なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(65)

    「敵対的預言」エレミヤ書26:1-10、2017年5月21日(日)礼拝説教

・私はまだ読んでいないのですが、「本のひろば」というキリスト教図書紹介の冊子6月号に、イギリス

人のようですが、フェイス・バウアーと言う人が書いた『知的障碍者と教会~驚きを与える友人たち~』

という本が翻訳されて、その書評を関田寛雄先生が書いています。

・関田先生の書評の最後のところに、こう記されていました。<巻末の「解説」における加藤英治氏の本

書の紹介、並びにその後の英国の状況と共に述べられている「日本社会および教会」における「キリスト

にある有効な『対抗文化』の創造への提言(249頁)は、全キリスト教会が聴くべき貴重な言葉である>

と。

・この加藤英治さんの提言については、いずれこの本を読んだ上でみなさんに紹介したいと思いますが、

今日は「キリストにある有効な『対抗文化』」と言われていることに注目したいと思います。「対抗文

化」とは、既存の、あるいは主流の体制的な文化に対抗する文化(対抗文化)という意味である。1960年

代後半〜70年代前半にかけてよく使われた。 狭義にはヒッピー文化や、1969年のウッドストックに代表

されるような当時のロック音楽を差すものである」と言われています。

・1969年に私は神学校を出て牧師になりましたので、1960年代後半から1970年代前半の時代のことは記憶

にあります。ヒッピー文化については多少知っています。しかし、音楽には疎かったので、「ウッドス

トックに代表されるロック音楽」については全く知りません。皆さんの中には知っている方もおられるの

ではないかと思います。

・対抗文化とは、「既存の、あるいは主流の体制的な文化に対抗する文化」ということですが、預言者

レミヤが語った預言も、ある意味で対抗文化に属するものであると言えるのではないかと思います。今日

の説教題は「敵対的預言」とつけましたが、「敵対的」とは、「既存の、あるいは主流の体制的な」社会

秩序の中で安住している人々にとって「敵対的」という意味でありす。

・今日のエレミヤ書の箇所に記されていますエレミヤの預言は、《ヨシヤの子ヨヤキムの治世の初め》、

すなわち紀元前「609年の秋から608年の春の間」と考えられていますが、その時にエレミヤがエルサレム

神殿の庭で、エルサレム神殿に礼拝に来た多くのユダヤ人に向かって語ったものです。

・1節から6節までを、もう一度読んでみたいと思います。

《ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の初めに、主からこの言葉がエレミヤに臨んだ。/「主はこう言

