なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(39)

    マルコ福音書による説教(39)、マルコによる福音書9:38~50
   
・9:38-40には、イエスの弟子でありますヨハネがしたことが、イエスによって咎められています。どんなことをヨハネがしたかといいますと、イエスの名前を使って、悪霊を追い出している人を見つけて、やめさせた、というのです。何故ヨハネがやめさせたのかと言いますと、そのイエスの名によって悪霊を追い出していた人が、自分たちと同じイエスの弟子仲間ではなかったから、と言うのです。イエスの名前を使って、悪霊を追い出していた人は、おそらくヨハネのグル-プとは違う、イエスに従う人々の一人だったと思われます。その人を咎めヨハネに向かって、イエスは、「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」(39節)とおっしゃって、むしろ、ヨハネがしたことを逆に諌めたというのです。そして、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」(40節)とおっしゃったというのです。

・ここでヨハネがしたことは、私たちもしばしば行っていることではないでしょうか。イエスに従うということは、イエスが目指されたこと、イエスがその生涯をかけて最も大切にされたことを、イエスに従う者も同じように大切にして生きるということです。その人がイエスに従う自分たちの仲間であるかどうかということは二次的な事柄であるはずです。自分たちの仲間でなくとも、イエスが目指されたこと、イエスがその生涯をかけて大切にされたことを、イエスと同じように大切にしていこうとする者は、狭い意味ではたとえ自分たちの仲間ではなかったとしても、広い意味ではイエスに従う同じ仲間なのです。

ヨハネは、そのことを十分理解してはいなかったのだと思います。ペテロやヤコブや自分自身のように、イエスに生前から従った直弟子たちだけが、病気を癒し、悪霊を追放するイエスの権威を受けたので、そのイエスの権威を自分たちが全く知らない別の人によって用いられた時に、今日の聖書にあるような反応を、ヨハネはしてしまったのだと思います。このヨハネの態度、そしてその態度として現われていますヨハネの考えは、自分たちだけが正統なイエスの弟子たちだという正統意識そのものです。けれども、イエスの権威は、そのような形で弟子たちに引き継がれてゆくものではありません。神の霊の自由さにおいて、神がお望みになるならば、どこでも誰にでも与えられる力なのです。ヨハネのような直弟子たちにのみ限られはしません。

・今日のマルコによる福音書ヨハネの記事には、おそらく初代教会の状況が反映されていると思われます。パウロの手紙を読んでいても感じられますが、イエスの死後最初に誕生したと思われますエルサレムの教会の存在です。エルサレム教会は、ペテロ、ヨハネヤコブというような直弟子たちが最初の中心メンバ-で、パウロの時代にはイエスの弟のヤコブが中心的な指導者になっていたと言われます。そのエルサレム教会には、イエスによってもたらされた神の救いのみ業(福音)が与えられているのは、自分たちのエルサレム教会であって、極端に言えば、エルサレム教会のお墨付きがなければ、教会の福音宣教は正統と認められないというような考えがあったようです。そのようなエルサレム教会の思い上りに対する批判が、今日のヨハネの記事には反映されているというのです。「わたしに逆らわない者は、わたしの味方なのである」(40節)というイエスの言葉は、そういう背景の中で理解されるときに、エルサレム教会のような思い上がりへの批判として読めます。また、神の霊の自由さは、たとえ信仰者の仲間であってもその仲間の中にのみ閉じられるものではありません。その仲間を越えて、神は自由に働きかけて違った人々のなかにもそのみ業を現わされる方なのです。

・そのようなヨハネの閉鎖的な考え方やその背後に想定されるエルサレム教会の思い上りに対して、その批判の根拠が続く記事の中で語られています。

・このヨハネの記事に続いて、キリストの弟子であるあなたがたに対して水一杯飲ませてあげる行為と、ヨハネのように小さな者のひとりを躓かせてしまう行為とが比べられています。ここには「キリストの弟子だという理由で、…」、「わたしを信じるこれらの小さな者のひとり…」と言われていますが、これは明らかに、教会=信仰者を中心にした見方です。しかし、おそらく元来のイエスの言葉には、教会とか、信仰者とかいう枠はなかったのではないでしょうか。相手が誰であろうと、「小さな者のひとり」であるかわいた人に水一杯を与える行為が称賛され、どんな人でも、「小さな者のひとり」である隣人を躓かせる行為が厳しく非難されたのだと思います。パレスチナでは日本と違い水は大変貴重です。他者に水一杯与えることは、その人を本当に大切にしていることを身をもって示す行為でした。

