なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(71)

「躓きを越えて」マタイ13:53-58、2020年3月29日(日)礼拝説教

 

  • 小さい頃には余り感じなかったのですが、何時頃からか、成長するに従って、私たちは家族の中での自分と、実際の自分の間に距離を感じるようになるのではないでしょうか。それは、家族の関係における自分とは別に、自分の中の自分、社会の中の自分というものが大きくなってきて、家族の関係だけでは捉えきれない自分の領域が出来てくるからでしょう。
  •  
  • 私は高校3年生の時に洗礼を受けました。信仰はイエスを通しての自分と神との関係の世界ですから、その神との関係の世界が自分の中で大きく重いものになってきますと、家族との自分の関係にも、社会との自分の関係にも、影響を与えるようになります。場合によっては、敵対関係のようになってしまうこともあり得ます。神学校に入った時には、多少そういう経験もしました。父親の思いを振り切って、父親とは断絶状態で神学校に入ったからです。

 

  • 事実イエスの語った言葉として、私たちはこのような言葉を知っています。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘をその母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」(マタイ10:34-36)。

 

  • このイエスの言葉は、考えてみますと大変恐ろしい言葉です。この言葉に続いて、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言われているのですから。

 

  • このイエスの言葉がめざすものと、例えば麻原 彰晃(あさはら しょうこう)のオーム真理教がしたこととどこがちがうのでしょうか。もしイエス麻原 彰晃のオーム真理教のような宗教集団を築こうということだったら、おそらくこの言葉からすれば、ほとんど同じような宗教集団がイエスによって作られたのではないでしょうか。

 

  • けれども、イエスはそのような宗教集団を作ろうとは考えなかったようです。今日の聖書の箇所のように、ユダヤ教の会堂で教えることはしましたが、新しい礼拝堂を作って新しい宗教教団にしようとは思わなかったのではないでしょうか。

 

  • 例えば福音書の中でイエスによって病を癒された人が、わたしもあなたについて一緒にどこまでも行きますと言ったという記事がでてきます。そのとき、イエスは、どう言ったかというと、家族のところに帰って、今あなたが与えられた喜びをみんなに知らせなさいと言っています。これはイエスの帰還命令と言われています。

 

  • エスは弟子たちを従えて、放浪のラディカリストと言われるように、神の国を宣べ伝え、病を癒し、悪霊に憑かれた人から悪霊を追い出しして町や村を巡回しました。しかし、一つの所に留まり、自分のところに来る人を集めて宗教教団をつくろうとは考えませんでした。そこが麻原 彰晃とは違うところでした。

 

  • けれども、イエスは30代を過ぎた頃から、神との関係における自分を大胆に現し、人々にも神がその人にどのように臨んでおられるのかということを、教えや業を通して、語り示されました。今日の故郷ナザレの会堂では、そういうイエスに故郷の人々は躓いたことが記されています。

 

  • 「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか、母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」(13:54-56)と。

 

  • エスに対する躓きは神が神としてご自身を現された時に生ずるであろう「知恵:や「力あるわざ」(奇跡)が、ただの人としてのナザレのイエスにおいて起こるなどということがあるのだろうか、という点であります。

 

  • たしかに故郷の人々にとっては、イエスは親族のつながりの中にあるただの人です。しかし、イエスはそのようなただの人でありつつ、孤独な人間ではなく、アバ父よと神に向かって祈ることのできた神の子どもでもありました。

 

  • ヨハネ福音書の著者は神の子どもであるイエスを、神の「独り子」と言っています。有名な言葉ですが、ヨハネによる福音書3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と言われています。

 

  • この言葉に続けて、ヨハネ福音書の著者はこのように語っています。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるためである」(ヨハネ3:17-21)と。

 

  • このヨハネ福音書の記述からしますと、独り子イエスがこの世に遣わされたのは、イエスを信じる者、すなわちイエスを信じて歩みを起こす者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためであるというのです。永遠の命とは、永遠に意味ある生を意味します。イエスを信じて歩みを起こす者は、「悪を行う者が皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」のとは違って、真理を行う者であり、「光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるためである」というのです。

 

  • このヨハネ福音書の個所では、イエスが神の独り子であると共に、イエスを信じて歩みを起こす者も神の子どもたちであるということが言われているのではないかと思います。

 

  • 私たち人間が神の子どもであるというのは、自ら神に代わった神のようになろと、自分さえよければいいんだという自己中心的な人間になる罪に陥る以前の神の似姿として創られたことを示しているのかもしれません。

