なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(12)

    「そのとですら」エレミヤ書5:15-19、2015年7月26日(日)船越教会礼拝説教

・前回扱いましたエレミヤ書5章1節から14節までのエレミヤの預言の最後の所に、神の審きを告げる預言

者の言葉に対してさえ、イスラエルの民はこのように言う、と記されていました。それは、<「主は何も

なさらない。/我々に災いが臨むはずがない。/剣も飢饉も起こりはしない。/預言者の言葉はむなしく

なる。/『このようなことが起こる』と言っても/実現はしない>と。

預言者の言葉に対して、イスラエルの民は自らの振舞を振り返って、真剣に耳を傾けるのではなく、全

然聞こうとしないどころか、見くびっているのです。頑なで、自らの過ちを認めずに、悔い改めを拒絶し

て、自らの正当性を主張してはばからない、そのようなイスラエルの民を前にして、エレミヤは、自分が

預言者として立てられたことをどのように思ったのでしょうか。

・もし預言者の語る言葉が、人々を悔い改ためさせて、歴史を切り開いていく力を全くもたないならば、そ

のような空しい言葉を語り続けることに、預言者は絶えられるのでしょうか。もしそういうことであるとす

れば、預言者は、力のない言葉を、あたかも力があるかのように神の言葉だと言って語るピエロのような存

在に、人々から見られることになるのではないでしょうか。エレミヤは預言者面をしているが、彼の語る

預言には何の力もない。いい気なもんだ、と、人々から揶揄されるのが落ちです。

・エレミヤは制度の中に組み込まれた職業預言者とは違います。アナトトの祭司の息子であったエレミヤ

に、ヨシヤの治世の13年、すなわち紀元前627年に、<主の言葉が彼に臨んだ>(エレ1:2)ので、預言者

として活動を始めたのです。<主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。/「見よ、

わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。/見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対する権威

をゆだねる。/抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいいは建て、植えるために>(1:9,10)と、エレミヤ