われる。主の神殿の庭に立って語れ。ユダの町々から礼拝のために主の神殿に来るすべての者に向かって

語るように、わたしが命じるこれらの言葉をすべて語れ。ひと言も減らしてはならない。彼らが聞いて、

それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの悪のゆえにくだそうと考えてい

る災いを思い直す。彼らに向かって言え。主はこう言われる。もし、お前たちがわたしに聞き従わず、わ

たしが与えた律法に従って歩まず、倦むことなく遣わしたわたしの僕である預言者たちの言葉に聞き従わ

ないならば ―お前たちは聞き従わなかったが― わたしはこの神殿をシロのようにし、この都を地上の

すべての国々の呪いの的とする。」》 

・<「シロ」は、ペリシテに打ち負かされて神の箱を奪われた昔の聖所(サム上1-4章)(です)。たと

え神に選ばれた聖なる場所でも、神の裁きによって破壊されることもあり得るという例としてシロが引き

合いに出されている>(木田献一)のであります。

・エレミヤの預言は、神殿に礼拝に来た人々に悔い改め、方向転換を迫るものでした。エレミヤの預言を

聞いて、立ち帰って、彼ら・彼女らが、神がかく生きよと、その道を示してくださった律法に従って歩む

ならば、彼ら・彼女らの悪の故に災いを下そうとしたことを神は思い直すというのです。しかし、彼ら・

彼女らが、悔い改めて神に立ち返ることなく、その悪の道に邁進するなら、エルサレム神殿も昔の聖所シ

ロと同じように破壊され、エルサレムの都も、破壊されて人の住むところではなくなり、地上のすべての

国々の呪いの的になるというのでありす。

・この神殿の庭でのエレミヤの預言は、福音書のイエスの神殿崩壊の予告とつながるように思えます。

《イエスは神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんというす

ばらしい石、なんと素晴らしい建物でしょう」。イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているの

か。一つの石ころでも崩されずに他の石の上に残ることはない」。》(マルコ13:1,2)と。また、宮清め

と言われる、神殿の境内で売り買いしている人々を追い払い、両替人の台や鳩を売る者の腰掛をひっくり

返し、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかったという、イエスのパフォーマンスの後、イエス

は人々に教えてこう言われたというのです。《「こう書いてあるではないか。/『わたしの家は、すべて

の国の人々の/祈りの家と呼ばれるべきである』。/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてし

まった」。》(マルコ11:17)と。

・神の家であり、祈りの家であるべき神殿で、律法を守ることも預言者の言葉に聞き従うこともしない

で、悪の道から立ち返ることもない人々が、礼拝という祭儀だけは行って、それで自分たちは間違ってい

ない、神の民なのだと自認して帰っていくのです。そんな神殿は崩壊して当然だと、エレミヤもイエス

語ったのです。その神殿というイスラエルの民にとっては既存の文化、その信仰の中心的な施設を、二人

は真っ向から批判しました。預言者ホセアもこのように語っています。《わたしが喜ぶのは/愛であって

いけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない》(6:6)と。また、預言者ミカ

もこのように語っています。《何をもって、わたしは主の御前に出で/いと高き神にぬかずくべきか。/

焼き尽くす献げ物として/当歳の子牛をもって御前に出るべきか。/主は喜ばれるだろうか/幾千の雄

牛、幾万の油の流れを。/わが咎を償うために長子を/自分の罪のために胎の実をささげるべきか。/人

よ、何が善であり/主が何をお前に求めておらるのかは/お前に告げられている。/正義を行い、慈しみ

を愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである》(6:6-8)と。

・エレミヤもイエスも、その言葉と行動において、「既存の、あるいは主流の体制的な文化に対抗する文

化」を創造しようとしているのではないでしょうか。それは「神の国の文化」とでも言える、この社会の

主流の体制的な文化を否定して、新しい「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」人々

の文化と言ったらよいでしょうか。寿の「炊き出し」には、そのような神の国の文化の臭いが濃厚に漂っ

ているように、私には思われます。逆に既成の教会は、この社会の主流の体制的な文化に取り込まれてい

るように思えてなりません。エレミヤが批判し、イエスが批判したエルサレム神殿のように、私たちの教

会がなっているとするならば、私たちの教会は破壊されてしかるべきものということになります。

・エレミヤが神殿を批判する預言をすると、それを聞いていた人々である《祭司と預言者たちと民のすべ

ては、彼を捕えて言いました。「あなたは死刑に処せられねばならない。なぜ、あなたは主の名によって

預言し、『この神殿はシロのようになり、この都は荒れ果てて、住む者もなくなる』と言ったのか」と。

すべての民は主の神殿でエレミヤのまわりに集まった。ユダの高官たちはこれらの言葉を聞き、王の宮殿

から主の神殿に上って来て、主の神殿の新しい門の前で裁きの座に着いた》(26:8-10)というのです。つ

まりエレミヤは、その語った預言の故に裁判にかけられたのです。

・このこともイエスとエレミヤの共通していることです。イエスも、おそらく神殿批判が決定的なきっか

けになって、大祭司らユダヤの支配層によって逮捕され、審問を受け、ローマ総督ピラトに引き渡され

て、十字架にかけられて殺されたのです。

・「既存の、あるいは主流の体制的な文化に対抗する(「神の国の」)文化」を創造しようとする時に

は、必ず既存の、あるいは主流の体制的な文化によって生きている人々から抵抗を受けます。しかし、エ

レミヤもイエスも、抵抗を受けたからと言って、語るべき言葉も、なすべき行動も止めはしませんでし

た。その抵抗をできるだけ避けるための知恵は必要でしょうが、預言者としての自分に託された言葉は、

《わたしの命じる言葉はすべて語れ。ひと言も減らしてはならない》(26:2)と言われているように、エ

レミヤはすべて語ったのです。自分を守るために語らなかったということは、エレミヤ書を読む限りあり

ません。

・イエスは十字架を前にしてゲッセマネで、《アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯

をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますよ

うに》(マルコ14:36)」と祈ったというのです。

・19日に衆議院法務委員会で「共謀罪」が強行採決されて、政府・与党は23日の衆議院本会議での法案通

過を強行しようとしています。「共謀罪」が成立しますと、今日私たちがエレミヤ書から学びましたよう

に、その言葉と行動において、「既存の、あるいは主流の体制的な文化に対抗する(「神の国」の)文

化」を創造しようというエレミヤやイエスに倣って、私たちがこの日本の社会の中でそのイエスの福音を

宣べ伝えていくならば、裁判の場に引き出されることも十分あり得るということです。命をかけなけれ

ば、信仰を貫けなくなる時代が間近に迫っているのかも知れません。再び私たちの教会が「戦責告白」を

出すようなことにならないためにも、エレミヤとイエスに倣って生きていきたいと願います。1967年イー

スターに鈴木正久教団総会議長名で出された「戦責告白」の最後のところに、こういう文章があります。

終戦」とか「祖国」という言葉には違和感を覚えますが、紹介させてもらいます。

・《終戦から20年余を経過し、わたしどもの愛する祖国は、今日多くの問題をはらむ世界の中にあって、

ふたたび憂慮すべき方向にむかっていることを恐れます。この時点においてわたしどもは、教団がふたた

びそのあやまちをくり返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように、

主の助けと導きを祈り求めつつ、明日にむかっての決意を表明するものであります》。

・この「戦責告白」を出した教団の一員として、現在のこの日本と世界の現状において、イエスを信じる

キリスト者として立ち続けて行きたいと切に願います。

・主が聖霊を送って導いてくださいますように!