なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(186)

 船越通信は日曜日に掲載していましたが、本日船越教会代務者変更登記が完了しましたので、この段階で11

月16日の船越通信を掲載します。


             船越通信癸隠牽供 。横娃隠看11月16日                  

・9日の日曜日は、礼拝後残っていました冷凍のパンを解凍し、Iさんが作ってくださったスープで、

みんなで食事をしながら懇談の時をもちました。その後役員会が行われました。役員会では、私の方から教

区常置委員会を通して申請しています船越教会の代務者の件について、まだ教団からの同意が来ていたいと

いう報告をいたしました。その後14日の金曜日にS先生から私の方に電話があり、船越教会の代務者申請に

対する教団からの書類がS先生の所に届いたので、16日の日曜日にその書類をもって船越教会の礼拝に来て

くださるという連絡がありました。もし先生がお持ちくださる書類が、船越教会の代務者申請に対する教団

の同意書であれば、そこに法務省への代務者変更登記に必要な書類が入っているはずです。確か法務省には

2週間以内に変更手続きをしなければならないことになります。その手続きが終了しますと、船越教会の代

務者はS先生になります。実質的にはこれまでと変わりませんが、これで教区総会の議案書の船越教会の教

師の欄は空白ではなく、代務者としてS先生の名前が入るようになります。

・このようにS先生にお願いしましたのは、私が2011年4月から実質的には船越教会の牧師として働いていま

すが、2014年6月に私の裁判が最高裁上告棄却をもって終了しましたので、これ以上教団から承認されてい

ないまま私が船越教会の牧師を続けていきますと、何かと問題が起こるのではないかと考えたからです。裁

判中は係争中ということで、何か教団から船越教会に言ってくることがあっても、それに対応することがで

きましたが、裁判が終わりましたので、非公式な形で私が船越教会の牧師であり続けますと、何かあったと

きに対応できなくなる可能性があります。そういうことのないように、S先生に代務者をお願いしました。

先生は快く引きくけてくださいました。先生には私の支援会の代表世話人をお引き受けいただいていますの

で、教団における私の免職のこともよくご存じですので、船越教会の代務者を先生にお願いした次第です。

教会員のみなさんもそのことをご理解いただきたいと思います。

過日「船越教会のこれから」というテーマで開催された修養会で話し合われたことでもありますが、船越教

会の横須賀平和センター宣言に則した横須賀平和センターの活動への模索の開始です。私とTさんとHさんが

その委員に選ばれました。今後平和センターを起点として少人数の船越教会ではありますが、何ができるか

を模索していきたいと思っています。3人の委員がそれをするというのではなく、みなさんのお知恵をかりな

がら、具体的な行動をみんなで模索するということですので、声をかけますのでどうぞご協力をよろしくお

願いいたします。

・13日には私の支援会の神奈川世話人会と事務局会の集まりがありました。支援会として10月29日に教団

総会の会期中に「全国交流集会」を持ちましたが、夜9時からの集会でしたが、教団総会出席議員を中心に約

120名の参加者がありました。この全国交流集会の報告と、私の免職撤回と聖餐論議の場の設定を求める、神

奈川教区と大阪教区の二つの議案が、議長の「これらの議案は教憲に抵触するので上程しない」という独断

によって葬られたことを中心にした教団総会についての記事を加えて、通信第12号を12月の中旬に印刷発送

することを決めました。支援会の今後の活動については、年が明けて2月ごろに世話人会を開き、今後の方

針と具体的行動指針のようなものを考えて、3月から4月初めに予定しています。第3回支援会総会に提起でき

るようにしていきたいということが確認されました。

・さて、15日の土曜日には、池袋で過日帰天されたOさんの「Oですが・・・・・・」という追悼集会があり、

葬儀には出席できなかったので私も出席しました。私とOさんとは同世代ですので、若い時から間接的ですが、

Oさんのことは知っていました。特に1971年の山手教会で行われた第47回東京教区総会には、私も当時東京教

区東支区にある足立梅田教会の主任担任教師として行きましたが、入り口にはバリケードが築かれていて、

問題提起者の入場を規制しようとしていました。確かその検問体制を受け入れなければ総会会場の中に入るこ

とができませんでした。私はそのことを潔しとせず、中には入らないで外で見守っていました。その時Oさん

たちの反万博共闘の仲間が旗竿を振って、ガードマンのような会場係の人たち(その中には足立梅田教会出

身の東神大生もいたので、びっくりしました)とやり合っていたのを見ています。その後私は、紅葉坂教会

の伝道師を3年して、77年4月には名古屋の御器所教会の牧師になりましたので、Oさんとの関係は、間接的

にもほとんどありませんでした。95年に紅葉坂教会の牧師になって横浜に帰って、Yさんが帰天してから、O

さんたちが毎年年末に行っていたYさんの記念集会や関東神学ゼミナールの夏期合宿には何回か(それぞれ4

,5回になるか?)参加させてもらっていましたので、親しくさせていただいていました。私の戒規免職の

裁判を起こしてからは、夏期合宿にもなかなか参加できず、少し疎遠になっていました。紅葉坂教会時代に

日曜学校で戦争体験を話してもらおうと、沖縄の元ひめゆり学徒のUさんをお呼びしたことがあります。実

は私が小田原さんに、戦争体験をした沖縄の人で東京近辺に住んでいて、紅葉坂教会にお呼びすることの

できる人はいないか相談したのです。すると丁寧なお手紙をいただいて紹介してくれたのがUさんでした。

懐かしく思い出しています。