・つまり、誰であろうと、「水一杯を与える」、それが人に仕える行為であれば、そのような行為をした人に神は報いを与えたもうというのです。「水一杯を与える」行為が意味するものは、キリスト者であろうとなかろうと、あのイエスの十字架に対するその人なりの応答なのです。キリスト者とは、自覚的にイエスの十字架によって生きていこうとする者です。とすれば、彼ら・彼女らの一つの一つの行為はイエスの十字架への応答であり、わざわざ自分がキリスト者であることを宣伝しなくとも、その思想と生活とが信仰を証言するに違いありません。それは何よりも「小さな者のひとり」に「水一杯を与える」こと、つまり他者を自分と同じように大切にし、その他者に仕えることです。

・神はただ口先だけで「主よ、主よ」という者を喜ばれません。どんなに小さな仕えの行為でも、また、誰がそれをしたとしても、それに報いたもう神は、幼な児のような、どんなに「小さな者のひとり」をも躓かせる者に対しては、容赦なく彼を審きたもうのです。

・イエスにおいてご自身を示したもう神は、あの一匹の群れの外に出ている羊を、99匹を山に残したまま、捜しに出掛ける方です。そして、それを見つけたら、迷わないでいる99匹のためよりも、むしろその一匹のために喜びたもう神なのであります。人は誰でも、単独者として神の前に立つならば、一匹の迷える羊です。同時に、そういう私たちは、他者である隣人との関係においては、どうでしょうか。99匹の側にいはしないでしょうか。ちょうど一匹の羊であるはずのイエスの弟子が、他のやはり「小さな者のひとり」に対して、彼を躓かせ、彼を切り捨てようとしているようにです。私たちも隣人との関係におきましては、99匹の立場に立っていて、一匹を切り捨てているのではないでしょうか。

・人が傷つくのは、それと知ってなされた行為によるよりも、無自覚になされた行為による方が、それを受けた人により大きな傷を残すのではないでしょうか。自分の行為に後ろめたさを感じている人は、それほど悪いことはできないものです。むしろ、本当の悪人は、自分では正しいと思っているのですが、その人の考えや行いによって、多くの人が踏みつけられ、苦しめられているというような人のことでしょう。聖書の中では、パリサイ人などはそういう種類の人間です。私たちはどうでしょうか。被差別部落の方々、在日韓国・朝鮮人の方々、沖縄の方々、東南アジアの方々にとって、私たちの存在はどういうように見られているのでしょうか。

・ここで、イエスが教えておられることは、どんなに小さな行為でも、「小さな者のひとり」である他者を自分と同じように大切にする仕えの行為であれば、それを神は見過ごされないということです。また、逆にどんなに小さな行為でも、「小さな者のひとり」である他者を躓かせる行為に対しては、厳しい審きを下されるというのです。それゆえ、イエスを通して神を信じる者は、のどが渇いている人に与える水一杯の行為が、共に生きる人間の共同体において、この地上に神の国をもたらす行為であることを知っているのであります。私たちは、私たちの力で政治の流れを変えることは出来るかも知れません。けれども、人を傷つけ人に死をもたらす人間の罪の歴史という流れを、私たち自身の力では変えることはできません。それが出来るのは、神のみです。そして神は、イエスの出来事、その生涯と死と復活によって、人が神に造られた者としてお互いに大切にし合う神の可能性を私たちに示してくださったのであります。その完成の時は、未だ来ていませんが、あのイエスと共に到来した神の国は、確実に神によって完成するでしょう。私たちは、そのことを信じて、この世の不安と失望に抗って、希望に生きるのであります。従って、私たちの行為は、この信仰によって、この世の流れに抗ってゆくものであります。それがどんなに小さく見えても(水一杯)、神にとっては決して小さくないのであります。逆に、どんなに小さくとも、小さなひとりの人を躓かせ、その人を苦しめることは、神のみ心に反することであります。それ故、そのような行為を神は厳しく審きたまいます。この聖書の言葉、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まてしまう方がはるかによい」{42節}は、決して誇張ではありません。もちろん、これを字義通りに受け取れというのではありません。たとえ、手を切り取っても、悔い改めようとしなければ、その人は同じことを繰り返すでしょう。ここで言わんとしていることは、私たちが悔い改めて生きるということです。

・そういう意味では、どのような行為をするのか、否かが、問題なのではありません。悔い改めて、イエスが十字架に至るまで自分の全存在をかけて「小さなひとり」を大切にする仕えの生を全うされたことを覚えて、そのイエスに従って生きるか、否かという信仰が問題なのです。そのような十字架に極まる生を貫いたイエスをキリストと信じる信仰は、それにふさわしい行為を私たちの中に生み出すからです。

・最後に、49節の言葉を噛みしめたいと思います。「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味をつけるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして互いに平和に過ごしなさい」(49節)。「人は皆、火で塩付けられる」の「火で塩付けられる」とは「悔改めによる方向転換によって自分の中心にイエスさまを迎えイエスさまと共に生きるる」ということでしょう。それが私たちが自分自身の内に塩を持つということです。そして互いに他者を自分と同じように大切にして「互いに平和に過ごしなさい」。これが今日私たちに与えらたメッセージです。