なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(46)

     「あなたはご存知です」エレミヤ書18:18-23、

                  2016年9月25日(日)船越教会礼拝説教


預言者もひとりの人間です。特にエレミヤという預言者には、ひとりの人間としての苦悩が赤裸々に

表れているところがあります。それだけに、他の預言者よりもエレミヤにより親しみを感じている人が、

私たちの中にも多いのではないでしょうか。特に先ほど司会者に読んでいただいた今日の箇所には、そ

のようなエレミヤの姿が良く現れているように思われます。

・それは、預言者としての挫折の体験とでも言えるものです。エレミヤにとって預言者として神の言葉を

イスラエルの民に取り次ぐことは、イスラエルの民とっても喜ばしいことであるという確信を、エレミヤ

は持っていたに違いありません。神と契約を結んだ契約の民イスラエルにとっても、その契約に忠実に生

きることによって神の祝福を得ることは喜ばしいことに違いないからであります。そのことのためにエレ

ミヤは、神からの啓示を受けて、イスラエルの民に警告や指導や励ましや慰めとしての神の言葉を語って

いたのであります。

・ところが、エレミヤの預言活動を不都合に思う人々がいました。エレミヤが改革に熱心なあまり、改革

を政治的に利用している人々にとっては、エレミヤの預言活動は自分たちの計画にとって障害に思えたの

です。彼らにとってエレミヤは邪魔な存在でした。何とかしてエレミヤを排除したいと考えていた彼らは、

言葉をもってエレミヤに預言をやめさせようとしたり、ついには何らかの物理的方法によって、エレミヤ

を葬り去ろうとしたようです。

・先程読んでいただいたエレミヤ書18章1節には、「・・・舌をもって彼を打とう。彼の告げる言葉には

全く耳を傾けまい」という、敵対者のエレミヤの預言活動に対する妨害が語られています。預言者にとっ

て、何よりもつらく悲しいことは、自分が取り次いだ神の言葉にイスラエルの民が全く耳を傾けてくれな

いことです。それでは、自分が何のために預言を語っているのかという疑問がエレミヤを捉え、エレミヤ

は自分のしていることがただ空しく思えるだけでした。

・エレミヤが自分の預言活動を不都合に思う人々から受けた仕打ちは、それだけではありません。彼らは

エレミヤに対してさらに強行な行為に及びました。エレミヤは、<彼らはわたしの命を奪おうとして/落

とし穴を掘りました>(20節)、<彼らはわたしを捕えようと落とし穴を掘り/足もとに罠を仕掛けまし

た>(22節)と言っています。エレミヤは敵対者によって命の危険も感じたというのです。もちろんエレ

ミヤの敵対者は、預言者なら誰でも自分たちの邪魔だとは思っていませんでした。彼らは自分たちに都合

のよい預言を語る預言者を求めたのです。<エレミヤのように、非妥協的に神の言葉にのみ忠実であって

は、(彼らには)政策上の不利益が生じる>と思えたのです。<だから、言葉じりを捕えては彼(エレミ

ヤ)を陥れるとか、命を奪うことまで考えた>のです。

・神の言葉を取り次ぐ者がそのような敵対者からの迫害を受けるということは、エレミヤだけではなく、

多くの預言者も多かれ少なかれ同じように迫害を受けたのではないかと思います。それは福音書のイエス

の場合も、全く同じではないでしょうか。神の国の福音を宣べ伝え、人々の中で既に神の国が到来したか

のように、人々から虐げられていた人々と交わり、彼ら彼女らと、他の人たちと同じように神の国の住人

として共に食卓を囲み、共に生きたイエスも、敵対者のさまざまな妨害、迫害を受けました。そしてつい

には、ローマとユダヤの権力者たちが結託して、イエスを十字架に架けて抹殺したのです。キリスト教

を見る限り、そのイエスの福音を信じるキリスト者の中にも、イエスの福音に忠実に生きる人は迫害を受

け、殉教した人も多くいます。

・そういうことからすれば、ここでエレミヤが体験していることは、エレミヤだけが受けた特別な迫害と

は言えないのではないでしょうか。その時代、その人の置かれた状況において、神の真実に非妥協的に立

ち続ける人が、場合によっては受けざるを得ない迫害という意味で、エレミヤに限られたことではないと

思われます。それにも拘わらず、ここで、つまり言葉において、また物理的方法をもって、エレミヤを排

除し、命を奪おうとしている敵対者たちに対して、エレミヤは神に復讐を祈っているのです。しかも、こ

れまでにエレミヤはその敵対者たちのために執り成しの祈りを捧げさえしているのです。20節後半に<御

前にわたしが立ち、彼らをかばい/あなたの怒りをなだめようとしたことを/御心に留めてください。>

と言われています。

・ところがそれに続けて、エレミヤは神に向かってこう言っているのです。<彼らの子らを飢饉に遭わせ

/彼らを剣に渡してください。/妻は子を失い、やもめとなり/夫は殺戮され/若者は戦いで剣に打たれ

ますように。/突然、彼らに一団の略奪者を/襲いかからせて下さい>(21節、22節a)。また、<主よ、

あなたはご存じです。/わたしを殺そうとする彼らの策略を。/どうか彼らの悪を赦さず/罪を御前にか

ら消し去らないでください。/彼らが御前に倒されるよう/御怒りのときに彼らをあしらってください>

(23節)。このエレミヤの復讐の祈りは尋常ではありません。自ら預言者として彼らに預言を語り、執り

