なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(133)

  「ただあなたの命だけは」エレミヤ書45:1-5、2018年12月16日(日)船越教会礼拝説教


・いよいよ今年もクリスマスがやってきました。先日皆さんの寄せ書きを添えて、お世話になった方々に

船越教会からクリスマスカードを出しました。関田先生から、そのお礼の手紙をいただきました。その先

生のお手紙の全文は、皆さんへのお礼でもありますので、船越通信に掲載しておきました。先生は、その

お手紙の中で、私の連れ合い、千賀の病のことにもふれてくださり、「クリスマスが近づきましたが、千

賀様の御容態が気になって、単純にクリスマスを祝う思いになれません」と書いて下さり、「今年のクリ

スマスは馬槽の幼な子の誕生よりも十字架に苦しみたもうイエスを思うべきクリスマスであると思いま

す」と書いておられました。この先生の想いは、特に12月14日に辺野古の海に土砂投入を開始した、沖縄

の民意を踏みにじる政府・防衛省の暴挙を考える時に、心から共感せずにはおれません。沖縄の人々に寄

り添い、沖縄の負担軽減を口にしながら、辺野古新基地建設反対を表明した玉城デニーさんを県知事に選

んだ沖縄の人々の民意を全く無視して、辺野古の海に土砂投入を強行する安倍政権の野蛮な行動は、もは

や人の道を外れているとしか思えません。


・私は最近少しづつ日本基督教団と沖縄キリスト教団の「合同のとらえなおしと実質化」の問題につい

て、必要があって資料を読んでいます。1993年6月に沖縄で開催されました「日本基督教団と沖縄キリス

ト教団との合同問題に関する協議会」の報告書があります。その報告書の中で、今は天上の人になってい

ますが、当時沖縄教区西原教会牧師でして高里勝介さんという方が、この協議会の全体集会で、「アジア

の視点から」というテーマで発題をしておられます。その発題がこの報告書の中に掲載されていますが、

その中で高里勝介さんは、「国家的な視点と私たち(キリスト者)の視点」の違いについて語っていま

す。少し長くなりますが、高里勝介さんの発題から引用させていただきます。


・【アジアとの関わり合い、ここ120年の日本の国の国家づくりとこれからの日本を考えてみますと、ア

ジアに対してもどうであったのか、どのような関心と関わりをもってきたのか、やはり、その国や地域の

資源や市場を求めるという事であったり、日本に役立つものにしか関心がなかったと言うしかありませ

ん。本当にその地域に生きている生命、一人ひとりの生命というものには、ほとんど関心を持たない日本

の国づくりに対して、私たちは、そういう視点から、やはりその地域に現に生きている人々に目を転じる

べきではないかと思う訳です。国家的な視点だけではなくて本当に、一人ひとりが罪深く、また主にある

赦しの中でしか共に生きられないという思いの中で、お互いの関係と関わり合いをとらえなおしてみる、

という、そういう視点が大切ではないか、と思っています。アジアの人々と、そしてそこで生かされてい

る教会と共に励まし合って生きてゆく、そういう事を伝え合うお互いであるという事、共に支え合い、生

かし合うという厳しい思いと歩みを通して主に仕えてゆく、その事に気づいてゆく事も、私たちの合同の

とらえなおしと、その実質化である、と強く思っている訳です。】


・私は、この高里勝介さんの発題を読んで、「日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同のとらえなおし

