なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(530)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(530)復刻版を掲載します。2009年11月のものです。

 明日から教団総会が開催されます。私の免職撤回の議案も出ています。総会会期中の29日(水)午後

9時から私の支援会の「全国交流集会」が予定されています。ということで、今回も私は教団総会を傍聴

します。少しでもまともな議事が行われればと願っていますが、どうなりますか?


        黙想と祈りの夕べ通信(530[Ⅺ-08]2009・11・22発行)復刻版


 昨夜Tさんという方から電話があり、亡くなった方があり、19日午前10時に東京町屋斎場で火葬にするの

で、その前にお祈りをしてもらいたいので来てもらえないか。もし私の都合が悪ければ、誰か牧師を紹介し

てもらいたいということでした。私の都合がつきましたので、伺うように返事しました。その時亡くなった

のはT・Cさんですねと確認したつもりでしたが、電話を切ってから、不安になりました。実は私が神学校を

出て最初に赴任したA教会も町屋の近くにあり、Tさんという方がいるからです。そのTさんのお連れ合いの

妹さんが先年召された時に、葬儀はご家族で行い、教会で行った思い出の会には、当時A教会が無牧でした

ので、私が行って司式をしたことがありますので、こちらのTさんだったらどうしようかと迷いました。そ

こでT・C子さんの息子さんに電話をして確認しましたところ、T・Cさんに間違いありませんでした。T・Cさ

んは、既に帰天していますMさんの妹になります。足立区宮城にずっと住んでいて、何回か私はお会いした

ことがありますが、礼拝には私が紅葉坂教会の牧師になってからは出席していません。しかし毎年年度のは

じめか終わりに必ず献金を送ってくださっていました。献金には必ず手紙が添えられていて、「教会のた

めに何もできないことをお許しください。先生とみなさまのためにお祈りしています」と記されていまし

た。今年も4月か5月に献金とお手紙をいただきましたが、その時のお手紙の字は少し乱れていました。

T・Cさんはご家族の中では一人だけのクリスチャンでしたので、今回ご子息が連絡をくださり、最後は祈

って送ることができホットしました。教会にはT・Cさんのような方もいらっしゃることを覚えていただけ

れば幸いです。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。今日の午前中聖書研究に出席できなかった。

それは自分が関わっているNPOで企業社会貢献事業の助成金を一年間いただき、経過の聞き取り調査面接が

あり、立ち会わなければならなかったからである。その事業では全国で6箇所に助成金を出しているそうだ。

四つは首都近県で、後の二つは佐賀と東北とのこと。障害をもった子どもに関わる働き、ニート、引きこ

もりの青年に関わる働き、その働きはさまざまだが、行政の補助がなくても、ボランティアで本当に熱心

に、また希望を持って取り組んでいて、それぞれ素晴らしい働きをしているという話を伺った。今日の聖

書の箇所であるマタイによる福音書25章の「小さな者にしたのは私にしたのである」とイエスは言ってい

るが、その人は、私は何もしていないと言っている。私が関わっている障がい児の家庭支援のNPOでは私以

外クリスチャンの人はいない。しかし皆さん時間も心も割いて障がいをもつ子どもたちに接している。こ

ういう人たちは神さまに覚えられていて、赦されていると思うが、本人はとんでもないと言うだろう。聖

餐の問題を考えると、洗礼を受けていることが聖餐に与る条件とは思えない。クリスチャンではないが、

私の関わるNPOで働く人たちが、もし教会に誘って来たとき、その礼拝で聖餐式があったとしたら、ダメ

だとは言えない。神を信じていない人でも、その人たちによって多くの人が支えられ助けられているとい

う事実がある。教会は小さな集団で教会の門をたたく人に、あなたはクリスチャンではないから聖餐は

ダメだとは言えない。私自身は洗礼を受けてこうした生活をしているが、私の心の中には神を信じてい

ると言わない人でも、人と人に誠実に繋がっている人は、神に喜ばれる人に違いないという思いがある。

そういう人が教会に見えたら、一緒に聖餐を守りたいと思う。


        「聖徒の園」        11月22日


 教会は非常に人間的な組織ですが、同時にまた神の恵みの園でもあります。そこは、偉大な聖性が花を

咲かせ続けている場です。聖人とは、それぞれの独自の仕方で私たちに生きておられるキリストを見せて

くれる人々のことです。キリストとキリストの教会のためにいのちをささげた聖人たち。私たちを養い続

ける言葉を語ったり、書き留めた聖人たち。困難な状況にあって、英雄的な生涯を送った聖人たち。ひっ

そりと隠れ、祈りと黙想の生活を送った聖人たち。作新を呼びかける預言的声であった聖人たち。大き

な組織や人々のネットワークを作り上げる霊的戦略家であった聖人たち。健康で頑強な聖人たちもいれ

ば、重い病気を患い、しばしば不安であり心配ばかりしていた聖人たちもいました。 けれども、聖人

たちはみなそれぞれ独特な仕方で、教会の内にありながら、園の内にいるようにその生涯を生きました。

彼らはその園で愛する者の呼ぶ声を聞き、イエスを自分達の生活の中心に置く勇気を見出したのです。 


                   (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)