の召命の記事で語られている通りです。

・私は、自分としては召命を受けて、日本基督教団の牧師として、毎日曜日神の言葉である説教を語る、

ある種の職業預言者として生きてきた者です。エレミヤのように、<主の言葉が彼に臨んだ>と言われる

ような体験はありません。ただ聖書の解き明かしである説教を語るために、聖書からメッセージを聞き出

そうと永年努力してきて、これがメッセージとしての神の言葉ではないかと思い、神の言葉を取り次いで

いるという自覚をもってやってきております。そのような私を教会が招聘してくださっているので、神の

言葉の説教を語ることが出来ているわけです。

・しかし、エレミヤはそうではありません。彼は制度によって受け入れられた預言者ではありません。彼

の預言に力がなければ、彼は預言者として立ち続けていくことが難しいのです。<「主は何もなさらない。

/我々に災いが臨むはずがない。/剣も飢饉も起こりはしない。/預言者の言葉はむなしくなる。/『こ

のようなことが起こる』と言っても/実現はしない>(5:12,13)というイスラエルの民に対して、神はご自

分の言葉をエレミヤに託されます。<それゆえ、万軍の主なる神はこう言われる。/「彼らがこのような

言葉を口にするからには/見よ、わたしはわたしの言葉を/あなたの口に授ける。それは火となり/この

民を薪(たきぎ)とし、それを焼き尽くす>(14節)。

・今日のエレミヤ書の箇所は、それを受けて、「北からの災い」についての断片的な預言が語られている

のであります。既に「北からの災い」については、4章5節から31節に記されていました。今日の15節、

16節の預言も、この「北からの災い」の預言に属するもので、その断片と考えられています。

・15節aに「見よ、わたしは遠くから一つの国を/お前たちの上に襲いかからせる」と言われています。こ

こに「一つの国」とありますが、15節の後半では、「それは絶えることのない国、古くからの国/その言葉

は理解し難く/その言うことは聞き取れない」と言われていますので、イスラエルの民にとっては、同じセ

ム語を語るアッシリアバビロニアとは違う、異質な国の人々からの脅威と考えられます。ここには「遠く

から一つの国」と言われているだけで、名前は明らかにされていません。騎馬民族であるスキタイ人である

と考えられています。「絶えることのない国」とは、その勢力が決して衰えないという程の意味です。古代

近東世界に北方から突如として現れましたが、決して新しい国ではなく、古くからの民族であります。そし

て<その言葉は理解し難く、その言うことは聞き取れない>というのです。

・彼らは、収穫も食料も、羊、牛、ぶどう、いちじくなども略奪します。息子、娘を殺害し、砦の町々を破

壊します。騎馬民族の活動は、定住の民族にとっては、まことに得体の知れない恐ろしいものでありました。

アッシリアやバビロンやエジプトのような)覇権的な帝国の攻撃も、当然恐怖の対象ではありますが、そ

の場合は対象が明確です。ところが、騎馬民族スキタイ人の襲来は違います。突然、襲いかかる敵は、世

界の秩序そのものの破壊を予感させ、終末的な恐怖に導くのであります」(木田、新共同訳聖書註解、

410頁)。

・18節、19節は、散文で書かれていて、エレミヤのものではないと思われます。18節は、エルサレムが陥落

してもユダヤ人の全部が滅びたのではないことを明らかにした、後の加筆と考えられます。19節も、エレミ

ヤの言葉ではないとしても、約束の地にあって外国の神々に仕えた民は、今や外国の地に囚え移されて、外

国人に仕えるに至ったのは当然だ、というのです。関根正雄さんは、「罪はその中に自己の処罰を含むとい

うことが歴史の又人生の厳粛な事実である」と言っています。

・おそらくこの18節、19節には、南ユダがバビロニアに滅ぼされ、主だったユダヤ人がバビロニアに捕囚と

なって連れて行かれた後の時代の捕囚時代のことが反映されているのではないかと思われます。エレミヤの

預言で語られた騎馬民族スキタイ人の来襲は、実際にはなかったようで、紀元前598年と587年のバビロ

ニアの捕囚によって、エレミヤの預言が現実となったのです。

預言者エレミヤは、何が何でも南王国ユダを守ろうとはしませんでした。また、エレミヤに与えられた

神の言葉にも、国としての南ユダをなにがなんでも守るというメッセージはありませんでした。エレミヤ

にとっても、また彼が与えられた神の言葉にも、国を守るというよりも、神ヤハウエの契約の民としての、

イスラエルの民の一人一人の命と生活を守りたかったのではないでしょうか。一人の神の下にあって、上

も下もなく、対等同等な一人一人が、神を崇め、かく生きよという、私たちが生きていく命の道である、

神の定めとしての掟、神を愛し、隣人を自分のように愛する、そのような共同体としてこの世を生き抜く

こと、契約の民であるイスラエルの民がめざすべき道は、それ以外にはない、そういう確信をもって、エ

レミヤは預言者としての活動を続けたのではないでしょうか。

・エレミヤは、ヨシヤ王の宗教改革に、一時期待をかけたとおもわれますが、それはヨシヤ王がエルサレ

ム神殿で発見された律法の書によって宗教改革を行い、イスラエル本来のヤハウエ信仰による契約の民と

してイスラエルの民を導いていくと思ったからです。けれども、ヨシヤ王の宗教改革は、地方聖所の廃止

による、エルサレムを中心にした外面的な礼拝改革に留まって、人々の心まで神ヤハウエへの信仰に立ち

帰らせるものではないということが分かって、エレミヤはヨシヤ王の宗教改革に失望していきます。その

頃、ヨシヤ王はエジプトとの戦いで戦死してしまい、ヨシヤ王の宗教改革そのものが、そこで頓挫してし

まったのです。

・そのようなことからしますと、エレミヤがその預言をもってめざしたのは、契約共同体としてのイスラ

エルの民の再建ということになります。エレミヤの時代、北イスラエルは既にアッシリヤによって国とし

ては滅ぼされていましたが、エレミヤの初期の預言はその北イスラエルの人々に語りかけたものです。で

すから、北イスラエル、南ユダという国家を超えて、エレミヤは神ヤハウエとの契約の民であるイスラエ

ルの人々一人一人に語りかけたのです。

・そのようなエレミヤの預言にふさわしく、現代にあって私たちがめざすべきは何でしょうか。先週の説

教でも触れ、今日の週報の船越通信にも書いておきましたが、今回教団常議員会から送られて来た「戦後

70年にあたって平和を求める祈り」がめざす教会は、祈りの教会、共同体です。その共同体としての教会

は、具体的な政治的社会的行動にまでは踏み込みません。

・教会は新しいイスラエルと言われる場合があります。教会という共同体が、旧約聖書の民イスラエル

課題を継承しているからです。もしそのような神の下にあって、対等同等な一人一人が一つとなって、平

和と和解を造り出す共同体としての教会をめざすとするならば、平和のために祈るだけではなく、祈りつ

つ、福島の人々や沖縄の人々の痛みと重荷を共に担う、具体的な行動に踏み出していくのではないでしょ

うか。国家や民族の枠を超えて、人が神によって与えられた命と生活が脅かされているとするならば、そ

のような人々の痛みと重荷を共にすることこそが、教会という共同体がめざすべき道ではないでしょうか。

その意味で、私たちは国や民族の枠を超えて、平和と人権を大切にする人々と連帯していくことをめざす

べきなのではないでしょうか。もしそうであるならば、今安倍政権がめざしている、中国の脅威を挙げて、

集団的自衛権の行使を容認し、アメリカとの軍事同盟を強化し、アメリカと共に戦争のできる国造りは、

私たちには相容れない道であるに違いありません。国家にからめとられることなく、人と人とが命を絆に

むすびついていく道を求めていきたいと思います。

・エレミヤの預言を読み、エレミヤがめざしたものを想像して、そのような思いにさせられました。 

祈ります。