なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(54)

    「神を知ること」エレミヤ書22:10-19   2017年1月22日船越教会礼拝説教


・トランプアメリカ大統領の就任式が終わり、いよいよトランプがアメリカの大統領になりました。選挙

戦からの彼の差別的な言動が、彼の政治にどのように現れて来るのか。支持率も50%以下ですし、就任式に

は抗議デモもあったようですので、アメリカの市民の多くもトランプの大統領就任に不安を感じているよ

うです。アメリカだけでなく、アメリカ大統領の影響力を考えますと、他の世界の国々も彼がどのような

政策を実行するかを注視し、戦々恐々としているのであります。

・なぜトランプのアメリカ大統領就任にこのような大きな関心が寄せられるのか? それは彼が持つこと

になるアメリカ大統領という、現代の世界においては一、二を争う絶大な権力にあります。すでにトラン

プはTPPからアメリカは脱退すると宣言しています。TPPはアメリカが参加しないと、TPPそのものが成り立

たなくなります。国連の常任理事国の拒否権のようなものです。アメリカが保護主義的な自国主義になれ

ば、世界全体が同じように傾き、国民国家間の軋轢が再び高くなって、冷戦時代のような状況に後戻りし

ないとも限りません。

・その意味で、権力の座に誰が就くかということが、すべての人の生活に大きな影響を与えることになり

ます。古代においては王権が絶大な権力を持っていました。エレミヤの時代のユダの国でも、それは全く

同じでありました。エレミヤはヨシヤ王に対しては、特に初期のころはヨシヤ王の宗教改革に期待してい

ました。しかし、ヨシヤは、紀元前609年にメギドでのエジプト王ネコとの戦いで、戦死してしまいます。

先ほど司会者に読んでいただいた今日のエレミヤ書の箇所は、ヨシヤの死後にユダの国の王となった二人

の王に対する預言です。ヨシヤの死後、ユダの国は自主的にヨシヤの子どものエホアハズを王に立てます。

10節~12節に語られている王は、このエホアハズで通称シャルムと呼ばれていました。彼はわずか3か月

ほど支配しただけで、エジプトの王ネコによって捕えられ、エジプトに連れて行かれて、そこで死んでし

まいます(列王下23:31以下)。ネコはエホアハズに代えて、同じヨシヤの子どもであるエリヤキムをエ

ホヤキム(新共同訳ではヨヤキム)と改名させてユダの国の王に立てます。このエホヤキムは明らかに

エジプトの傀儡でした。13節~19節はこのエホヤキムついて語られているのです。

・先程エレミヤはヨシヤ王については期待していたと申し上げましたが、13節から19節のエジプトの傀儡

として立てられたエホヤキムについての預言の中にも、ヨシヤ王についての好意的に言葉が出てきます。

15節後半から16節前半にかけてですが、このように言われています。<あなたの父は、質素な生活をし/

正義と恵みの業を行ったではないか。/そのころ、彼には幸いがあった。/彼は貧しい人、乏しい人の訴

えを裁き/そのころ、人々は幸いであった。>と。エレミヤは、ヨシヤ王はイスラエルの民と神との契約

の道に従って、王として誠実に歩んだと言って、ヨシヤを評価しているのです。16節の後半には、<こう

することこそ/わたしを知ることではないか、と主は言われる>と言われています。つまり、ヨシヤは

「神を知っていた」というのです。その神のみ心に従って王として為すべきことをなしたと言うのです。

・それに反して、ヨシヤの子エホヤキムは、<災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を/正義を行わずに

高殿を建て/同胞をただで働かせ/賃金を払わない者は。>(13節)と言われ、また、<あなたの目も心

も不当な利益を追い求め/無実の人の血を流し、虐げと圧制を行っている。>(17節)言われています。

<それゆえ、ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキム(エホヤキム)について/主はこう言われる。/だれひとり、