成しの祈りも捧げてきたのに、その自分を陥れて命を奪おうとしている敵対者を、ここにではエレミヤは

赦すことができなかったのです。すさまじい復讐の祈りを祈る他なかったのです。

・木田献一さんはこのように言っています。<エレミヤの善意がすべて無視され、危険な策略をめぐらさ

れるに至って、彼の怒りは激しく燃え、この人々に対する最も激しい復讐の訴えがなされている(21-22

節a)。それは、彼らが、罠を仕掛けて彼を殺そうとしたからである。彼の激情もやむおえないものと言う

べきであろう。しかし、エレミヤがこのような激情と絶望を越えて、預言者として再任されるまでには、

自己自身と、また神との格闘を経なければならなかった>と。木田献一さんは、このエレミヤの復讐の祈

りを、エレミヤの激情として否定的に捉えています。ですから、<しかし、エレミヤがこのような激情と

絶望を越えて、預言者として再任されるまでには、自己自身と、また神との格闘を経なければならなかっ

た>と言っているのです。関根正雄さんも<この復讐の祈りは神と世の間にあって平安を失った悲惨なエ

レミヤの姿を示す>と言っています。また、この時の<エレミヤはうつ病に落ち込み、健全な霊性の人で

はなかった>と言う人もいます(中出繁)。

・一方ヴェスターマンは、このエレミヤの復讐の祈りは、旧約聖書のエレミヤのような預言者である信仰

者としての当然の祈りであると言っています。この復讐の祈りを神に捧げる際に、エレミヤには二つのこ

とが念頭にあったと言って、次の二つを挙げています。<➀神に祈る者に敵対する者は、神の敵であり、

あるいはそうみなさなければならないということである。特にエレミヤにとっては、この前提がはっきり

としていた。⓶また、彼にはもう一つの前提がある。それは、祈り手にとって神と人間との間で起こり得

ることは、誕生から死ぬ時までの間に限られているということである。もし、神の言葉や命令を無視した

にもかかわらず、その人が生きている間に、何も罰を受けることがなかったならば、それは、神がその人

の味方であることの徴であると理解することが出来た。だから、信仰者であればこそ、敵対者に審判が下

ることを神に祈ったのである。これは、彼らが神を信頼していることを主張するのに、欠かすことのでき

ない祈りであった>。

・このエレミヤの復讐の祈りが、「悲惨なエレミヤの姿を示す」ものなのか、それとも旧約の信仰者とし

て神信頼を示す、「欠かすことのできない祈り」なのか、私にはその判断を下すことはできません。ただ、

ヴェスターマンが、上記に続けて、<ところが、キリストの受肉と受難、そして死によって初めて、神の

共同体に全く新しい可能性が切り開かれた。それは、神の敵のために祈るということである。こうして隣

人に対する復讐の祈願は、神に語るべき祈りではなくなったのである>と語っていることに、注目したい

と思います。

・ではエレミヤとイエスとは、相反するだけで、二人が繋がっているところはないのでしょうか。関根正

雄さんは、このように言っています。<エレミヤは最後に「彼らの罪を赦さないで下さい」と祈る。何と

いう正直な祈りか。然しイエスは同じように自分を迫害する者の為に「彼らを赦し給え」と祈った。この

著しい対照が旧約の偉大と福音の底知れぬ深さを示している。人間はいい加減な所で赦したい、然し赦す

なと祈り得た所にエレミヤは一番はっきりイエスを指し示しているのである。十字架の赦しの前にこのエ

レミヤの血の出るような「赦すな」があり、それが浄土真宗キリスト教の相違を明らかにする。神の怒

りを離れて神の愛はないからである。/神は愛だ、神は赦しだ、といきなり言わない所に聖書の深さがあ

り、厳密さがある。問題を誤魔化さないのであり、神の愛を先取りしないのである。エレミヤは誤魔化す

べく余りに純粋であり、神と人から受けた傷は余りに深かった。復讐の祈りはそれにも拘わらず、神の子

の他には神と人の間に何人も仲保として立ち得ぬことを示すのである>。

・私は今日の船越通信にも沖縄の高江について書きました。今高江で何が起きているかについて、みなさ

んに知ってもらいたいことと、そこには長年犠牲を強いられてきた沖縄の人たちの怒りがあることを、そ

してその怒りを理解し、私たちもその怒りに共感したいと思ったからです。どころが、私と同じキリスト

者で沖縄の人で牧師をしている人は、今年3月に開かれた教団の宣教方策会議の教団新報の報告によれば

、<基地問題に対して、怒りを原動力に対応することは「祈りによってしか解決できない沖縄の深い問題

を見えなくする」>と発言しています。この人は、怒りを原動力にした祈りは考えられないのかも知れま

せん。エレミヤの復讐の祈りは正しく怒りを原動力にした祈りではなかったでしょうか。関根正雄さんが

「人間はいい加減な所で赦したい、然し赦すなと祈り得た所にエレミヤは一番はっきりイエスを指し示し

ているのである」と語っていることを受け止めたいと思います。

・ボンフェッファーは「服従を伴わない惠は安価な恵みで、服従を伴う惠は高価な恵みである」と語って

いますが、私にはこの沖縄の牧師の発言には、服従、行為が伴わない、言葉だけの信仰や祈りという問題

があるように思えてなりません。エレミヤの復讐の祈りと「彼らを赦し給え」と祈りつつ十字架上に息絶

えたイエスのことを、深く吟味しつつ、私たちがこの社会のさまざまな不条理に苦しむ人びとを覚えて、

怒りを原動力にした行動を伴う祈りを祈りつつ、イエスの十字架の和解を信じて、この時代と社会の中を

生きていきたいと願います。