るとすれば、それは預言者としては

失格なのです。

・しかし、預言者には常にその誘惑がつきまとっていたに違いありません。21節22節にこのように語られ

ています。《わたしが遣わさないのに/預言者は走る。/わたしは彼らに語っていないのに/彼らは預言

する。/もし、彼らがわたしの会議に立ったのなら/わが民にわたしの言葉を聞かせ/彼らの悪い道、悪

い行いから/帰らせることができたであろう》(21,22節)と。

・ここに《もし、彼らがわたしの会議に立ったのなら/わが民にわたしの言葉を聞かせ/彼らの悪い道、

悪い行いから/帰らせることができたであろう》と言われています。つまりここでは、神が預言者に与え

る言葉は、先ほどの「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに『平和、平和』と言う」

(6:14)という、偽りの平和を語る言葉ではなく、むしろイスラエルの民が陥っている「彼らの悪い道、

悪い行い」を悔い改めて、神に立ち帰らせる言葉であると言われているのであります。そのような言葉

を、偽預言者たちは神の会議に立ち会って、神から直接与えられていないというのです。

・戦時下戦争協力をすすめる言葉を語った多くの牧師は、日本の侵略戦争を聖戦と美化し、神の名によっ

て日本の侵略戦争を肯定してしまいました。福田正俊牧師は、そこまではしなかったが、聖書のイエス

福音から本来はそのような侵略戦争を批判し、否定すべきであったのに、その「語るべきことを十分に語

りえなかったこと」を自己批判しているのです。

・エレミヤが批判している偽りの預言者たちは、何故神の言葉を歪めて、偽りの平和を語ってしまったの

でしょうか。また戦時下の多くの牧師は、なぜ戦争協力に加担して、日本の侵略戦争を聖戦であるかのよ

うに美化してしまったのでしょうか。これは、また私たち自身の問題でもあります。

・エレミヤが真実な預言者として立ち続けることができたのは、彼の同胞であるイスラエルの民との関係

と共に、一人の人間として裸で神と格闘したからではないでしょうか。イスラエルの民との関わりの中

で、また身近な家族や親族との関わりの中で、エレミヤには背負わなければならなかった重荷があったと

思われます。彼はその荷を背負いつつ、神に召された預言者として、一人の人間として、神との関係を生

きたのです。エレミヤは神との格闘の中で、一つの道を示され、他者である隣人との関わりの中で神のみ

心に適う人間関係を創造的に結ぶために、苦難をもいとわずに、自分をかけていったのではないでしょう

か。

・一方偽預言者たちは、イスラエルの民との関係をはじめ、この世の人間関係に引きずられてしまい、預

言者として決定的に必要な神との格闘をいつしかないがしろにするようになっていったのではないでしょ

うか。17節で《誰が主の会議に立ち/また、その言葉を聞いたか。/誰が耳を傾けて、その言葉を聞いた

か》と言われているのは、偽預言者たちは耳を傾けて神の言葉を聞こうとしなかったと言っているので

す。

・私は、私たちキリスト者が社会の問題を問われたときに、その問題と真正面から関わるのではなく、神

関係に逃げ込むことによって、結果的に無責任になるというキリスト者の否定的な姿勢を以前に批判した

ことがあります。信仰に熱心な方が社会的な問題には無関心で、場合によっては差別に加担してしまうの

は何故かということです。《私は、そのような信仰の問題は、神関係を第一義とし、隣人である他者との

関係を第二義として、段階的に位置付けるところにあると見ています。それが夫婦、親子、友人、知人と

の一対一の関係である対関係にしろ、3人以上の共同の関係(社会の問題の多くは共同の関係の歪みに起

因しています)にしろ、人間と人間との水平的な関係の問題が問われた時に、垂直の神関係を第一義と

し、信仰は神と自分の問題であると言って、その問いから逃げるということが起こり得ます。このこと

が、その人としてはどんなに誠実に信仰を深めていると信じていても、そうであればある程、その信仰が

「強者の奢りになり、差別体質が作られていく」原因になってしまうのです》と書いたことがあります。

・この場合は、信仰者が当然持っている神と自分との垂直的な関係の否定的な面を指摘していますが、今

日のエレミヤ書の偽預言者批判では、むしろ預言者個人と神との垂直な関係の希薄化、そこでなすべき格

闘を怠って、隣人である他者との水平関係において、預言者として本来語るべき言葉を失っているという

問題なのです。ですから、神の前に単独者として立ち神と格闘する垂直の関係はもちろん大切です。私は

上記に続いてこのように書きました。《そこで、私としては、神関係=他者関係(人間と人間)として信

仰をとらえたいと思います。他者関係において己の神関係が問われており、神関係において己の他者関係

が問われているからです。そこにおける真実は、イエスの出来事の中に発見できます。それ故、「イエス

の出来事は、この世の価値観、差別から私たちをたえず自由にし、真実の交わりを造り出していく」ので

す。では、「この世の価値観、差別から私たちを自由にし」とありますが、具体的にどのようにこの世の

価値観、差別に縛られている私たちがその呪縛から自由になり得るのでしょうか。その自由への道は、私

たちにとっては「隣人の発見」→「出会い」→「変容(変わり合う)」→「共生」という道を繰り返しな

がら、「真実の交わり」を不断に創造する道ではないでしょうか》と。エレミヤが批判した預言者たちの

ように、神との格闘をないがしろにして、同胞であるイスラエルの人びととの関係に引きずられることに

よって、彼ら彼女らにも不誠実になるのではなく、神と格闘しつつ、隣人との真実な関係も創造されたイ

エスに倣って、私たちも神と隣人の前に生きていきたいと思います。