「ああ、わたしの兄弟/ああ、わたしの姉妹」と言って彼の死体を悼み/「ああ、主よ、ああ陛下よ」と

言って、悼む者はない。/彼はろばを埋めるように埋められる。/引きずり出されて投げ捨てられる。/

エルサレムの門の外へ。」(18,19節)。何という厳しい言葉でしょうか。エレミヤの時代<ろばは、葬

られることなく、その死体が町の外にある皮剥ぎ場にあるいは野に棄てられ、腐敗し、腐肉を食う動物

の餌食となる>(ワイザー)と言われていますが、エホヤキムはその<ろばを埋めるように埋められる

>と言うのです。

・これらの王に対する批判的な預言を語っているエレミヤの信仰は、神に従うがゆえに、神のみ心に反す

る王には従うことができない、そのような王には「抗う信仰」ということができるでしょう。イエスもユ

ダヤの最高権力者大祭司やローマ皇帝の権力を体現している総督ピラトに抗って、十字架につけられて殺

されました。イエスにもエレミヤと同様に神のみ心に反する権力者には抗う信仰がありました。神への従

順である信仰は、神でないものには不従順を貫く抗う信仰なのです。このような信仰を私たちは継承して

いるでしょうか。

・ご存知のように残念ながら、戦時下のキリスト者も教会もほとんど抗う信仰は封印して、侵略戦争を遂

行した戦前の絶対主義的な天皇制国家の秩序の中でありました。敗戦後当時東京の信濃町教会の福田正俊

牧師は、1945年11月に「辞意表明」をしています。その「辞意の理由は、戦時中、講壇において、戦勝の

ために語ったことも祈ったこともないが、語るべきことを十分に語りえなかったことに対する責任を感じ、

講壇に立ちがたく思われたこと・・・」と述べています(『信濃町教会七十五年史』)。福田牧師は、戦

時下他の多くの牧師たちのように戦勝のために語ったり、祈ったりはしなかったが、「語るべきことを十

分に語り得なかった」ということは、イエスの福音において戦争に対して否を言えなかったということで

はないかと思います。この戦争に対して否を言う信仰は「抗う信仰」ではないでしょうか。それでもこの

福田正俊牧師のような方は、戦時下においてもまだ良心的な牧師だったのではないかと思われます。

・沖縄で宣教している村椿嘉信さんは、「日本のキリスト教は、一方に神に『従順』になるように教え、

他方において、教会(の伝統や制度、信仰理解)に、さらには家庭に、社会に、国家に『従順』になるこ

とを要求してきたのではないか。キリスト者は、日本という社会の中で、社会が要求する奉仕活動(ボラ

ンティア活動、社会福祉)を行うことがあっても、この世の秩序や価値観に『従順』であり続けているの

ではないか。その結果、主イエスの実践や教えから大きく逸脱し、みずからの実存的ならびに歴史的な罪

責を覆い隠し、自分の中にある『神から一人ひとりに与えられた独自なもの』を拒否し、自分とは違う

『異質なもの』に攻撃的になっているのではないか」と言っています(本のひろば、2017年2月号)。日

本のキリスト教、つまり私たちの中では、神への従順の信仰が、神のみ心に反するこの世の秩序や価値

観には抗う不従順の信仰を生み出すのではなく、それらにも従順な信仰になってしまっているのではな

いかと言うのです。

・また、同志社香里中学校・高等学校聖書科主任をしている富田正樹さんは、ご自身の教育現場で感じて

いることとして、このように述べています。「私は教育現場で普段仕事をしていますが、近年『従順で無

責任』な子どもが増えているという感触を得ています。命令や指示を与えれば従順に動きますが、責任は

指示を出した教師にあると思っており、命令や指示がなければ動かないのです。常に命令や指示を待って

おり、命令や指示を出さない教師は無責任で無能だと判断するのです。/恐ろしい世の中が既に始まって

います。この子どもたちは自分たちが権力によって不当な支配を受けた時、それに極めて従順に従い、ま

た命令が明確であればあるほど喜んで従うでしょう。自分で考え、自分の意見を言い、自分の判断で行動

するということができなくなってしまった子どもたちは、将来的に国家の食い物にされてしまいます。し

かも自ら進んで食い物にされていくのです」(同上)と。このような子どもたちの現実は、もちろん子ど

もたちだけのものではありません。大人が命令と指示に従う従順な社会をつくっているからこそ、子ども

たちもそうなっていくのです。

・これは教会においても同じではないでしょうか。船越教会は違うかもしれませんが、信徒と牧師が対等

な関係にあって、それぞれが聖書と現実の往還の中で「自分で考え、自分の意見を言い、自分の判断で行

動」しているでしょうか。信徒は指導性のある牧師を求め、その牧師の指導性に従順に従い、「自分で考

え、自分の意見を言い、自分の判断で行動」する責任的な生き方を放棄し、牧師にすべてをお任せする無

責任な生き方をしてはいないでしょうか。

・エレミヤは神に従う預言者として、神への従順を貫くがゆえに、神のみ心に背く王に対して従うことが

出来ませんでした。そしてただ従うことができなかっただけでなく、王を批判する預言を語ることによっ

て王に抗ったのです。それがエレミヤには、王に対する誠実で責任的な在り方であると思われたに違いあ

りません。

・エホヤキムに対するエレミヤの預言「災いだ、恵の業を行わず自分の宮殿を/正義を行わずに高殿を建

て/同胞をただで働かせ/賃金を払わない者は」(13節)を、安倍政権に当てはめて、「災いだ、恵の業

を行わず、福島の人々を見棄てて原発再稼働を、正義を行わず、米軍のために高江にヘリパットを、辺野

古に新基地建設を強行し、無駄な税金を浪費し、格差を拡大している者は」と言い換えることができるの

ではないでしょうか。

・今安倍政権という憲法改悪をめざし、個々人の命や人権を大切にして、一人一人に仕える政治ではなく、

国家絶対主義的な政治をしようとしていて、その政治的権力の横暴が顕著になりつつあるときに、私たち

に求められているのは、エレミヤやイエスの誤った権力者に抗う信仰をしっかりもって、この日本の現実

に立ち続けることではないでしょうか。なかなか厳しいですが、私たちの前を歩いてくださる主イエス

支えられて、この抗う信仰を持ちたいと願います。