なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(18)

    「むなしい言葉に依り頼ます」エレミヤ書7:1-15、2015年10月4日船越教会礼拝説教

・先程司会者に読んでいただいたエレミヤ書7章1-15節には、エレミヤがエルサレム神殿で行った預言が記

されています。この預言については、エレミヤ自身が詳しい報告を書いています。26章1-19節です。26章1節

によりますと、神殿でこのエレミヤの預言が語られたのは、<ヨヤキムの治世の初め>(26:1)と言われて

います。この<ヨヤキムの治世の初め>と言われている時は、南ユダ王国にとってどんな状況であったので

しょうか。まずそのことを確認しておきたいと思います。

エレミヤ書1章から6章までのエレミヤの預言は、ヨシヤ王の時代のものでした。前にも触れましたが、ヨ

シヤ王は紀元前の628年にエルサレム神殿の修理中に発見された律法の書に基づいて、宗教改革を断行しまし

た。ヨシヤ王の宗教改革で一番大きなことは、神を礼拝する場所を、それまでは地方聖所と言って、分散し

ていくつかあったのですが、その地方聖所を廃止して、エルサレム神殿だけにしたことです。エレミヤ自身

がアナトトの地方聖所の祭司の息子でしたが、エレミヤは、地方聖所を廃止するヨシヤ王の改革を支持し、

その改革運動に参加していました。そのヨシヤ王が紀元前609年に、エジプトとのメギドの戦いで戦死してし

まいました。ヨシヤの後を継いだのはヨアハズですが、ヨアハズはエジプト王ネコによって廃位させられて、

ヨヤキムがエジプトの傀儡による王となります。その<ヨヤキムの治世の初め>に、エレミヤはエルサレム

神殿の門に立って、<主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない>

(4節)と、エルサレム神殿にお参りに来る人々に語りかけたというのです。

・ヨシヤ王は、生前、新バビロン政策をとっていましたが、ヨヤキムはエジプト王によって王位につけられ

ましたので、南王国ユダとしての外交政策を新バビロン寄りからエジプト寄りに方向転換せざるをえません

でした。また、当然ヨシヤ王によってはじまった宗教改革の運動も、ヨシヤ王が死んでしまったので、行き

詰らざるを得ませんでした。ヨシヤ王の突然の戦死という大事件によって、南王国ユダの人々は大変厳し状

況に巻き込まれていたのです。その厳しい出来事が相次いで起こった年が終わり、年が明けて新年になると、

ヨシヤ王の時代に南王国ユダの唯一の聖所とされたエルサレムの神殿には、多くの人が集まってきました。

新しい年に神の祝福と護りを求めるためです。それはちょうど毎年、新年のはじめに私たちの国のどこでで

もみられる「初詣」を思わせる光景とみてよいでしょう。人々は自分たちがどのような生き方をしているか、

自らを問うことをしないで、神からの御利益をひたすら求めて、神殿に集まってきたのでしょう。

・そのような人々に向かって、エレミヤはエルサレム神殿の門に立って、<主の神殿、主の神殿、主の神殿

という、むなしい言葉に依り頼んではならない>(4節)と、語りかけたというのです。「主の神殿、主の

神殿、主の神殿」と三回繰り返されているのは、人々の熱狂的な気持ちを表すだけでなく、呪文を唱えてい

るように、神殿が呪術的に用いられていることを暗示していると言われています(関根、旧註解、72-73頁)

。ヨシヤ王の宗教改革によって中央集権化されたエルサレム神殿への人々の迷信的な信頼が増していたので

しょう。エレミヤは、「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」

(4節)という言葉の前に、このように人々に語っています。<主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユ

ダの人々よ。皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。

そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる>(2~3節)。エレミヤにとって、エルサレム神殿は神が

その名を置き給う神の家でしたが、神はその神殿からも自由な方でありました。イスラエルの民はその神殿

からも自由な神の契約の民であり、その契約の民として当然守らなければならなかったのは律法なのです。

・ですから、<この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡

婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自らに災いを招いてはならない>(5~6節)

と言われているのです。けれども、イスラエルの民は、このエレミヤの言葉とは全く反対の生き方をしていた

のです。<盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いな

がら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、「救われた」と言うのか>(9~10節)

と言われているようにです。「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い」と言われていますが、これは明らかに十

