なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(521)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(521)復刻版を掲載します。2009年9月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(521[-47]2009・9・20発行)復刻版


 16日(水)の午後訪問にでかけ新杉田の駅でシーサイトラインに乗り換えようとしたところに、携帯に連絡

が入り、Nさんのお母さんが亡くなったということでした。H病院とのことで、私は引き返して根岸駅からタク

シーでかけつけました。葬具店に連絡し、遺体を教会に運び、礼拝堂に安置しました。Nさんのお母さんはC教

会の会員でありましたので、元C教会牧師のT先生に式辞をお願いし、他の葬儀の打ち合わせをしました。この

日は夜に黙想と祈りの夕べが予定されていました。伝道師は補教師試験受験で大阪に行っています。この日に

面接があり、4時半過ぎに合格したという連絡を受けました。その際土曜日の保土ヶ谷集会の時間とNさんのお

母さんの葬儀が重なりましたので、伝道師に保土ヶ谷集会のお話を頼みました。連れ合いもこの日は別の集会

に出席することになっていますので、黙想と祈りの夕べは小集会室でKさんと二人で行いました。いつものそ

れぞれ感じたことの分かち合いは省略して、共に祈りを合わせました。

 去る13日の日曜日には、以前代務者をした船越教会の礼拝と修養会のために呼ばれて行ってきました。船越

教会のT牧師は体調を崩してお休みでしたので、私を含めて礼拝出席者10名で、午後5時近くまで熱心に話し合

いました。修養会では先ず私の本『自立と共生の場としての教会』を読んでの応答発題を一人の方がして、そ

の後は自由な話し合いということで聞いていましたが、本を読んでいない方もいましたので、最初に私がお話

をして始めました。一つの大きなテーマは教会における教職と信徒という問題でした。私は本の中でも書いて

いますが、教会における教職の過渡性(現在の社会では必要だが、理想的には教職がいなくてもみんなで支え

合う教会になることであるという考え方)について考えていますが、実際には教職と信徒との間には階層的な

違いのようなものが介在してしまう事例が多いようです。また、教会が教職及び教職家族の生活を支えるとい

う現在の教会のシステムが信徒と教職間の自由な対話を阻害する何らかの要因になっているのかも知れません。

十分に謝儀を出せない場合、信徒の側には教職への遠慮があって、言いたいことも言えないということが起こ

るのかもしれません。船越教会は、いろいろなことがあり、信徒数が一番多かった時からすると、激減してい

ます。現在船越教会に在籍している信徒は船越教会への強い思いを持っています。教会基盤としての信徒数の

増加が現在の船越教会の課題です。でもそう簡単にはいきません。どうしたらいいのかという問いがでました。

私はこう答えました。現在全体的に見て信徒が増えているのは、都市部の比較的ファンダメンタルな教会(社

会に開かれた教会というよりも、教義にしろ感情にしろ、原理主義的に教会の内側に求心力がる教会)です。

船越のような平和宣言を出し、社会的な責任を担おうという姿勢をもった教会は、なかなか教勢は増えません。

実際信徒を増やそうという熱心さにおいても、リベラルな教会よりも保守的な教会の信徒の方が優っています。

問題はそれでも私たちが聖書から何を他者と共有したいかということではないでしょうか。福音は福音そのも

のの命によって人を引き付けていくでしょう。その福音の命を共有し、継承していくことが私たちの責任では

ないでしょうか。そのようにお話しました。船越教会は1970年頃から非受洗者にも開かれた聖餐をしています。

信徒の一人の方が、聖餐の問題の根本は差別にあると言われました。少人数ではありますが、船越教会の信徒

はそれぞれ自立しています。困難な中にも道が拓かれていくに違いありません。主の導きを祈りつつ、既に夕

方になっていましたが、船越教会を後にしました。



             「イエスのみ言葉に近く」    9月20日

 
 イエスのみ言葉は、終わりの時の混乱のただ中で私たちをまっすぐ立たせ、イエスのみ言葉によって、私た

ちは自信を持ち続けることが出来ます。私たちをとりまくあらゆるものが死を語っている時でさえ、イエス

み言葉は私たちを支え、励まし、いのちを与えてくれます。イエスのみ言葉は永遠のいのちの食べ物です。イ

エスのみ言葉は、私たちにアイデアやインスピレーションを与える以上の働きをします。私たちが朽つべき肉

体に留まっている間にも、イエスのみ言葉は私たちを永遠の命に導きます。

 私たちがイエスのみ言葉から離れることなく、み言葉を想い起こし、心にかみしめ、魂の糧として味わう時、

神の永遠の愛の中へより深く招き入れられることでしょう。
 

                       (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)