なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(38)

    「欺く心によって」エレミヤ書14:13-16、2016年5月22日(日)船越教会礼拝説教


・今日は「欺く心によって」という説教題をつけました。先ほど司会者に読んでいただいた、エレミヤ書の14章

14節にある言葉です。

・<主はわたしに言われた。「預言者たちは私の名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしては

いない。彼らを任命してはいない。彼らの言葉を託したこともない。彼らは偽りの幻、むなしい呪術、欺く心に

よってお前たちに預言しているのだ>。

・これはエレミヤが偽預言者を批判している言葉です。浅野順一という人が書いた『真実―予言者エレミヤ』と

いう本があります。1958年(昭和33年)発行で創元社という出版社から出ています。私の手元にあるのは1969年

(昭和44年)発行の第7刷りですから、良く読まれた本だと思います。その本の帯にこういう言葉が記されていま

す。<「真実とは何か?(クエッションマークがある)」とあり、「・・・最も貴いものは真実であろう。本書

は、その真実を中心として、予言者エレミヤの人と信仰・思想を述べようとしたものである。/今から、2,600

年前、当時のイスラエル人に語りかけた予言者エレミヤの声は、今日、大規模な歴史的危機に直面したわれわ

れ現代人の胸奥に、神の言として、時に激しく、時に静かに鳴りひびくであろう。警告として、あるいは慰言

として、そのエレミヤの声を通して、著者は謙虚に、人の尊さはその真実にあることを説こうとするのである

>。真実に対して偽り、その偽りこそ偽預言者の語る言葉の本質であると、エレミヤは言っているのではない

かと思います。

・けれども、エレミヤの時代のイスラエルの人々と共に私たち自身も、ここちよく聞こえる偽りの言葉によっ

て、真実に蓋をしてしまうのではないでしょうか。古代イスラエル人にとって、最も恐ろしいことは戦争と飢

饉でありました。この二つが何と言っても古代イスラエル人の生存を脅かす最も大きな災難だったからです。

エレミヤの時代のイスラエル人にとっても、それは変わりませんでした。戦争と飢饉が起これば、人々は全

てを失ってしまうからです。

・偽預言者たちはイスラエルの人々に向かって、神がこのように語っていると預言しました。<お前たちは剣

を見ることはなく、飢饉がお前たちに臨むこともない。わたしは確かな平和を、このところでお前たちに与

える>(14:13)と。これはエレミヤが取り次いだ預言の言葉とは真逆の言葉です。

・エレミヤは14章11節、12節でこのように預言しています。<主はわたしに言われた。「この民のために祈り、

幸いを求めてはならない。彼らが断食をしても、わたしは彼らの叫びを聞かない。彼らが焼き尽くす献げ物や

穀物の献物をささげても、わたいは喜ばない。わたしは剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす」