戒の後半の戒めです。エレミヤは、イスラエルの民が律法を少しも守らず、そのことはイスラエルの民が神

を真に神とせずに、神でない神々に従いながら、エルサレム神殿を自分たちの避所として、ここにくれば大

丈夫だと考えていると言うのです。そのようなことは偽りであると、エレミヤは繰り返し語らざるを得ませ

んでした。<神殿に避所を求めることは平気で悪いことを繰り返すための手段となっているのではないか。

「泥棒の巣」とは泥棒が悪事を働いてから身の安全の為に隠れる場所であり、エレミヤの神はわが名を以っ

て称えられるこの神殿がそのような悪人の逃れ場になっていると言われる」(関根、旧註解73頁)というの

であります。

・12節から15節には地方聖所であったツロの神殿がかつて破壊されたように、イスラエルの民が神の言葉に

従わず、その呼びかけに答えないならば、エルサレム神殿も破壊されると、エレミヤはエルサレム神殿の破

壊を予言しているのであります。エレミヤは神殿を「泥棒の巣」と言っただけではなく、その破壊も預言し

ました。その結果、エレミヤは迫害を受けました。そのエレミヤの迫害については26章に記されていますの

で、いずれ触れることになるかと思います。

エルサレム神殿を「泥棒の巣」と言い、神殿破壊を預言したエレミヤですが、私たちは福音書によってイ

エスご自身が同じことをしていることを知っています。イエスは神殿から商人を追い出すパフォーマンスを

したと言われています(マタイ21:12-17,マルコ11:15-19、ルカ19:45-48、ヨハネ2:13-22)。<イエスは神殿

の境内に入り、そこで売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり

返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった>(マルコ11:15,16)と記されていま

す。そのところで、このエレミヤ書を引用してエルサレム神殿を「強盗の巣」と言っているのです。<そし

て、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家

と呼ばれるべきである』。ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった」。>(マルコ11:17)

と。またイエスは神殿破壊の予告もしています(マタイ24:1-2,マルコ13:1-2、ルカ21:5-6)。<イエスが神

殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんと

すばらしい建物でしょう」。イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石ころもこ

こで崩されずに他の石の上に残ることはない」。>(マルコ13:1-2)と。

・エレミヤがそのために迫害を受けたように、イエスもこのことが十字架に架けられる一つの相当大きな理

由になったと考えられます。

・関根正雄さんは、<我々に神殿はない。然し我々の信仰が救われるための単なる手段となり、唯信仰、信

仰、信仰とお題目のように唱えるだけであるならば、それは偽りの言とならないとも限らない。十字架の信

仰は我ら罪人の隠れがである。然し我々が十字架の蔭にかくれ、そこに唯あぐらをかいて了うならば我々は

十字架自身を神殿とし、泥棒の巣をなすものではないであろうか。エレミヤがここで語っていることは我々

自身の問題である>(旧註解74頁)と言っています。十字架の贖罪を錦の御旗のようにかかげて、すべての

問いを封じるキリスト者のあり方は、関根正雄さんが言われているように、まさに「十字架自身を神殿にし、

泥棒の巣」としていることなのではないでしょうか。

・神殿、特にエルサレム神殿は、壮麗な建物によって偉容を放っていました。巡礼の旅人が遠くからエルサ

レム神殿を見た時、黄金の輝きを放っていたと言われるくらいですから、それは見事な建物であったと思わ

れます。神社仏閣にしても、同じような偉容を放っているものも少なくありません。神は生きて働く方です

から、神殿に縛られて、神殿の中にだけ留められる方ではありません。そこで祭儀を通して神と出会う所で

はあっても、神はそこからも自由な方です。<エレミヤにとって、主(神)は正義の神であると共に、正義

のゆえに自由を保持される神であります。ナショナルな関心のゆえに、神の自由を制限することは初めから

問題になりません。真の宗教にとって、神の前における真摯な態度、神を畏れ敬うことが根本の前提です>

(木田献一、新共同訳415頁)。

エルサレム神殿での礼拝にしろ、私たちのこのような教会における礼拝にしろ、この礼拝による救いとは、

パウロがローマの信徒への手紙12章の初めに書いてあることに尽きるのではないでしょうか。<こういうわ

けで、兄弟たち、神の憐みによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ

として献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。

むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、ま

た完全なことであるかをわきまえるようになりなさい>。

・とすれば、エレミヤの時代のイスラエルの民がエルサレム神殿に詣でるのは、偽りの安心を得るためでは

ありませんでした。神に召された民として、神の御心が何であるかを聞き取り、神の喜び給う道を生きるこ

とだったのではないでしょうか。それは現在の私たちが、原発、戦争、格差による貧困が押し寄せる中で、

同じように神の御心を問い、神の喜び給う道は何かを、真剣に祈り求めつつ、他者と共に生きていくことで

はないでしょうか。そのような活ける神との出会いをこの礼拝ですることができればと、切に願う次第です。