なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(55)

   「追放」エレミヤ書22章20-30節、  2017年1月29日(日)船越教会礼拝説教


・前回エレミヤ書によって私たちは、預言者エレミヤが、神への従順を貫くことによって、神のみ心に逆

らう権力者である王に対しては抗う信仰の人であることを学びました。この「抗う信仰」は、現在の私た

ちが直面しています日本の状況を考えますと、私たちにとりましてもますます大切になっているように思

われます。「安保法制」(戦争法)が成立し、スーダン自衛隊が武器をもって派遣されていますが、或

る統計によれば、160数か国の世界の国の中で、スーダンはシリアに次いで終わりから2番目に平和から遠

い内戦状態になっている国と言われています。日本の自衛隊が武器をもって戦うことになる危険性が非常

に高いのであります。そうなりますと、日本の国が戦争に参加することになるわけです。そういう現実が

間近に迫っているのであります。

・一昨年安倍政権が新安保法制案を可決成立ましたその前後に行われた、国会前の抗議行動には、沢山の

方々が参加しました。それこそ老若男女、おそらくこのような抗議行動に初めて来たという方も多かった

のではないでしょうか。その時私も参加しましたが、国会周辺の地下鉄の駅から抗議する人たちが湧き出

してくるようなその情景を見て、すごいことが起きていると実感しました。しかし、同時にその抗議行動

を終えて、地下鉄に乗って、新宿で小田急に乗り換えて鶴巻まで帰るその途中では、全くいつもと変わら

ない日常の情景が繰り返されていて、あの国会前の抗議行動は何なのだろうかと思わされもしました。

・けれども権力が暴走すると、その影響は総ての人に及ぶのであります。私たちはその経験を、15年戦

争、太平洋戦争(第二次世界大戦)として、実際にその時代を生きた人でなくでも、歴史の事実として共

有しているのであります。実は現在「安保法制違憲訴訟」が各地で行われていますが、神奈川の「安保法

違憲訴訟」の第一回口頭弁論が26日午後に横浜地方裁判所で行われました。私もその原告の一人になっ

ていますので、その裁判に行きました。教会関係者の人も何人かいらしていましたが、ほとんどいろいろ

な所で運動をしている人のようでした。傍聴者が多く抽選が行われましたが、私は前日弁護士の方から原

告として法廷に入ることになっていると言われていましたので、指示されるまま法廷の傍聴席の一つに座

りました。この日の段階で原告が254名ですので、横浜地裁の一番大きな法廷でしたが、全部が入ること

は出来ません。幸運にも私は法廷に入ることができたのであります。第一回口頭弁論では、原告側の意見

陳述が行われました。まず弁護士の意見陳述があり、その後原告3人の意見陳述がありました。二人はか

つての戦争の悲惨さについてご自身の体験を語り、もう一人の方は安保法制により現実にどんな損害を横

須賀に住む原告が受けるかについて語り、安保法制の違憲性を司法が認め、憲法と司法で現政権の暴走を

止めてもらいたいと訴えました。

・実はこの原告意見陳述をした3人の内1人は私もよく知っている人でした。私が紅葉坂教会の牧師だった

時には、彼はキリスト者の社会的な活動には消極的でしたが、私の連れ合いが以前に国会前でお会いした

ときに聞いたところによれば、どなたかに日本近代史を学んでから、憲法護持の集会や安保法制反対の抗

議行動に行くようになったそうです。人は変わり得るものですね!。彼の原告意見陳述の一部を紹介しま

す。「・・・戦争は、必然的に国民に戦争協力の精神統一を求めます。戦争遂行に適しない宗教や思想は

強圧的に排除される、それが戦時下のホーリネス教会弾圧でありました。/政府官僚の思うままに強権を

振るわれ、身も心も自由を奪われ、その悔しさと無念さを経験した人たちは、戦後解放され、憲法と司法

に守られる生活が如何にありがたいのか、身にしみて感じたでありましょう。/子供ながら一億玉砕を漠

然と覚悟していた私も、戦後になって先生から聞いた、戦争放棄と自由を謳った憲法の話は、新鮮な空気

に生かされるような開放感に満ちたものでありました。/しかし、一昨年9月、政府は新安保法制案を可

決成立させ、武器使用を認められた自衛隊が、スーダンに出て行きました。/ここにきて、どう見ても憲

法9条に違反している法律がまかり通り、じわじわと憲法と司法がないがしろにされ、犯されて行くのに

息苦しさを覚えます。これは無念でありつらいことであります。/どうか憲法と司法が、この国の権力暴

走の防壁となり、私たちの権利を守るものとなってくれますよう祈りつつ、私は本訴訟の原告となりまし

た」と。

・さて、権力者である王の暴走に対してエレミヤは審判預言をもって対峙しました。このまま権力者であ

る王が暴走すれば、国も王自身もどうなってしまうのかを、その審判預言によって語っているので

す。

・22章20節から23節は、特定の王に対する批判ではありませんが、「イスラエルとユダを含めたダビデ

代の、(まだ南北に分裂していない)大イスラエルの滅亡を比喩的に歌っている」詩文(木田献一)であ

ります。ここで「『お前』と女性形で呼ばれているのは、大イスラエルを指してい」ます(同)。「レバ

