なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(93、復刻版)

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(93、復刻版)」を掲載します。

 下記に出て来る浅野順一先生は、聖餐式のとき洗礼を受けていない人でも陪餐に与かりたいと思う人には配餐をしていました。聖餐への招きのときに、洗礼を受けていない人が聖餐に与ることで神さまがお叱りになるならば、私がそのお叱りを受けるから、どうぞ与ってください。そして信仰を言い表して洗礼を受けるようになってください、という主旨のことを述べられました。私は、浅野先生とは直接の関係は余りありませんでしたが、私の最初の任地である足立梅田教会の当時の藤村靖一先生が浅野先生の一番弟子のような方で、その藤村先生を通しての関係でした。当時のことを懐かしく思い出しています。

            黙想と祈りの夕べ(通信 93[-41] 2001・7・8発行)

 この日(7月1日)の礼拝に、私が神学校を卒業して最初に赴任した、東京の足立梅田教会のA君が出席しました。彼のお母さんは、私から洗礼を受けました。私は足立梅田教会にいた5年間、そして当紅葉坂教会での伝道師の3年間は、日本基督教団の教師試験を拒否していていました。名古屋の御器所教会へ行ってから1979年に受験し、正教師になり、礼典執行ができるようになりました。それからしばらくした頃だったと思います。足立梅田教会は、私がいる頃から年一回クリスマスの頃に浅野順一先生を呼んで、洗礼、聖餐式を行なっていました。私の子供たち三人も浅野順一先生から幼児洗礼を受けました。浅野先生がお亡くなりになってからは、私が数回、クリスマスの頃に洗礼、聖餐式のために足立梅田教会に行きました。その時に私から洗礼を受けた方の一人がA君のお母さんでした。A君は大学を卒業してからお母さんと二人で横浜のマンションに住んでいます。お母さんは二度ほど当教会の礼拝に出席し、お会いすることができました。けれども、A君とは私が横浜に来てから一度も会っていませんでしたので、気になっていました。今日礼拝が終わって、受付に立っていましたら、彼から声をかけてくれました。私は個人的に大変うれしく思いました。それに、今日の「黙想と祈りの夕べ」に、久しぶりにT兄の顔があり、そのこともうれしいことです。この二人の青年をはじめ、他にもいろいろな課題や困難を抱えながら日常を生きている青年たちを覚えて、祈っていきたいと思います。

 以上の私の発言に続いて、一人の姉妹が以下のような発言をしました。

 今日の礼拝の説教で話された、掃部山公園を掃除しているホ-ムレスの人のことは、娘も知っていた。何とも温かな感じがした。今の30代の結婚している人たちは、それぞれ中流で、持ち物もそれなりに豊かで、デコボコがなく、みんな表面的には同じような生活に見える。生活は、お互いに助け合わなくても、それぞれ自律している。彼ら・彼女らの親の経済もそれなりに豊かで、彼ら・彼女らは小さい時から物を与えられ、塾にも通えて、そこそこに育つことができた人たちである。何かないこと、一つ欠けるという欠落することが恐ろしいのではないか。そのように育ってきた人たちに思える。自分は父が戦死していたし、同じ小学校のお友達にも親のない人が何人かいた。着ている洋服にはつぎがあるのが普通だった。洋服屋さんの同級生だけが比較的立派な服を着ていた。みんな少しづつ我慢しながら生活していたように思う。昨今はリストラにあう人もあり、その親の子供たちは、自分たちの子供時代のような我慢しながら生活するようになるのではないか。そのような我慢や思いやりや大変さを経験している子供たちがこれから出てきて、また社会が変わって来るのではないか、という風に言った人がいた。今も社会の趨勢は、経済が少しでも上り調子になる方向へ行こうとしているが、自分としては経済は多少大変でも、みんながやさしく、助け合うことのできる社会が来て欲しい。人と差があっても、それに耐えられる心が育ってくるようになったらと思う。そうなれば、心の悩みをもつ若い人にとっても、ゆるやかな時を生きられるのではないか。今この時代や社会の中で困難な若者が多いが、その人たちが心豊かに幸せになれるように祈り、出来ることをしていきたいと思っている。今日の礼拝とこの静かな「黙想と祈りの夕べ」の時に、そんな思いがしていると。