 

  • 創世記の人間創造物語の中で、「神はご自分にかたどって人を創造された。/神にかたどって創造された。/男と女に創造された」(創世記1:27)と言われています。

 

  • 神がご自分にかたどって人を男と女に創造されたのは、神のかたちである愛を、神の似姿に創られた人が、その交わりにおいて支え合い、仕え合い、愛し合うことによって表わすためなのです。

 

  • この聖書の人間観がヨーロッパのキリスト教的人間像の基礎になっていると言えます。今日も最後にドイツの首相であるメルケルの著書である『わたしの信仰』からの引用をもって終わりたいと思います。

 

  • メルケルはこの著書の「ヨーロッパと世界」を記したところで、このように述べています。「わたしたちは自分たちのルーツを知り、この遺産をくりかえし念頭におかなくてはなりません。なぜならわたしたちはグローバル化された世界に生きており、そのなかで絶えず他の文化や宗教との交流を行い、一緒に未来をうまく形成したいと願っているからです。自分たちの魂と価値観を熟知しているヨーロッパだけが、未来のための正しいコース変更に取り組めるでしょう。ヨーロッパの価値観は、人間の尊厳についての観念に要約されます。神の似姿として人間を理解するキリスト教は、国籍や言語、文化、宗教、肌の色、性別などによらないあらゆる人間の平等をわたしたちに教えています。それゆえ政治の基準は国家ではなく、政党でも人種でも階級でもありません。国家のあらゆる活動の中心には、人間とその不可侵の尊厳があるのです。」(128頁)

 

  • 「人間の尊厳を保証することから、自分の人格を自由に発展させることができる個人の権利が最終的に育ってきます。自由を持つ権利というのは、そもそも人間が持つ権利の中で最も重要なものの一つです。たとえそれが他者の気にさわろうとも自分の意見を言う自由、信仰の自由、商取引の自由、社会全体に対するそのときどきの責任においての、個人の自由。」(129頁)。

 

 

  • その「自由とは、絆のない自由ではありません。この自由は、他者の自由を尊重します。自由が持つ力が完全に発揮されるのは、個々人が持つ、他者との絆においてです。家族との、社会との、そしてとりわけ神との絆。パウル・ヨーゼフ・コルデス枢機卿は次のように書いています。『自我が自分自身の壁を乗り越えたときに初めて、彼は人間として成熟する。自我が自分の中に閉じこもっていると、発育が止まってしまう』。自由に関するこのような理解は、ユダヤ教や自由を告げる福音のなかにその根拠が記されています。教会は何世紀にもわたってそれを守ってきましたし、普遍的な価値観の真の中身と人間の共生の原則にくりかえし光が当てられるなかで、それは不可欠の要素であり続けます」(129-130頁)。

 

  • メルケルは、このようなキリスト教的人間観をベースに据えることによって、現代社会のゆがみを正すことができると信じています。

 

  • 「まさしくこの自由の価値が、日常生活のなかでしばしば、個人が勝手に行動する権利であるかのように矮小化されています。わたしたちは無関心や、自己の信念を主張する勇気の不足、弱者に対する思いやりのなさを経験します。無責任な自由を、残念ながら社会的なレベルでもグローバルなレベルでも体験します。―――インターネットでの自動ポルノの拡散、資源の乱獲。あるいは金融市場における欲望、行き過ぎ、節度のなさ。そんなことがあるからこそ、現代の経済危機や金融危機が生まれてくるのです。個人の利益が、一人一人の人間や社会を害するほど絶対化されてしまいました。しかしわたしたちはキリスト教的な意味において、自由を奪うことなく金融市場と経済を整えることができます。もう一度全体の利益において考えるべきを学ぶことで、グローバリゼーションに人間らしい顔を与えることができます。―――地域でも、世界でも。」(130頁)。

 

  • エスが神の独り子として言葉を発し、行動したときに、イエスの家族の者たちはイエスに躓いてしまいました。その時イエスの家族の者たちは、自分たちもまた神の似姿に創られた神の子どもであることを忘れてしまっていったからではないでしょうか。

 

  • 福音書をみますと、後にイエスの家族の者たちも、躓きを越えて、イエスの協力者になっています。

 

  • エスを信じて歩みを起こす私たちキリスト者も、それぞれの人としての尊厳を大切にし、他者との絆を通して共に生きる共生社会を築く働き手の一人に加わって行けたらと切に願います。