と実質化」がめざしていることは何かが、よりはっきりと分かったように思いました。


・さて、今日でエレミヤ書による説教を終えますが、預言者エレミヤが、神から託された預言で国家滅亡

という破局的な状況を生きているユダの人々に求めたことも、突き詰めて考えれば、国家的な視点によっ

てではなく、神を信じる者の視点から、厳しいかもしれないけれども他者と共に生きよ、ということだっ

たのではないでしょうか。


・日本の国が、国家的な視点を変えて、それぞれの国や地域に生きている自然や動植物に、そして一人ひ

とりの人間に視点を定めて、命を大切にして、他者と共に生きる道に進まなければ、あの戦争による破壊

を再び引き起こすことになる。このことがエレミヤの語る災いの預言の今日的な意味ではないでしょう

か。「本当に、一人ひとりが罪深く、また主にある赦しの中でしか共に生きられないという思いの中で、

お互いの関係と関わり合いをとらえなおしてみる、という、そういう視点が大切ではないか」(高里勝

介)という言葉を噛みしめたいと思います。


・先程司会者に読んでいただいたエレミヤ書45章は、エレミヤの預言を巻物に書き記したバルクへの言葉

です。バルクは、紀元前605年/604年に編纂された巻物のために、エレミヤが自分の預言を書きとめさせ

るために採用した書記官のような人です。それ以後のエレミヤの預言も、恐らくバルクはエレミヤと行動

を共にしながら書きとめたと思われます。しかもバルクは、エレミヤの預言を受動的に記すただ単なる書

記官ではありませんでした。バルクは、エレミヤの預言者としての職務に巻き込まれていて、エレミヤの

語る預言に心を動かされ、エレミヤと思いを共にしていた、エレミヤのただ一人の弟子でもあったと思わ

れます。そのことによって、ある場合には、バルクはエレミヤと同じような危険な状況に置かれ、人々が

預言者エレミヤに反対したのと同じ憎しみに彼もさらされたと考えられます。


・3節に、≪あなたは、かつてこう言った。「ああ、災いだ。主は、わたしの苦しみに悲しみを加えられ

た。わたしは疲れ果てて呻き、安らぎを得ない」≫と言われていますのは、ユダの人々がエレミヤに向け

た憎しみを、バルクにも向けていたことを表していると思われます。そのためにバルクは深い嘆きを、こ

の言葉で表してるのです。「苦しみ」は、8章18節で《わたしの嘆きはつのり、わたしの心は弱り果て

る》では「嘆き」(8:18,31:13)と訳されている言葉と同じ言葉です。エレミヤの告白といわれています

20章18節でも同じ言葉が使われていて、そこではエレミヤの苦悩を表すのに用いられています。「悲し

み」は、イザヤ書53章の苦難の僕の描写に用いられていて、そこでは「痛み」と訳されています。また、

出エジプト3章7節では、エジプトの苦役に呻吟し、神に叫ぶ民のさまをこの語で表現しています。従っ

て、バルクのこの嘆きはひとりバルクのみに限られるものではなく、神に選ばれた者がひとしく経験する

苦難を指し示すものと言えるでしょう。このような状況におかれた信仰者に対する神の慰めの約束が、こ

こに与えられているのです(以上木田献一による)。


・そのバルクに、「主はこう言われる」と言って、語られている言葉が、≪わたしは建てたものを破壊

し、植えたものを抜く、全世界をこのようにする。あなたは自分に何か大きなことを期待しているのか。

そのような期待を抱いてはならない。なぜなら、わたしは生けるものすべてに災いをくだそうとしている

からだ≫(4-5a節)です。


・このバルクへの災いの預言は、エレミヤ自身がユダの人々に語り続けてきた預言でもあります。この災

いの預言が指し示しているのは、先ほど紹介し高里勝介さんの言葉からすれば、国家的な視点から生み出

されたものは、一度すべて破壊されなければならないということです。≪わたしは生けるものすべてに災

いをくだそうとしている≫ということは、そういう事ではないかと思います。


・しかし、そういう神が災いを下そうとする状況の中で、苦難を背負い、嘆き悲しみながらも、エレミヤ

も生きてきたし、バルクも生きていかなければなりません。このような世界を震撼とさせる激動と争乱の

只中に生きなければならない時に、一信仰者として、何を期待し得るでしょうか。


・この問いに一つの答を与えるのが5節です。《あなたの命だけは、どこに行っても守り、あなたに与え

る》。今の時代は神がすべての者に災いを下そうとしている時代であるから、だれひとり苦しみから逃れ

ることはできないのだというのです。しかし、バルクよ、あなたは苦しむけれども命だけは守られるであ

ろうとの約束が与えられているのです。この約束は、ひとりバルクにだけ与えられたものではないと思い

ます。バビロンに捕囚として強制的に連れていかれた、激怒の中で故国を離れて不安の中で生きなければ

ならない信仰者すべてにとっての深い慰めとなったに違いありません。


・エレミヤも、バルクも、エジプトに連れていかれて、最後どうなったのかは分かりません。けれども、

この二人が、《あなたの命だけは、どこに行っても守り、あなたに与える》という主の約束の下に生きる

ことを許されたことを確信することができるのではないでしょか。


・「今年のクリスマスは馬槽の幼な子の誕生よりも十字架に苦しみたもうイエスを思うべきクリスマスで

あると思います」という関田先生の言葉が、エレミヤ書45章のバルクへの言葉を通して、ますます強く共

感させられます。