ノンはフェニキアとの国境、バシャンはアラムとの国境、アバリムはモアブとの国境で」あります。「大

イスラエルを囲む国々をめぐって、叫び声をあげよと言って」います。イスラエルを支えてきた国々(愛

人たち)は皆、滅ぼされる」と。<お前はレバノンに登って叫び/バシャンで声をあげ/アバリムから叫

ぶがよい。/お前の愛人たちは皆、打ち破られる」(20節)。

・「イスラエルが栄えていた頃、(大イスラエルは)傲慢になって神の言葉に聞こうとしなかった。<お

前が栄えていたころ、わたしが何か言うと/お前は、「聞きたくない」と言った。/これがお前の若い時

からの態度であって。/お前はわたしの声に聞き従ったことはない>(21節)。しかし、今、王と国の指導

者たち(牧者たち)は、風に追われるように大国に蹴散らされ、近隣の国々も滅ほされている」(同)。

<お前の牧者たちは風に追われ/愛人たちは捕えられて行く。/そのときお前は自分のあらゆる悪のゆえ

に/恥を受け、卑しめられる>(22節)。「レバノンの頂のように高慢であったユダの王たち(6節)

は、今切り倒され」、「産婦の苦しみのような苦痛が襲うとき/お前はどんなに呻くことか」(23節)

と。以上の比喩的詩文は、具体的な特定の王を指して批判しいるのではありませんが、内容としては王を

批判する預言です。

・それに対して、24節以下の預言は具体的に「ヨヤキムの子コンヤ」に向けられた預言であります。「コ

ンヤ」とは「主が指名された」という意味で、コンヤとはヨヤキン(エホヤキン)のことです。前回にも

触れましたが、ヨヤキム(エホヤキム)はユダの国が自主的に立てた王ですが、エジプトによって3か月

で退けられて、エジプト王によってコンヤ=エホヤキンがユダの王に立てられます。エレミヤは最初この

エホヤキンに期待していたのかも知れません。28節で「この人、コンヤは砕け、卑しめられた器か。/誰

も惜しまない器か。/なぜ彼と彼の子孫は追放され/知らない国へ追いやられたのか」と言われていま

す。この言葉は、「コンヤが本来尊い器であると言っている」と理解できますから、最初エレミヤは神の

器として立てられたコンヤ=エホヤキンに期待しましたが、その後裏切られたという思いがあるのかも知

れません。そのことは24節からも想像できます。<「わたしは生きている」と主は言われる。「ユダの

王、ヨヤキム(エホヤキム)の子コンヤは、もはやわたしの右手の指輪ではない。わたしはあなたを指か

ら抜き取る>と言われています。「右手の指輪」と言われているのは、神が王に自分の権威を与えたこと

を意味します。コンヤは一度神の指にはめられた指輪だったわけです。神の権威を与えられた王でした

が、神が右手から指輪を抜き取ることによって、コンヤは神の権威を剥奪されてしまったというのです。

そして<わたしはあなたを、あなたの命をねらっている者の手、あなたが恐れている者の手、バビロンの

王ネブカドレツアルとカルデヤ人の手に渡す。わたしはあなたと、あなたを産んだ母を、生まれたところ

とは別の国に追放する。あなたはそこで死ぬ>(25-26節)。28節にも<なぜ彼と彼の子孫は追放され/

知らない国に追いやられるのか」と言われています。ここでの追放はバビロニア捕囚を意味します。

・コンヤはユダの国のエジプトの傀儡の王として、ユダの国をエジプトの支配下にある覇権主義的国家に

しようとしたのではないでしょうか。安倍政権が憲法9条から逸脱して、集団的自衛権行使容認の道を拓

き、安保法制を成立されて、戦争のできる国にして、アメリカとの同盟強化に邁進しているように、コン

ヤもエジプトにすり寄っていったに違いありせん。イスラエルの民、一人一人の命と生活を守るよりも、

覇権主義的な国家形成に邁進した。その結果追放されて、バビロニアに捕囚されてしまったのです。

・明治政府によって近代国家の歩みをはじめた日本は、富国強兵の道を邁進し、1945年の敗戦を経験し、

アジアをはじめ諸外国の人々の命と生活を踏みにじっただけでなく、日本の民衆の命と生活も奪いまし

た。先ほども紹介しましたが、安保法制違憲訴訟の原告の一人で私の知っている人が、その意見陳述でこ

のようにの述べていました。「戦争は、必然的に国民に戦争協力の精神統一を求めます。戦争遂行に適し

ない宗教や思想は強圧的に排除される、それが戦時下のホーリネス教会弾圧でありました。/政府官僚の

思うままに強権を振るわれ、身も心も自由を奪われ、その悔しさと無念さを経験した人たちは、戦後解放

され、憲法と司法に守られる生活が如何にありがたいのか、身にしみて感じたでありましょう」。戦後私

たちは焼け跡から立ち上がって、平和憲法、特に憲法9条の戦争放棄を大切に、二度と再び戦争をしては

ならないという思いで生きてきました。バビロニア捕囚の民も、ヤハウエ信仰に立ち返り、トーラー

(法)(ただ一人の神を神とし、隣人の命と財産をお互に奪わない)を大切に歩み出したのでしょう。

・この時、私たちも権力者の暴走に対して、エレミヤのように明確に批判すると共に、どこに立って他者

と共に生きていくのか、イエスによって開かれた神と他者である隣人との関係のあり方に基づいて、でき

ることをしていきたいと思います。政治的には憲法9条を文字通り実行していくことを求め続けたいと思

います。