なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(471)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(471)復刻版を掲載します。2008年9月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(471[-52]2008・9・28発行)復刻版


 昨年一年間代務者をしました船越教会はT牧師を主任担任教師として招聘し、21日に就任式をしました。私

も出席し祝辞を述べました。船越教会は現住陪餐会員約15名で実質7~8人ぐらいの信徒がいろいろな教会の

業を担っています。私が船越教会の代務者を引き受けましたのは、極めて個人的なことからです。前任者の

M牧師とも青年時代から関わりがありましたし、M牧師の前とその前の2人の牧師は、私の神学生時代の同級生

でした。そういう友人たちが働き、ある面で命を注いだ船越教会に、私も無関係とは言えない立場ですので、

代務者を引き受けた次第です。どこの教会もいろんな問題を抱えながら、その教会を神さまが用いて主の業

を遂行してくださるという信頼によって歩みをすすめていこうとしているのだと思います。その点では私た

紅葉坂教会も船越教会も全く同じです。人間の集まりですから集団としての教会には極めて人間的な、と

いいますか、信徒、牧師共に個人の資質や思想を含めたお互いの差異が豊さになるのではなく、行き違いに

よる分裂に向かうことがあります。これはプロテスタントの教会のアポリア(解決不可能な難問)だと思い

ますが、船越教会もそのことで随分苦しんできました。それでももう一度何とかやっていきたいという願い

をもって、T牧師を迎えて船越教会は歩みだしました。どうぞこれからの船越教会の歩みを見守り、祈ってい

ただきたいと思います。よろしく。

 上記の私の発言に続いて、以下のような発言がありました。私も船越教会の牧師になられたTさんとは教区

の性差別問題委員会でご一緒なので、Tさんの就任式に出席した。その場に友人のKさんもいらしていて、船

越教会の信徒達を見て、「信徒力」があるという言い方をされた。彼女は常々教団も教会も信徒によって形

成しているのに、信徒が無視されて,色々な事が牧師中心に進められていると疑問を語る。私自身も以前は信

徒が牧師にものを言ってはいけないのではないか、という意識をもっていた。牧師と信徒が対等な関係を築

くのは難しい。最後は牧師によって決まることが多い。ある牧師が「講壇から説教する時」と発言した時、

Kさんはすかさず「あなたの教会には講壇はなかったのでは?」と言われた。(確かにその教会は礼拝堂はフ

ラットなのです)「講壇から」という言い方の中に、ある権威付けがなされているのではないかとの指摘で

あった。なるべく牧師に権威を持たせないで、対等な関係を築くことを心がけたいと思う性差別問題を担う

仲間同士の出来事です。私も船越教会は自立的な信徒が育っていると感じた。メンバーは少数だが、確かに

信徒力があるように思えた。Tさんともいつも対等な関係でいきましょうね、と語っている。自分自身も対等

に学び合う、対等な教会になるように祈っている。

 もう一人の方の発言がありました。私は今いろいろ家の中を整理しているが、1970年に買い求めた聖書が

出てきて、開いて見た。赤線でびっしりうまっていて、当時熱い思いで聖書を読んでいたことが生き生きと

迫ってくる感じがする。しかし、テレビをつけたら、現実に引き戻された。幼い子供が犠牲になる。一体日

本はどうなっているのか、と不安である。テレビと聖書には差がありすぎて、落ち着きがなくなってしまっ

た。25日に原子力空母ジョージ・ワシントンが横須賀に入港するということで問題になっている。その横須

賀の記事をみて、思い出したことがある。戦前の横須賀にたまたま海軍に近い実業家が遠い親戚にいて、地

域全体で大津に町を移した。その頃から軍港というか、今とそっくりである。今は米軍に使用されているが。

これからどうなっていくのか。どうしたらいいのかという思いになった。 


       ご自身を与えられたイエス        9月28日


 友人を食事に招待する時、私たちは体に必要な食べ物を供するだけではありません。友情、交わり、楽しい

おしゃべり、和やかで親しい関わりを供します。「ご自由にどうぞ。もっと召し上がれ、遠慮なさらないでも

う一杯いかが」と言う時、私たちは客に食べ物と飲み物をすすめるだけではなく、私たち自身をも差し出して

います。霊的な絆は深められ、私たちは互いの食べ物、飲み物となるのです。 このことが、最も完成した形

でなされるのが、聖餐式で、イエスがご自身を私たちの食べ物、飲み物として与えてくださる時です。ご自身

の体と血を私たちに与えてくださることで、イエスは、想像を超える程の親しみに溢れる交わりを、私たちに

提供しておられるのです。それは、神の交わりです。

 
                      (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)