>。

・エレミヤにとって真実とは、神の真実ですが、それはどのようなことだったのでしょうか。古代イスラエル

の人々が求めたのは既存の社会の中で幸福な生活をすることだったと思われます。そのために彼ら彼女らは断

食をし、祈り、犠牲を捧げて神を礼拝したのです。そういう意味では彼ら彼女らはまじめな生活者たちだった

に違いありません。しかし、彼ら彼女らは神と隣人である他者のことをどれだけ考えて生活していたでしょう

か。貧しい人々への施しは、乞われれば精一杯したかも知れません。けれども、神と契約を結んだ契約の民の

一員として、神を大切にし(愛し)、己のごとく隣人を大切にせよ(愛せ)という、かく生きよとの神の定め

である律法を守って生活していたのでしょか。エレミヤが、神殿から発見された律法の書によるヨシヤ王の宗

教改革を支持し、その改革運動に加わったのは、ヨシヤ王の宗教改革が、神の真実にふさわしくイスラエル

民が真実をもって歩むことをめざす運動に思えたからに違いありません。しかし、ヨシヤ王の宗教改革も、ヨ

シヤ王の突然の死によって挫折し、ユダの国は再び強国の支配の中で傀儡の王による異教化が進行していきま

した。その中でどうしてエレミヤは彼ら彼女らの幸せを祈ることができたでしょうか。エレミヤは、神の裁き

を預言せざるを得ませんでした。

・そういう状況において、偽預言者はエレミヤとは真逆な預言をイスラエルの民に語って<剣も飢饉もお前た

ちに臨むことはない。神はお前たちに確かな平和を与える>と言っているのです。エレミヤは、そういう偽

預言者とその偽預言者の言葉に聞き従うイスラエルの民に対して、神の預言としてこう語らざるを得ません

でした。偽預言者たちは神に遣わされてはいないのであって、<これらの預言者自身が剣と飢饉によって滅

びる。彼らが預言を聞かせている民は、飢饉と剣に遭い、葬る者もなくエルサレムの巷に投げ出される。彼ら

も、その妻、息子、娘もすべて。こうして、わたしは彼らの悪を、彼ら自身の上に注ぐ>(14:15、16)。

・エレミヤが批判した偽預言者は、何時の時代にもいるのではないでしょうか。私たちは3・11の東京電力

島第一原子力発電の事故で、「原発安全神話」が崩壊した経験をしました。原子力発電所が54基もこの狭い日

本に建設されているのは、「原発は安全だ」という思い込みによって大多数の人がだまされていたからです。

高木仁三郎(たかぎじんざぶろう)さんのような、相当早い時期から原発の危険性を訴え、脱原発の運動をし

てきた少数の例外的な人たちもいますが、そのような人たちの声は無視されてきたわけであります。同じよう

原発の危険性を指摘してきた小出裕章さんが、事故が起きた後、学者としてその責任を痛感しているという

発言をしていました。推進してきた側の学者の謝罪は殆ど聞きませんでしたので、小出さんの発言が大変印

象深く思われました。

・自然の恵みである化石燃料としての石油を輸入に頼っている日本は、経済成長のエネルギー源を原子力

求め、それによって生活の向上がもたらされ、みんなが幸せになるという偽りの幻想に乗ってしまった結果

の事故です。幻想の結果としての原発事故被害を、何より事故が起きた原発のあった福島の人々が、そして

また私たちすべてが負わなければなりません。偽預言者の言葉を聞いているイスラエルの民と同じように。

<彼らが預言を聞かせている民は、飢饉と剣に遭い、葬る者もなくエルサレムの巷に投げ出される。彼らも、

その妻、息子、娘もすべて。こうして、わたしは彼らの悪を、彼ら自身の上に注ぐ>。原発安全神話を人

々に吹聴した学者たちは、ある意味で偽預言者に等しいと言えるのではないでしょうか。真実を偽ることに

よって、資本と権力を巻き込んでその彼らの悪を全ての人々、特に福島の人々に負わせてしまったのです。

精神分析医のアルノ・グリューンという人は、<17世紀のイギリスの詩人エドワード・ヤングの言葉を借

りて、「私たちは、オリジナルとして誕生するのに、なぜ、コピーとして生涯を終わらせるのか」と訴えて

います。私たちは、成長とともに、社会のさまざまな枠組や権力に隷属することを学ぶようになります。

/グリューンによれば、「人生」は「食うか食われるかの闘争」であるという考えは、人間が作りあげた

偏見(偽りの真理)にほかならなりません。しかし争いや競争によって成り立っている私たちの社会は、そ

の考えを肯定し、私たちは子どもに、競争に勝つことの大切さと、そのための方法を教え込むのです。/人

間の文明は、実際は、人間の協力関係によって成立したものであり、共感しつつ平等な協力関係を築くとき

に、私たちは、孤立することなく、またストレスを感じることなく、平和な日々を歩むことができます。し

かし誤った考え(偽りの真理)によって成り立つ競争社会の中で、ますます孤立し、日常的に競争し合い、

常にストレスにさらされているのが、私たちの現状です。/グリューンは、この「隷属化」や「孤立化」か

らまぬがれ、「共感すること」を再学習し、他者と協力しながら生きるために、「反抗すること」と「創造

すること」を勧めます。/私たちは、日常生活の中で、争いや競争を私たちに強いるさまざまな力に「反抗」

することなしに、自分を取り戻し、他者と「共感」することはできません。/しかし権力者に「反抗」さえ

すればいいということではあありません。争いや競争を強いる力に屈することなく、自分を取り戻し、他者

と「共感」しながら生きるために、「創造力」が必要です。この社会のさまざまな権力者が、私たちに用意

している「道」の上に隷属的に走ることをやめ、孤立することなく、協力し合って歩むために、私たちは

「共感する力」と「創造する力」を働かせなければならないのです>(村椿嘉信「Kyomei〔共鳴・響命〕」

81号より)。

・エレミヤは、偽りの預言者を批判し、神の真実を語り続けた預言者です。神との契約に立ち返り、契約の民

として、この世の権力に隷属するのではなく神を大切にし、他者を大切にして共に生きる道を示す律法に従っ

て、かく生きよと語り続けました。それはグリューンが言うところの、「共感する力」と「創造する力」を大

切にして、神を信じて生きよというメッセージと言えるでしょう。

・私たちもまた、今も、欺きの心によって、争いや競争を強いるさまざまな力に隷属して生きることを語る偽

預言者の言葉に惑わされることなく、エレミヤの語る真実を実際にこの世にあって生きられたイエスに支えら

れて、争いや競争を強いる力に屈することなく、自分を取り戻し、創造力をもって他者と共感しながら生きて

いきたいと、心から願う者です。